第5話
***
最初の違和感は、倉科の背中を見ながら歩いていることに気付いたことだった。一緒になんて帰ったことのないはずの倉科が、何の迷いもなくあかりの家へと向かう道のりを歩いて行く。たまたま知っていただけかもしれない。そう思い込もうとしたけれど――小さな違和感はだんだん大きくなっていく。
あと少しであかりの自宅に着くというところで、分かれ道に差し掛かった。
ここを左だよ、あかりがそう声を掛けるよりも早く――倉科は右へと曲がった。
その道は人通りが多く、あかりの家へは遠回りになる。けれど、人気のない道を歩くのが怖くて――あかりがこの二ヶ月通っていた道だった。
「すっかり遅くなっちゃったね」
倉科はそう言いながらも、何の迷いもなく大通りを歩いて行く。
「う、うん。そうだね……」
返事をしながらも、あかりの頭の中には嫌な考えがぐるぐると渦を巻くようにして次から次へと浮かんでくる。
倉科とは今まで話したこともなければ接点もない。そんな彼が、あかりにつきまとう理由なんてあるわけない。そう思うと同時に、ではどうして自分の家へと向かう道を知っているのか。それも、この二ヶ月通ってきた道を。と、いう疑問が浮かんでくる。
どうしたらいいのだろう、あかりがそう思っていると、少し前を歩く倉科が唐突に振り返った。
「ねえ、道ってこっちであってた?」
「え……?」
「適当に曲がっちゃったけど……」
倉科の心配そうな声に、あかりはホッと息を吐き出した。なんだ、自分の考えすぎだったのか、と。そして、笑みを浮かべると倉科の隣へと並んだ。
「本当はね、さっきのところを左に曲がった方が近道なんだけど、こっちからでも帰れるから大丈夫だよ」
「そっか! ならよかった」
不安な気持ちが疑心暗鬼にさせるとはいえ、同級生を疑うなんて……。あかりは、小さく首を振ると、両手を合わせると倉科に言った。
「この道ね、変な人にあとをつけられるようになってから遠回りだけど毎日通ってた道だったの」
「……へえ」
「だから、その……倉科君があまりにも当たり前のようにこの道を歩いて行くから……まさかって……。そんなわけないのにね! 変なこと思っちゃってホントごめんなさい!」
「…………」
「倉科君?」
頭を下げるあかりに、倉科はなぜか黙ったままだった。不安になって恐る恐る顔を上げると、倉科は口を開いた。
「そっか、その偶然は怖いよね」
「う、うん」
「大丈夫。そんなことで俺、怒ったりしないから」
柔らかい口調で倉科は言うけれど、犯人だと疑われて嫌な気持ちになったかもしれない。不安になったあかりはそっと倉科の顔を盗み見た。けれど、街灯の下にいるはずの倉科の表情は、あかりの位置からは上手く見ることが出来なかった。
「倉科く……」
「じゃあ、行こうか」
倉科の声に促されるようにあかりは歩き出した。薄暗い帰り道を、倉科と二人きりで。
誰もいない家のドアを開け、あかりが「ただいま」と言って家に入ると、あとから入った倉科も「おじゃまします」と言ってドアを閉めた。
「それじゃあ、準備してくるから待っててね」
「わかった。焦らなくていいからね」
「ありがとう」
玄関に倉科を残し、あかりは二階にある自室へと向かった。美和の家に何日いるかはわからなかったけれど、一通りの教科書とノート、それから数日分の服を修学旅行の時に使ったボストンバッグに詰めた。
