勇者の天分 ~いじめられっ子、勇者になる~

マッコウクジラ

第1話


 雲一つない青空に高く昇る陽の光が射しこみ出した教室中にチャイムの音が鳴り響く。

 日本の飛鳥時代に関する知識を黒板全面に羅列した教師への感謝を述べ終えると、生徒たちは昼食を取るため思い思いの行動を始める。

 ある者は後ろの机に自身のそれを突き合わせ、母の作った弁当を探るためリュックの中に手を突っ込み、またある者はパンを買うため、幾人かの連れとともに購買部へ向かう。

 その最中、一人の少年だけはまだ右手にシャープペンシルを握り、板書された文字をノートに写している。その角ばった丁寧な字や彼の机の隅にまとめられた消しカスの多さから、きれいに書写しなければ気が済まない几帳面な性格がうかがわれる。

 今しがた書いた漢字の形のバランスが納得いかなかった少年は、シャーペンを置き、その白く細い指で消しゴムをつまむ。

 その途端、彼のノートに銀色の50円玉が降ってきた。


「カレーパンとクリームパンな」


 鼠田宙太そだちゅうたは急ぎ硬貨を握りしめ、指示されたパンを買いに教室を出た。廊下を談笑しながら歩くグループたちを次々と追い越し、一心不乱に購買を目指す。

 目的地に着いた時には、すでに販売物へと群がる人垣ができていた。彼はその中へ飛び込むなり、カレーパン、クリームパン、としきりに声を出した。

 その甲斐あって、彼は早いうちにパンを買うことができた。ズボンのポケットから財布を取り出し、今まで握っていた50円をそこに入れ、替わりに出した200円玉を販売員の中年女性の手に乗せる。

 カレーパンもクリームパンも共に100円。宙太に渡されたのは50円だから、これでは150円分を彼が自腹で払ったことになる。

 しかしその損失を、宙太が相手に請求することはない。


 牛山猛うしやまたけしは自身が与えた50円を持って教室を出て行くクラスメイトの後ろ姿を眺め終えると、黒板へと向かい、そこに書かれた文字列を消し始めた。

 ところが彼は途中で黒板消しから手を放す。彼が消したのは、買い物を頼んだ少年がまだノートに写し終えていない箇所だけだった。

 パンが届くまでの間、猛はクラスの友人たちの輪に自然と入り込み、他愛のない話に耳を傾けながら、スマートフォンをいじっていた。

 そこには中学生時代からの付き合いである彼女が送って来たメッセージが通知されていた。この彼女とは別の高校のため、スマートフォン越しのやりとりがこの時間における彼らのコミュニケーションだった。

 

 教室にカレーパンとクリームパンが入った袋の口を握りしめた宙太が入ってくる。彼は隅に集まっている男子生徒の輪の中でも一際背丈の高い猛の背中を見つけると、一目散に向かった。

 そして依頼主の横顔にパンを差し出す。


「おせーぞ、チュータ」


 宙太はそう言われてただ一言、ごめん、とつぶやいた。

いつもと比べ遅くはなかったのだが、猛はこの昼の恋人とのやりとりが済み、手持ち無沙汰だったのである。

 買物から解放された宙太はノートの続きを取ろうと思いイスに座ってシャーペンを握り黒板へ目を向けたが、わざわざご丁寧にその箇所だけ消されたのを知り、一呼吸吐いてパタンとノートを閉じた。


      ※


「いらっしゃいませ」


 放課後、宙太は街の一角にある古びた本屋でアルバイトをしていた。両隣には新築のオフィスビルが建っており、黒ずんだ染みに侵された薄汚い外観がますます強調される。客の入りもまばらで、潰れないのが不思議なくらいだった。

 

「鼠田くん、いつも言ってるけど、もっと明るい声で」


 額の広い、あごにひげをたくわえた、白いTシャツと青色のスラックスの上にエプロンを羽織った店長が耳打ちする。宙太はすぐに、すみませんと返し、頭を軽く下げた。

 しかし、いま入ってきた客は宙太が最も苦手な集団――楽しいを信条とした徒党を組み、周囲のことなど意に介さず大声で騒ぎ、健康で溌溂はつらつとした、ちょうど自分と同い年くらいの少年少女たちの群れ――だったのである。

 鼠田宙太は小さい頃から集団行動を不得手ふえてとしていた。他人といると彼らの自分への評価が猛烈に気になってしまい、些細な文句を受けただけでも三日三晩は苦悩するほどだ。要するに、宙太にとって他人はくたびれる存在なのである。

 それでも小学、中学までは何とかやってこられた。友人はないものの、平穏無事な日々を過ごせた。ところが高校に入学し、宙太の安居あんきょはいとも容易たやすく壊されたのである。

 初日からその体格を存分に生かし、クラスのリーダーたる雰囲気をかもし出していた牛山猛に、なぜか目をつけられ、からかわれ始めたのである。そして教室中に、こいつはいじってもよい、という空気を作り出した。それ以来、宙太は猛とその取り巻きに何かといいように利用された。昼飯の買い出しはその一例である。

