それから一週間ほどが経ったある日。

 一花はいつも通り、セットしていない髪とやる気のない服装で、駅前にいた。小さなショルダーバッグからスマートフォンを出し、時間を確認する。待ち合わせの時間から数分が過ぎていた。あと一分だけ待って、相手が来なかったら帰ろうと決める。

 いつの日か声をかけてきた誰かさんに、いつもと同じように葉月の電話番号を口頭で伝えた。まるで自分の番号かのように、当然のように。

 しかし今回は全くもって予想外であった。一花は電話の相手が誰だったかを思い出そうとしたが、その努力が無駄だとすぐに気づく。電話での会話でいつ声をかけたかについて話してもらったが、全くもって思い出せなかった。正確には向こうが勝手にいつ会ったかを話してくれたのだが、結果は変わらないので言い直す必要もなかったかもしれない。それに、一花は失礼な聞き方をする手間が省けた、とくらいにしか思わず、思い出せないことに対しての申し訳なさはあまり持ちあわせていなかった。

「あれ、お姉さんひとり?」

 こんな感じで、真昼間から声掛けに勤しむ人を見ると、哀れとしか思わないのだ。いちいち顔を覚えること自体、面倒で煩わしい。

「結構です」

 脳内で数回分の会話を予想して、先に断りをいれておく。

 だが、そう上手くいくなら今回みたいなことにはならないのだ。

 相手が来るまで、だったら連れも一緒に、なんてことを簡単に、何も考えずに言ってくる。舌打ちをしそうになって、急いでそれを堪えた。

 しかしここから下手に動くこともできない。一花はこれから会う相手の顔を全く覚えていないのだ。せめて指定された場所にいなければ向こうも一花を見つけられないかもしれない。

「お待たせ」

 聞こえないふりを突き通している一花に、これもまた知らない青年が声をかけてきた。今日はそういう日なのか。さっさとこの場所を離れて、ついでに帰ってしまおう、と一花は決める。自分で定めた一分は、既に過ぎていた。

「それじゃ、失礼します」

 そう言って、改札をくぐってしまえばこっちの勝ちだった。しかし、その言葉を発したのは、一花ではなく、後から声をかけてきた青年だった。その流れで、青年は一花の手を握り、その場から駆け足で抜け出した。

「ちょっと、離して」

 抵抗をするが、非力の一花では振り切れるはずもなく、そのまま賑やかな通りへ入っていった。人酔いをしやすい一花は顔をしかめるだけしかめ、先導する青年のあとを追う他なかった。

「ここまで来れば大丈夫でしょ」

 やっとのことで止まった青年は、人通りが途切れそうにない大通りを眺めながら言った。一本道を外れれば、人はそこまで多くない。一花は自分の手を掴んでいる青年の手を振り払い、その場にしゃがみこんだ。

 普段からそこまで動いているわけではないので、疲労がすぐに襲ってくる。体力を使う仕事をしているとはいえ、長距離を走るわけではない。いつも使わないところが刺激され、身体に少しの痛みが残った。

「……で、あんたは誰」

 視線を青年の顔に向ける。綺麗に染められた金髪は後ろで小さくひとつに括られている。やけに整った顔立ちをしていた。青年は一花と目線を合わせるためにしゃがみこみ、にこりと笑った。

「初めまして、『一花ちゃん』」

「……ああ、そういうこと」

 何年も使っている黒いキャップを目深に被り直した。日差しの強さに眩暈がする。誤魔化すように小さく息を吐いた。

 つまり、目の前にいるこの青年が、葉月から電話番号を聞き出し、しつこくアプローチをかけてきた例の人、ということだ。妙に慣れている感じからして、相当な数をこなしてきたのだろう。似たようなことをしている人物を一人思い出してしまい、また息を吐く。