他に必要なものはないか確認しようと立ち上がった――そのとき、ギシッと階段が軋む音が聞こえた気がした。
最初は気のせいだと思ったその音は、だんだんと大きくなって近づいてくる。
「く、倉科君……?」
恐る恐る問いかけてみるけれど、答えはない。どうして何の返事もないのか。もしかして倉科ではないのか。でも、もし倉科じゃないとしたら、いったい誰なのか……。
あかりの頭の中でたくさんの疑問がぐるぐると回る。全身が心臓になったみたいに、鼓動の音がうるさい。
その瞬間、ミシッという音を立てて、足音はあかりの部屋の前で止まった。
「倉科君……だよね?」
あかりの呼びかけに、返事はなく――代わりに、ドアノブが回る音が聞こえた。
「倉科君!!」
「……はーい、倉科くんでーす」
あかりの叫び声に答えるように、開いたドアの隙間から、ニッコリ笑った倉科が顔を出した。
その姿に安心したあかりは、その場にへたり込んでしまった。
「もう……! ビックリしたんだから!」
「ごめん、ごめん」
冗談にしても度が過ぎている。怒ったように声を荒らげるあかりに、倉科は後ろ手でドアを閉めると張り付いたような笑顔を浮かべたまま、口を開いた。
「やっと、二人きりになれたね」
言われた言葉の意味がわからず、でも張り付いたような笑顔を浮かべる倉科に言いようのない恐怖を感じたあかりは、何も言えないまま倉科を見上げていた。そんなあかりを見下ろすようにして倉科は笑顔のまま近づいてくる。
「ああ、やっと二人きりになれた。ずっとこうやって二人きりになりたかったんだ。知ってたでしょう?」
「なにを……言ってるの……?」
「それなのに、ストーカーだなんて酷いなあ。でも、許してあげる。俺と遠藤さん――ううん、あかりの仲だもんね」
あかりの言葉なんて聞こえていないように、倉科は薄気味悪い笑顔を浮かべながらあかりの目の前に立つと、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「あなたが、あとをつけてたの……? いったい、どうして……?」
「どうして? そんなのあかりが好きだからに決まってるだろう? 好きだからそばにいたかった。あかりだってそうだろう? 俺と一緒にいたいって思ってくれてるって知ってたよ」
「そ、そんなこと思ってない!」
「照れ隠しかな? 嘘なんてつかなくていいよ。いつも俺が微笑みかけたら嬉しそうに笑ってくれたじゃないか。沖野と話してるふりをしながら俺のことを見つめてたこと、気付いてたよ。あかりは恥ずかしがり屋だから、俺から話しかけてあげなきゃってずっと思ってたんだ」
この人は、おかしい。狂っている。
笑っているはずの倉科の目には光がない。あかりを見ているようで、その目が本当はどこを見つめているのか、目の前にいるはずのあかりにさえわからないのだ。
「だから、榊と沖野には悪いけど利用させてもらったよ」
「利用って……美和ちゃんに頼まれたんじゃあ……?」
「ああ、あのメール? あんなの嘘だよ。だいたい俺、沖野の連絡先なんて知らないし」
悪びれもなく言うと、倉科はあかりの頬に手を伸ばした。
「嘘をついたこと怒ってる? でも、そうでもしないと二人きりになれなかったんだ。わかってくれるよね?」
「やめて!」
伸ばされた手が頬に触れた瞬間、あかりは反射的に倉科の身体を突き飛ばした。不意をつかれた倉科は、体勢を崩し後ろに倒れ込む。
(今だ!)
