と け る
私は高校近くの公園で、放課後になる時間までブランコを漕いでいた。内蔵が浮遊する感覚が楽しくて、お化けみたいにけたけた笑う。なんだか視界に入るものぜんぶが眩しくて、美しかった。悲しさや寂しさを伴わない美しさなんて初めてだ。絶望に吹っ切って希望が溢れた人みたいになっているのが可笑しくて、また笑った。
私は、自殺したクラスメイトの幽霊に会う。
それで、最期にたくさん話をしよう。気遣いなんてなにもいらない親友みたいに。齟齬でギッタギタになることなど構わない愛しいバカみたいに。悪口をポッキーみたいにシェアする女子高生みたいに。血と眼帯と悲劇の過去と銀色のアクセサリーが好きなメンヘラ同士みたいに話をしよう。コミュニケーションが真っ青になるような気持ちのぶつけ合いをして、壊して、壊して、壊しあって、絶滅寸前の生き物みたいにあっけなく手首を切って死のう。そうしたら少しはあの猿どもも焦って、愚かさを自覚してくれるかな。そういうつもりで高田瑞希も、自殺…したのかな。
と、そう思うたびに、気にかかることがあった。
私はスマホの明度を最大まで上げた。夏は夕方でも日差しが強いから、これだけ上げてもまだ私の疲れ果てた表情が映っている。高田瑞希とのトークルームを開いて、昨日送られてきた画像──動脈血でまっ赤に濡れそぼった高田瑞希の死体──の顔面に指を滑らせて、ある部分を拡大した。
「やっぱり…なんでこんなに驚いてるの」
いじめられっ子のまま死ぬ覚悟を決めた少女の顔面にくっつくにはあまりに見開かれすぎに思える目玉だった。まるで予想外の人物に切りかかれでもしたみたいに。私は苦笑いを浮かべて、スマホを膝の上に置いて、ブランコを揺らした。
──ブブッ。
当然──なんて言うのもおかしいけれど──高田瑞希からの通知だった。
『逃げるなよ』
逃げないよ 送信。
途端、カラダがどくんっ、と跳ねた。
私のブレブレな精神状況と、死人からメッセージが来るなんていう奇天烈な事実で、すっかり気に留めていなかったけれど
誰が死体の写真を撮ったんだろう?
私のカラダが面白いぐらいに跳ねて、発汗する。もう死ぬって決めたくせになにをビビってるんだろうって笑えた。このスリルが楽しいのかも。まるでホラー映画みたいだ!
──椿みたいに真っ赤だったって。
「ほんとに誰が言ってたんだっけ」
「死ねっ」
背後で誰かが金切り声を上げて、私は無防備の後頭部を──ぽこんっ──殴られた。
混乱して荒ぶる私の視界に磨りたての墨汁みたいな黒が溢れた。橙がかった地面に近い端には空のペットボトルと誰かの色白な手があって、私は、あっ、と悲鳴を上げて…
「高田瑞希っ?」
「…………」
殴るのに勢いをつけすぎたのか、私が座っているブランコをだいぶ過ぎたところで私の高校のじゃない黒いセーラーを身にまとった少女が立ち止まって、振り向いた。
野暮ったい青縁眼鏡をかけた、高田瑞希だった。
写真で見たようなほんとうに貧相な足っきれだけれど、ちゃんと歩いて近づいてくる。足がある。荒い息遣いが鼓膜に届いてくる。教室でいつもしていたような含み笑いは消え失せて、鬼気迫るような表情で私のことを見下ろしてくる。消毒液くさいんだろう首にはなんと汗までかいていた。透明でも、青白くもない、絶対に幽霊じゃない、完ペキな生者なんだと、私はここでようやく認めざるを得なくなって、それはなぜだかとても残念で、悲しくて。そういえば高田瑞希よりも少しばかり身長が高いような気がする目の前の少女に訊いたのだ。
「あなただれ?」
少女が息を吞む気配がした。怒っているのか怯えているのか、手が微妙に震えていた。
「……どういうつもりでここに来たの」
昨日の通話相手のソプラノの声だった。質問に質問で返されて、ひょっとするとこいつもコミュニケーションに向いていないんじゃないかなと私はそんなどうでもいいことを思う。
「死ぬ前に、幽霊にでも会っておこうと思ってさ」
「思考能力無くなってるじゃん。お姉ちゃんはもう私たちの前にはえいえんに現れないよ」
「お姉ちゃん?」
「双子だよっ」
声がもう泣いていて、今度は頭頂部を空のペットボトルではたかれた。ぽこんっ、ぽこんっ、と軽快な音が高い夕空に響いて、私はカラダを脱力させていた。双子だとは知らなかった。遺族の莫大な悲しみと怒りを前に、私はひどく不誠実に途方に暮れるほかなかった。
やがて高田瑞希の妹がささやかな復讐を一旦止め、肩を上下させながら訊いてきた。
「ていうか、なに、死ぬ前にって」
「自殺するんだ」
高田瑞希の妹が「は?」と声を漏らして、私は双子が同じ年齢であることを朝方の夢みたいに思い出した。なんだか妹の方は随分と幼く感じられる。子どもみたいに泣いて怒っているからかな。
「私もメンヘラだったみたいなんだ」
「なに、それ」
妹は純粋に驚いたという風な顔をして、隣のブランコに腰を下ろした。黒い髪で天蓋みたいに囲われた顔から透明な液体がぽたり、と落ちる。ああ嫌だなあ涙だろうなあと思ったけれど、地面に落ちたそれには少し粘着性があるみたいで砂になかなか染み込んでいかなくて、もしかすると涎なのかもしれなかった。