 元来虚弱で気の弱い宙太には言葉による抵抗も、まして暴力に訴えることなどできるはずもなかった。集団生活をいる上に、このような事態が待ち受けている高校は、彼に苦痛しかもたらさなかった。

 

「あの、店長、帰りにこれ買っていきますね」

「あいよ」


 そんな彼にとって、人生において唯一と言ってもよい楽しみが、漫画を読むことだった。アルバイトも、それらを買う資金のために始めたものだ。

 宙太が特に好むのは、少年漫画の冒険ファンタジーであった。

 現実には決してない、夢と希望と驚きと興奮が見事に調和した甘美かんびな世界が舞台。そこで主人公は泣き笑い、気の良い仲間たちと苦楽を共にし、時にはヒロインとの恋愛を重ね、成長していく。その過程を見守るのが何よりも喜びだった。

 読みふける度に宙太は、たとえ一時いっときにせよ、辛い境遇を忘れることができた。彼が時折流す涙は、ベッドに潜り惨めな将来を悲観した時より、架空の人物が劇的に死んだりした時のほうが多かった。


      ※


「ただいま」


 この日、宙太はアルバイトがないので日が暮れる前に帰宅した。おかえり、と母の声が居間から玄関へ響く。母も今日は休日であった。そして午後7時前に中学生でテニス部の妹も家に着く。一家揃そろっての夕飯は久しぶりだった。

 食卓にはメインディッシュのエビフライが真ん中に置かれ、あとは各人の前に白いご飯と小盛りのサラダ、麦茶、そしてソースを入れた小皿がある。

 いただきます、と言った後、聞こえるのはテレビのキャスターがニュースを読み上げる声だけだった。母も、妹も、そして宙太も黙々と箸を動かし、食べる。

 宙太が本日5個目のエビフライに箸を伸ばした時だった。テレビから「いじめを苦に中学生が自殺」という報道が流れた。彼はエビフライにソースをつけ、極めて無関心を装(よそお)いながら、口の中へと入れた。


「いつも思うんだけどさ」


 妹がぽつりともらす。母が一言、なに、と応じた。


「死ぬくらいなら、いじめっ子を殺せばいいと思わない?」


 あまりにつっけんどんな口調だったが、母は、あんたの部活でもあるの、とだけ答えた。妹のほうも、そんなのないない、と言ったきり、自身の意見に満足したのか、それ以上口にすることなく、ソースを塗ったご飯を頬張る。

 できるわけがない、と宙太は心の中でつぶやく。もし殺したりしたら、どれだけ家族に迷惑が及ぶだろう。一気に加害者家族の仲間入りである。特にインターネット社会の現代なら、犯人の名前のみならずその家族も簡単に特定できる。それらの情報がネット上で半永久的に残るのだ。

 それに、相手に非があっても殺人は殺人だ。自分が嫌なことをされているからと、平気でそれを行える者ならば、いじめの対象になんかならないだろう。いじめ加害者は、自分が安全に危害を加えられる者を見分ける嗅覚が抜群だ。

 人を殺すことはできない、でもこれ以上辛い思いはしたくない。そうやって極限まで追い込まれ、いっそ消えてしまえば楽になる、そうやって死を選ぶのではないか。

 ただ宙太は、自殺した彼にもお気に入りの漫画があっただろうか、もしそうなら続きが読めなくなるじゃないか、とだけ思うのだった。


 夕食を済ませ、宙太が自室で漫画を読んでいると、スマートフォンにメールが届いた。その中身は、今すぐコンビニの前まで来い、という牛山猛からのメッセージだった。

 コンビニと書かれただけだったが、宙太にはすぐに場所が分かった。もう何回もそこに呼び出されているのだ。ため息をついて財布をポケットに入れた後、彼は母親に、ちょっと出かけてくる、と言い、家を出た。

 コンビニの前にはすでに猛がいたが、彼の隣りにもう一人の少年がいる。猛の中学時代からの親友で、宙太のクラスメイトでもある、竜野辰彦たつのたつひこであった。

 

「チュータ、金貸してくれや」


 猛は宙太が着くなり間髪入れずこう言った。やっぱりか、と宙太は思う。呼び出されるのはいつも無心される時だ。借りた猛が返済したことなど一度もない。

 本屋へ落とすために貯めたバイト代を他人に奪われるのはしゃくであった宙太だが、やはり抵抗することなく1万円を差し出す。彼らはこの金額でなければ許してくれなかった。


「タツ、これで寿司でも食おうぜ」

「いいねえ」


 猛と辰彦はもう用済みだと言わんばかりに宙太を無視して歩き始める。宙太も家が同じ方角なので2人の後ろについて行く形になった。

 交差点に差し掛かり、信号が青色の横断歩道を渡っていた時だった。


「危ない!」


 誰彼ない声が宙太たちに警告するも、それは最早避けられない惨事だった。横から迫ってくるトラックを彼らは眺めるしかできなかった。


「うわああああ!」


 トラックが3人を轢き飛ばした。 

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