消滅
入道雲が山火事みたいに発達している、そんな朝。
最近はずっと雨の日のビニールみたいな汗を分泌している私はぐしゃんと席について、驚いた。まず席に砂まみれのペットボトルが置かれていたということ。それと、今朝もカラフルな表紙のラノベを読んでいる田中空雅が出席していたということに。私はペットボトルを空のロッカーに放って、スマホをいじった。
担任が小学生男児みたいな挨拶と共に入ってきた。「おっ、田中、来たのか」とかまたいらんことを言っていて、きっと彼はいまとびっきりの自殺衝動に駆られているんじゃないかな。出席確認の時間を今日もなんとか乗り越える。花瓶の水にコバエが群がってるのを目撃してしまって、休み時間になったら勝手に捨てようと思った。
水筒に入れてあるジンジャーエールを少し飲んで、花瓶を片手に水道に向かった。白ユリとカスミソウが一定のリズムで揺れる。高田瑞希には派手な色が似合いそうなのに、って、こういう生者の独断に安心してしまうのは私が死者を重んじているから? 相反する感情に折り合いをつけたいだけなのか、それとも、高田瑞希がこの世にはもういなくて、昨日電話した相手は生きてる他のクズい誰かだという安心を得たいだけなのか。それが分からなかった。
排水溝に水が落ちていく。流れる水のところどころに黒い点々があった。花の種かな。あ、コバエか。気持ち悪い。
白ユリとカスミソウは埃の層ができていた窓枠に横に倒しておいて、花瓶はロッカーの上にでも置いておこうと右手に掴んだままで教室に入ろうとした、ら、田中空雅がでっかい熊みたいにぬっと現れて、引いた。この引いたはダブルミーニングだ。横を過ぎようとしたけれど、図体がデカくて無理だった。野球部だったか、柔道部だったか、忘れたけれど、ほんとっ、筋肉って競技以外には邪魔だよね。
田中空雅の影が広く長く伸びている。私の影はひょろ長くって、なぜだか上半身が傾ぐように揺れていた。カラスの影が飛んできて肩をつつけば、上と下でキレイな真っ二つになってしまいそうなぐらぐら加減だ。向こうの影が近づいてきて、首から上が廊下を塗りたくる影と同化した。
「なに、なにか用?」
「俺、きもくないよ。実さんが思ってるより」
特大の舌打ちをしたら廊下に思いのほか響いちゃって笑えた。「そう」と俯く。影が蠢いて、一瞬、殴り飛ばされるのかっと身構えて…視界の中央に差し出されたスマホをまじまじと見た。
「LINE交換してくれない?」
「…クラスのグループから追加したら?」
なぜだか今度はこっちが首を傾げられる。あ、いまの言い方だとLINE交換するのはOKみたいな捉え方されちゃうのか。それにしたって、なんでそんなに困った顔をしてるんだろう、やり方が分からないとか言われても「ふうん」としか返せないよ? と、そう考えていたところで言われた。
「あの、いや…実さん、退会させられてたよ」
「ふうん。あ、そう」
完ペキに「やり方が分からない」と訊かれる気でいた私は二度も相槌を打ってしまって、うわ、動揺してる。クールぶってるのがバレて恥ずかしい。結局ハブられるのは悲しいのかよ、っかー、嫌いだ。
花瓶の口から水滴が、ぽたり、と垂れた。
「俺のせいだよね、ごめん」
「は…?」
信じられないという気持ちで顔を見上げた。目が合って、田中空雅の黒目が死にかけの蠅みたいに蠢いて、私だけが逸らさなかった。
「あの日、実さん泣いてたじゃん。あれ俺ずっと気になってて」
「それで?」
「なんか、俺もショックで、学校行きたくなくなって」
「で?」
「ごめん」
「それさ、思ってないでしょ、いや、思ってようがどうだっていいんだけど。だいたい…ああ、もういいや。なんかくだらないや」
「実さんってそういうとこあるよね」
「え? なに?」
「面倒くさがりなのかまだ分かんないけど…コミュニケーションを放棄しがちだ」
ザラザラの悪意が嵐になって私の中に吹きすさぶ。骨が軋んで、肉が叩かれて痛いし、喉が震えて、濁った心に波が立った。
ぶかんっ。澱んだ泡だ。