「あの写真、あんたが撮ったの」
「そうだけど」
「昨日から私にメッセージを送ってきてたのも、あんたでしょ」
「そうだよ! なに? あんたあんたってあんっ…お前が偉ぶらないでくれる? このっ、クズ。殺人者!」
「殺人者…」
ブレブレの弧を描いて道路の方に飛んでいく空のペットボトルを見送って、私はもうとうに味のなくなったガムを咀嚼するみたいに元は泣きたくなるほど恐ろしい味がしたんだろうその単語を呟いた。
さつじんしゃ。
「違う。私が殺したんじゃなくてあいつがかっ…」
コォンッ、とむせた。
ダメだ。ダメだ。それだけは言えない。
高田瑞希の妹の心を殺しちゃうよりも前に、私が死ぬ気がする。
右のおっぱいのあばらに近いところが重力よりも重く浮力よりも軽いなにかに月からも地球からもプレスされているみたいに痛んで、私は平たい右胸を押さえた。生命力の街の音が弱った自意識を殺していく。涙が目から溢れてきた。苦しい。苦しい。呼吸が。憎い。憎い。私を苦しめる世界のすべてが。この無意味な感傷が高田瑞希よりも先に死んでいてくれたら──ああ、クラスメイトのちょうどよい幸せ──それだけでぜんぶがよかったのに。
「なに泣いてるの。気持ち悪いよ」
「高田瑞希とは仲良かったの?」
私は訊いた。それが遺族が求めている怒りの発散を最も優しく促してくれる言葉のように思えたから。
「ぜんぜん。むしろ憎しみ合ってた。バカ高校に入ってバカなフリルの服着てバカみたいに自傷してるお姉ちゃんを私は軽蔑してたし、楽しやがってって恨んでもいた。お姉ちゃんだって頭のいい高校に入って誰の目から見ても親に贔屓されてる私のことを憎んでたよ。そういう風に日記に書いてた。私、それ読んだ時に滅茶苦茶むかついた。お前が努力しなかったせいだろ、って。家のことだって私が結構やってるんだし、働かざる者食うべからずだろ、って、そんなことも分からないのかよ、って…でも、でも…でも」
妹が色んな透明を屑みたいにまき散らした。汗だったり、涎だったり、涙だったり、眩しくて美しいそれらぜんぶに生命力の音が凝縮されていっていて、私はたぶん世界でこの少女がいま一番激しく響いているんではないかな、いま一番残酷に生命を殺せる生命なのではないかなと思った。
「でも、それとこれとは違うでしょ。だってもう死んだんだ。燃やされて骨になってお墓の下に埋められたとか、そういうのとは別に、死んじゃったんだよ。もうえいえんに会えない。取り返しがつかなくなっ、たのっ、うっ…ううう、ううっ、どうしてくれ……うう、どうすんの! どうすんだよ! この殺人者ぁ!」
「高田瑞希はほんとうに死ぬ気だったのかな」
「はあ?」
「あなたがどういう気持ちであの写真を撮ったのかは知らないけど…彼女の死に顔はすごく驚いた風だった」
西日が眩しい。私は私がなにを喋っているのかあんまり分からなかった。
「いつもみたいに自傷しようとしたらうっかり動脈の深い所を切っちゃってパニックになってるうちに出血多量で死んだとか、そういうこと、だったりしないの」
「は? だったらなんだよ! もう死んでるんだからそんなの関係な…!」
「うん。関係ないんでしょ。私のせいかどうかなんて」
カシャァン──と乾いた音がして、隣を向くと、妹があんまりに弱い光をたたえたあんまりに鋭い目つきで私を見ていた。
「ただ死んだのが悲しいだけ」
他人事みたいに他人事を呟くと、妹が「なんなのお前」と顔を歪めて、キィィと可哀想な音を立ててうなだれて…それきり動かなくなった。
「同じ顔なの。私たち。双子だから、同じ顔で…」
妹が震える声で言っている。とても可哀想に思えた。自殺した姉の顔を持って生活しなければならないなんて、想像するのも罰なぐらいに、辛く苦しいことだ。ひょっとすると同じように自分も死ぬんじゃないだろうかって不安になるのも当たり前のことで、彼女を少しでも安心させてあげるのが、私のやるべきこと。
「まあ、でも、あいつがメンヘラだったからって、妹のあなたもそうだとは限らないじゃん。ていうか違うでしょ? だから、なんていうか…」
「それやめて。メンヘラって言葉で、お姉ちゃんの辛さを、苦しみを、まとめないでよ。他の少年少女とひとくくりにしやがるな! そんなのは殺人とは別の人を殺す行為だ。最低。最低。最低だ。あんただってメンヘラじゃないよ。あんたはあんたで…苦しんでるんでしょ。だったらちゃんと苦しめよ! 自分を殺そうとすることで楽になんてなるな!」
「楽になんてなるな!」と、妹はそう繰り返しどこか遠くの方に吠えていた。瞳から放たれる光も、濁りまくった感情も、言葉もなのに、私はそれらぜんぶが目の前の私に向けて放たれているような痛みを全身全霊で肌で剥き出しになった神経で感じていた。
そのとき私はちゃんと気づいた。
──高田瑞希はもういない!