「俺と待ち合わせしてただけなのに、随分人気者なんだね」

「嫌味を言うために呼び出したなら帰る」

「少し遅れてきただけでそんなに怒る? それとも、何か期待してた?」

「なるほど。帰るわ」

 言葉とは裏腹に、立ち眩みでよろけてしまう一花を青年は咄嗟に支えた。変わらない笑顔を浮かべたまま、青年は再び一花の手を取り、一歩先を行く。

「とりあえず、人気のないところでひっそりと営んでいる、小さな喫茶店とか、どう?」

「お構いなく」

 一花の返事を同意と捉えた青年は、そのまま人通りから離れる方向へ歩き始めた。この数分で人混みが苦手だと察知したのなら恐ろしい、と考えながら一花は後に続いた。

 その後もいくつか、一花の癪に触るエスコートをする青年は、十分ほど歩いたところで立ち止まった。

 自分の右側を当然のように歩き、これ以上広がりそうもない世間話をする青年は、時折一花の表情を確認するようにわざわざ屈んでこちらの顔色を確認していた。二十センチメートルほどの身長差があり、尚且つ一花は目深にキャップを被ったままなので仕方がないといえばそうであるが、本人はいちいち様子を窺われるのが鬱陶しくなっていたところだ。これ以上歩くようだったら、一言ぐらい文句を言っていたかもしれない。

 青年は常連のように喫茶店の扉を引き、先に一花を店内に誘導した。

 なかなか店内に入る気配のない一花に声をかけたのは、青年ではなく店内にいた少女であった。

「あれ、郁くんと、一花さんまで」

 一花はわざわざカウンターから出てきてくれた少女に軽く会釈をした。青年は一花と少女を交互に見て、分かりやすく首を傾げる。

「七絵、奥のテーブル席空いてる?」

「はい。ランチのピーク終わって、今は誰もいないですよ」

 オーナーの白河七絵の返事を聞き、一花は喫茶店に入る。扉を押さえっぱなしだった青年も後に続く。扉についた鈴が心地よい音で鳴った。

 慣れた様子で一番奥の二人席の壁側に座った一花は、キャップを取り、額に溜まった汗を手の甲で拭った。その向かいに腰を下ろす青年は一花が見やすいようにメニューを向ける。一花はそれを見ずに視線で七絵を呼んだ。

「オレンジジュースの氷なし」

「郁くんはどうする?」

「じゃあ、アイスティーを、ストレートで」

 七絵がカウンターの裏へ消えたのを確認してから、一花は青年の方を向いた。先に出されていたお冷を飲む青年は、顔色を変えずにいる。

「ここ知ってたんだ」

「縁があってね」

 会話が途切れる。

 青年は続けて話をしようと口を開くのを見て、一花は短く質問をした。

「何の用?」

 青年はにこりと笑い、机に肩肘をついた。一花は縮む距離感を保つためにソファの背もたれに寄りかかる。

「何って。一花ちゃんに会いたくて、連絡したんだよ」

「で、目的は?」

 一花は言い方を変えてもう一度尋ねた。

「それよりも自己紹介しようよ。俺、一花ちゃんの名前しか知らないし」

 しかし青年は分かりやすく話題を変える。その態度に一花は小さく舌打ちをした。投げ出していた足を組み、青年の顔を見る。黒く長い前髪の奥からこれもまた黒く光のない目で見られていることは、もちろん青年からも分かる。今日会ってから初めて目が合ったかもしれない。そう一花は思って、目を伏せた。こういう相手に目を合わせるのはダメな気がしている。対して青年の表情は全く変わらず、一花のことを見ている。正確には観察されていた。そしてそのまま、自分のことを話し始める。

「俺は高元郁。高校生。これ学生証」

 一花には、そう笑うことに慣れすぎて、それ以外の表情を知らないように思えた。

 学生証に一度視線をやり、高校名を確認する。どこかで目にしたことがある気もしたが、思い出す作業が面倒ですぐにやめてしまった。

 七絵が二人分の飲み物を運んできた。一花はお礼を言い、一口ストローでオレンジジュースを飲む。

 相手は変わらない笑みのままでいる。それがあまりにも不自然であると、本人は気づいているのだろうか。一花は自分に上手に会話を進める能力がないことを恨めしく思いながら、郁の質問に受け身になって何度か質問に答えた。