あかりがその場から逃げだそうとした瞬間――パシンッという乾いた音が部屋に響いた。
一瞬、何の音なのかあかりにはわからなかった。けれど、頬に走る痛みが、目の前のこの人に叩かれたのだと教えてくれた。
痛みは恐怖を増長させる。立ち上がろうとしたはずの足はすくみ、再びその場に座り込んでしまう。
そんなあかりの頬に、もう一度倉科が触れた。
「あーあ、赤くなっちゃった。あかりがいい子でいたらこんなことしなくてすむんだ。わかった?」
「…………」
唇をかみしめながらあかりは俯く。何か喋れば涙が溢れそうで、食いしばることしかできなかった。けれど……。
――パシッ
そんなあかりの頬を、再び熱い痛みが走った。
「返事は?」
「わかった……」
――パシッ
次は反対側の頬に。
「なっ……」
「わかりました、でしょ?」
「わかり、ました……」
「よろしい」
微笑む倉科に、あかりの頬には我慢しきれなくなった涙がこぼれ落ちていく。
目の前で微笑む、この得体の知れない男が、怖くて怖くて仕方がない。
「たす、け……」
「ん? なに?」
倉科があかりの顔を覗き込もうとした瞬間、チャイムの音が家中に響いた。
一瞬、眉をひそめた倉科だったが、すぐにニッコリと笑った。
「大丈夫、すぐに帰るよ」
けれど、チャイムは何度も何度も家の中に鳴り響く。二度三度と繰り返されるにつれ、倉科は苛立ちを隠さなくなる。
「しつこいな! 誰もいないんだからさっさと帰れよ!」
怒鳴る倉科の表情が、次の瞬間固まった。
玄関の鍵の開く、ガチャリという音がはっきりと聞こえたのだ。
「たすけ……っ!!」
助けを求めなければ、そう思って叫ぶあかりの頬を、倉科は拳で殴りつけた。唇が切れたのか、あかりの口の端からは血が流れ落ちる。そんなあかりの姿を、倉科は高揚とも焦りともわからない表情で見つめる。
「ざーんねん。チェーンがかかってるから、誰も入って来れないよ」
「な、んで……」
「でも、このままだと時間の問題かもしれないね。どうする? このままだと俺たち離ればなれにされちゃうよ。そんなの嫌だよね? 嫌だよね。どうしよっか? ああ、そうだ。いっそ――二人で死んじゃおっか」
「や、やめ……」
倉科は、あかりの勉強机の上にあったはさみを手に取ると、ニッコリと笑った。
「大丈夫、すぐに俺も逝くから……」
「や、やだ! やめ……いやああああああ!!」
振り上げられたはさみに目を見開くと、どこにこんな力があったのか。あかりは、準備していたボストンバッグを振り上げると、倉科へと投げつけた。
まさかあかりが抵抗してくると思わなかったのか、倉科は壁に背中を打ち付けて座り込む。その横をすり抜けるようにして、あかりは部屋を飛び出した。
「助けて! 助けて!!!!」
「っ……たいな。どうして逃げるの? 痛いのなんて一瞬で終わるよ」
「いや!! 来ないで!!」
あかりが振り返ると、笑顔のままゆっくりと歩いてくる倉科の姿が見えた。なんとか逃げなければと、必死に階段を駆け下りる。けれど、玄関へと向かおうとするあかりの腕を、倉科が掴んだ。
「どこに行くの? 早く二人で気持ちよくなろうよ」
「やめ……!」
あかりの腕を引っ張ると、倉科は廊下の突き当たりへとあかりの身体を突き飛ばした。慌てて立ち上がるあかりの目の前には、相変わらず笑顔を浮かべた倉科の姿があった。
「捕まえた。これでもう逃げられないね」
「ひっ……!」
「さあ、一緒に――」
「あかり! しゃがんで!!」
「っ……!」
「くらしなああああ!!!」
聞こえた声に、反射的に従うと、しゃがみ込んだあかりの頭上で、ガツンッという何かがぶつかる鈍い音が聞こえた。
恐る恐る顔を上げたあかりの目の前には――倒れ込む倉科と、椅子の脚を持った榊、それから美和の姿があった。
「みわ、ちゃん……?」
「あかり!」
「美和ちゃん!!!!」
泣きじゃくるあかりの身体を抱きしめる美和の手もまた震えていた。そんな二人を見ながら、榊は動かない倉科の身体をロープのようなもので締め上げた。
「それ……」
「ああ、さっき勝手口から入るときに見つけたから持ってきたんだ。役に立つかなと思って」
「と、いうか……二人ともどうやって……。玄関、チェーンかかってるって倉科君が……」
「それね。この家、勝手口と玄関の鍵一緒だったでしょ」
美和がポケットから取り出した合鍵を見て、あかりはようやく二人が勝手口から入ってきてくれたことに気付いた。古い家で嫌だ嫌だと思っていたけれど、こんなときに役立つなんて……。
「っ……た……」
「っ……!」
頬を流れる汗を拭う榊の下で、倉科が
倉科は辺りを見回すと状況がわかったのか――ポツリと呟いた。
「ゲーム……オーバー……。あと、ちょっと、だったのに……」
そう言うと、倉科は再び目を閉じた。最後まで、笑顔を浮かべたまま――。
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