それなのに、生者の私がこんな感情を抱くのは傲慢なんじゃないのかな。悲劇のヒロインを気取っているだけなんじゃないのかな。もう取り返しがつかなくなってそれから苦しみだすことになんの意味があるんだろう。
ああ、私……
ちゃんと高田瑞希の幽霊に会いたかったんだ。
取り返しがつかなくなったことを取り返したかった。「ごめんね」でも「愛してる」でも「噓」でもいいから。だってそうじゃないと、あまりに大きすぎる、感情も、恐ろしい、事実も、この頼りない胸にしまっておかなければならない。ああ。どこにも届かなくなった声だった!
それでも。
「ごめんなさい」
ぶかんっ。
濁った泡が、消えた。なんの跡形も残さずに、生命力の空気に殺されるのを、私はこの目で見届けた。
それが生きるということだった。
「うっ、お姉ちゃん、ごめんなさい…うっ、うああぁぁん!」
妹が泣きじゃくって、私は悲しくて気持ち悪くてこわくて最低でしょうがなくて震えて静かに、泣いて、時間だけがしっかりと過ぎていっていたんだと思う。停止した時間を覚えている者を殺すつもりで生かすために、或いはどういうつもりなのか知らないけれど、とにかくそうとにかくそう過ぎていって、もうどれだけそこで無意味な感傷を抱き続けていたんだろうか。
私は右手に花瓶の一片を握っていて、妹は声帯を枯れ果てさせてなお泣きじゃくろうと喘いでいた。
辺りがうす暗い。世界が動脈の緑色をいつもよりも濃く見せつけてくる。
世界は相変わらず美しいような感じがしていたんだ。
「もう取り返しがつかないのにね。つかなくなるのに」
「…?」
妹が私を見つめた。世界は一瞬、あの世みたいに静寂でしかなかった。
「私たちが意味づけたこれらはぜんぶ、無意味とは別の無意味だ」
目や鼻や口がぼろぼろと崩れ去っていきそうな、こわくなるほどに頼りない笑みを浮かべて、ああ、妹の、その瞳、悲しいぐらいに光っていた。
「意味わかんないよ。…ああ。意味なんて無いのか」
私は微かに笑んだ。妹は光って音も立てずに泣いた。
世界がぜんぶくだらなくて、相変わらず美しかった。
私は花瓶の一片をぶん投げて立ち上がった。お腹がすいたので、明日の課題をやらなくてはならないので、帰ろうとしている。生きるって面倒だから楽しい、なんて絶対に言わない。とにかく面倒は面倒だ。それはそれは死にたくなるぐらいに。とても。死にたくなるぐらいに。とても。生きること。
「さようなら」
私たちはもう会わないんだろう。
未来があると信じているからこそ、信じられる予感だった。
公園の出口でシンとしていた花瓶の一片を蹴っ飛ばした。高田瑞希の妹に呼び止められて、私は振り返らないままに立ち止まる。
「死なないでね」
「うん」
私はびっくりして、だけどそれよりびっくりするぐらいに返事はすぐに出て。ああ、私、明日も生きれる気でいたんだあ──涙がぽろぽろと溢れてきた──「あなたもね」という言葉が果たして届いたのかどうかは分からないけれど、でもそれがどっちも無意味なことだって変わりなくて、この世界には生者しかいないというのも当たり前で、私は取り返しのつかないことをいつまでたっても無意味に悲しみながら生きて逝くんだという、そんな予感が、強くした。
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