 この間、一花はようやくどこで声をかけられ、自分の連絡先のように葉月の連絡先を教えたのかを思い出した。何の変哲もない声の掛け方と距離の詰めようだった気がする。

「一花ちゃんはさ、どうして俺に会おうと思ったわけ?」

 マンネリ化になると悟った郁は、一花にそう尋ねた。氷を抜いたオレンジジュースをストローでかき混ぜていた一花は郁を一瞥し馬鹿にしたように鼻で笑う。

 もともとこうなったのは、自分の日頃の行いと、葉月の気の迷いのせいだ。さっさと帰ってしまおうと思っていた一花だったが、そういうのを許してくれそうな相手でないことは既に分かっていた。しかし早くこの状況から逃げ出して、ゆっくりとした休日を過ごしたいという思いは変わらない。この予定のためにわざわざ有り余っている有給を消化したのだ。

「薄っぺらい笑顔を浮かべてる人に、何を話せって言うの?」

 唐突すぎたかもしれない、と思ったが、それ以上に無駄な時間を過ごしていることを考慮すれば問題ないと自己解決させる。

「今そう感じているとして、ここまで付き合ってくれてるのは何で?」

 少しだけ頬が引きつっているように見えた。そんな郁に対して、一花は表情を変えずに同じトーンで言葉を続ける。

「かわいそうだと思ったから」

 ピタリと時間が止まったように思えた。正確には郁がまとっていた余裕さがなくなり、思考は停止していた。

「その薄っぺらい笑顔を取る気になったらまた誘ってね」

 できた隙を見逃さず、一花はそう言いながら席を立った。去り際に郁の肩を軽くたたく。それが合図のようにようやく郁は喫茶店を出ようとする一花の方に身体を向けた。ごちそうさま、とカウンターにいた七絵に軽く手を振る一花に聞こえるように、少し声を張る。

「あの、一花ちゃんは」

「その『一花ちゃん』っての、気持ち悪いからやめて。呼び捨てでいいから」

 カラン、と扉についた鈴が店内に響く。一花はそのまま喫茶店を後にした。代わりに入ってきた熱気のせいなのか、郁の頬に汗がつたる。

 少しあげていた腰を再び下ろした。溶けた氷が音を立ててアイスティーに沈む。目の前には半分ほど減ったオレンジジュースが残っている。

 何を間違えたのだろうか。郁は顔には出さず、今日のことを思い返そうとした。何もかもいつも通りのはずだ。

「七絵さん」

 一花の残したオレンジジュースを取りに来た七絵に、郁は声をかける。七絵は近くの椅子を引き、郁の隣に座った。

「あの人、知り合いなんですよね」

 郁は常連だという一花の顔を思い出そうとしたが、その表情まで思い返すことはできなかった。長い前髪の奥で、もしかしたら馬鹿にされていたのかもしれない。

「よく来てくれるからねぇ。郁くんこそ、一花さんと知り合いなのかと思ってたけど違うの?」

「最近、知り合ったんです」

 だからまだよく知らなくて、と郁は残念そうな笑みを見せた。

「うーん、あんまり自分について話さない人だからなぁ」

 喫茶店によく来てくれるとはいえ、ほとんど七絵の近況報告のような会話しかしていない。一花が聞き上手なのか、あまり自分のことを話したくないのか。それともその両方か。

「これは、あんまり話しちゃいけないことなんだろうけど」

 店内には他に人がいないにも関わらず、七絵は郁にだけ聞こえるように、小さな声で耳打ちをした。

「私が知ってるのも、神様ってことぐらいだもん」

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