「なに、それ。言ったって意味ないもん。正論吐いて何が残るの? 意見交換を意見変える気ない奴としたってゴミじゃん。コミュニケーションってそんなに大事なものなの。まあ、そうなんだろうね。だから高田瑞希はハブられて自殺したんだろうね! きみさ、勝手に謝って勝手に許された気になるなよ、絶対。私のいじめを止める気なんてないくせに、申し訳なさだけ感じるなんて…ほんとっ、バカ。バカ。愚か。使い捨てのティッシュを自分で使ってる、汚らわしい、発情期のオスめ」
「…ねえ、自分だけ辛いとか思ってる? 見下してばっかで性格が悪いよ」
まさか言い返されるとは思っていなくて、頭の端っこの熱だけが徐々に冷めていった。
そして、再熱。は? 呼び止めておいてなに、一貫してアプローチしろよ。情緒不安定じゃん。
「自分だけ辛いとか思ってるのはそっちでしょ。恋した女子に否定されて登校拒否児になって、クラスメイトは頭回んないから私に標準を変えて。振られて可哀想な被害者ぽい加害者になれてよかったね? おめでとう、一番安全な立ち回り。見下すでしょ。見下すよ、私は」
「そういう上から目線がよくないんだよ。あの日も泣いてたけどさあ、なんでそうやって悲劇のヒロインを気取れるの? なんもしなかったじゃん。…高田、さんに。実さんもみんなと同じじゃん。手首を切ろうかなとか、なんでそういうことを言えるの? よく分からないよ。あのさ、人間ってコミュニケーション取らないと分かり合えない生き物なん」
「うるさい!」
誰かが耳元で叫んだと思ったら、自分だった。いったい田中空雅の鼓膜にどれほどの音量で響いたのかは知らない。訊いて聞くことがコミュニケーション? なんでよ。うるさい。ああ、こうやって突っぱねることもコミュニケーションの放棄。許されないことです。水をぶっかけられてハサミ投げられてもなお許されない、死ななきゃ許されないこと。
私は独りで生きて逝くのに向いている。高田瑞希もきっとそうだった。そこに情けも説教もいらないのに、どうしてみんな突っかかるのか。十人十色という言葉で片付けろ。多様性という言葉で無視をしろ。叩くな。注意を払うな。あっちに行け。これは命令で、コミュニケーションじゃないんです。人は独りでは生きていけないって言葉が独りの人間を殺した。だから独りの人間はそのうち絶滅する。ほんとうに救いがないよ。ああ、思い知らせてやりたい。
──憎い。
ぶかんっ。
──憎い憎い憎い憎い。
ぶかんっ、ぶかんっ。
「高田瑞希が羨ましい」
「──!」
自分が放つ音以外聞こえなかった。私は濁った泡だ。
「あいつは一抜けできたんだ。ああ、いいな! 好きでもない色合いの花を手向けられて、もう興味が無いよってそっぽ向かれて…コミュニケーションを放棄されるんだ。ちょっと、高田瑞希、私じゃなくてこういうバカに電話してよ。つくづく頭空っぽだね。人選ミスにも程があるよ。だって、私は分かってる。私は賢い。どんなに世界が残酷で汚いか知ってる。こんな猿とは全然違うっ! 私はあんたと似てるんだってば」
泡が汚い飛沫を上げては消えていく。私も消えられたら楽なのに。
クラスメイトがいつの間にか教室から顔を覗かせていて、非力なチビがなんかキレているのを楽しそうに見ていた。みんな、みんな笑っていた。
私は独りが向いているってちゃんと自覚できているのに、どうしてどうでもいはずの他人の悪意に傷ついちゃうんだろう。心なんていらない。涙なんて流れなくてよかった。手首を傷つけて、流れる血が赤いこと。自分は人間なんだと折り合いをつけて、どうにか生きざるを得なかったメンヘラたち。そういうことなのかな。ああ、ダメだ。
──最低だよあいつ。
──早く手首でも切ればいいじゃん。
こだま。
これは、私の声?
色んなものを見下し過ぎて、なんにもなれなくなっちゃった…!
「自殺しよ」
自分の音以外聞こえないのは、どうやらいま、みんなが黙ったかららしい。
花瓶が右手から滑り落ちて──パリンッ──割れた。
私はその破片の一つを握り締め、教室に入ると自分のスクールバッグを肩にかけて…駆けていった。
生命力の夏の声が、ミンミン、ジジジ、と響いている。いつもはうざったいと感じるその音がいまはとても美しいのは、私が本気であるかららしい。
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