私たちはただそうやって

井桁沙凪

発生


「これは偏見だけど、休み時間にラノベ読んだりスマホゲームやったりしてる男子にロクな奴いない。大抵きもい。だから、偏見だって。きみによってより深められた私の偏見。私は素敵な骨格と丈夫な内臓とクールな性格を持つ男子としか付き合えないっていう設定をいま作ったから、きみは除外。ていうか論外。場外。いますぐ視界から消えて。あー、なんかうざい。むかつく。私も手首切ろっかなあ!」

 放課後、べっこう飴色に染まった廊下で、汗と涙で顔を濡らしながらそう吠えて、私はいじめられだした。ほんとすげーなって思う。フィクションの所詮フィクションさを痛感しました。現実の十代の方がよっぽど残酷だよ。余命いくばくもない先生に必死の形相で叱られたって、私たちはたぶんその日の放課後に殺人的な悪口をシェアできる。

 私に振られた男子は現在も登校拒否を貫いていて、不謹慎だとか現在進行形でハブられてる私は頑張って登校してる。おかしくないかって思う。告白って必ずOKしなきゃいけないのか。みんなの子作りはだったらレイプになるんじゃないのか、って、ぜんぶ否定されるのも分かってる。おかしくないよ、だってあんまりに酷い振り方だ。断り方ってものがあるでしょう。お前だけが愛を見つけられてない。正論言われると反論できない。私は別に狂人じゃない、凡庸な十七歳の女子高生だから、奴らが口を開く前に奇声をあげて教室中をお通夜会場さながらにシーンとさせるとか机ぶん投げて数人を保健室送りにするとかができない。正論って暴力の変換だ。要するに正しくない奴は死ねってこと。死刑死刑って軽々しく叫べるのもそれ。ヒーローが退治する悪の手先は誰も殺したりしてなくて、だからお気楽にお空にキラーンッてできる。喧嘩はOKだけど争いはダメ。コンプラ的に殺しとか血はNG。銃刀法違反のない国でメイドインジャパンのアニメキャラが咥えてるのは煙草じゃなくて棒付きキャンディーっていうあまりの生々しさ。いじりはOKだけどいじめはダメ。でもいじめられっ子が正しくなければそれはいじりでよし! 面倒なことはシュレッダーにでも焼却炉にでも放り込め。


 それで隣の席の高田瑞希は死んだ。自殺した。手首の動脈を縦に切ってピューッて。椿みたいにまっ赤だったって。


 私の感想は「ちょっと待て」だった。誰も待ってくれないのに。というか待ってほしかった相手はもうこの世から消えたのに。消えた? 教室の床に引かれた黒い線。いかにもメンヘラっぽく伸ばされた黒い線。消えた。完ペキに、消滅した。私は担任が教壇に手をついて気持ち悪く涙をこぼしてる様子をとても冷めた気持ちで眺めながら気持ち悪く泣いていた。はっ? 映画でよくあるワンシーンの「あなた泣いてますけど大丈夫ですか」「え…?」なんてやり取りを「ありえねー」ってけたけた笑って観てただけの私、マジでありえない。どうして泣くの? なんの絆も結ばれてなかった。ただのクラスメイト。陰気で、ゆめかわの国の果実みたいな甘ったるい匂いをいちいち髪を梳くたびに霧散させていたいじめられっ子のメンヘラちゃん。宿題を見せ合ったりとかそういう行為すらしたことない。なのに、なんで泣くのか、分からなくて、混乱しちゃって、私はその日早退したとかそういうのはほんとにきもいなとそこだけは冷静でフツーに授業を受けて帰宅部した。

 ミーン、ジジジ。

 生命力の音がする。セミがとてもうるさい。


 汗を雨の日のビニールみたいに分泌して、私はぺたりと席についた。ここらは消毒液の匂いがする。あと花の匂いもする。死んだ生徒の机の上に花を飾るってあれはほんとうで、私はそのあまりのくだらなさに死にたくなるし、消毒液をコットンに染み込ませて首を叩くとかいう謎すぎる行為はメンヘラ界隈では慣れ親しまれているのかどうかなんて知らない。だって私はメンヘラじゃないし。ただ、衛生的なのはいいことだ。私は奴にその旨を伝えたような覚えがあるけれど、それもいまとなってはなんでもない。もう死んでるし。おしまいだし。ぜんぶ無に帰ったし。生きてる者は前を向いていこう、高田瑞希さんにご冥福を云々かんぬん、クラスメイトが自殺するのはヤバイ、って、そう思えばいいのにね。

 私は段々「卑怯だ」って思い始めている。自殺は卑怯。自傷は甘え。殺しとか血はコンプラ的にNGだって知らないのか。プリキュアとか好きそうなのに。死ぬのは、ちょっと…。生きてたらよかったじゃん。SNSでメンヘラ仲間と手首の傷の深さとか瀉血の量とか見せ合ってればよかったじゃん。気が安らぐんでしょ。なに死んでんの。ほんとに頭空っぽだね? 一人の健全な女子高生がトラウマ負っちゃったよ。どうしてくれるの。実は生きてましたって反感買ってくれるの。

 私は窓の外を見やった。とんでもなく儚い意識が、くだらない箱の喧騒から、うるさい生命力のセミの声、セミの声、草のにおい、風、熱気熱気、あ、なんて高い青空! 清潔に引かれていく白い線、ひこうき雲。なんだか感傷的になれって言われているみたいで、私は意識を手元のスマホに移した。一週間前までは騒がしかったLINEもいまでは死体みたいにシンとしている。そういえば高田瑞希のLINEは持っていたんだっけ。あ、持ってた。うわ、苺の被り物したぬいぐるみとかどんなメンヘラだよ? よろしく という文字列の下にそう打ち込もうとして、遺族にキレられたら恐ろしいなと思い直して止めた。

 最初に奴からスタンプが送られてきていた。デフォルメされた茶髪のメンヘラ男がよろしくって書かれた紙を掲げている。やば。イタ。イタタ。なんか胸が痛い。ふっと見上げると、ひこうき雲がブレていた。

 つまりこれは、物理的に身近な人間が死んだショックでとかいう嫌気がさすほどに凡庸な理由で、あと一つは、なに、罪悪感? そんな言葉で語るのはほんとうに最低だという気がしていたからあんまり考えたことがなかったけれど、でもそうなのかもと最近実感している。

 いじめられるととても心が安らいだから。

 悪意まみれの免罪符を手にした私は、闇っぽい歌をうたって錠剤の絵を描いて自殺すれば完ペキに許されるんだろうという、その予感。

 奴が上がらされていた舞台をぼんやり眺めていただけの客席から新たにリニューアルされた舞台に上がって、水を浴びてハサミ投げられて消毒液とゆめかわの果実の匂いを纏って死んだら花を手向けられて許されるんだよ、って、くだらない。きもすぎる。そんなのは絶対に嫌。だから私は舞台上で悲劇のヒロイン役を演じて生きようとしている。客席で蠢く白い頭頂部。それらを見下す。ほんとうに悪意の塊なんだ! って恐ろしくなるときもあるし、こんなことを楽しいと感じるなんて哀れな奴らめ貧相な心の持ち主め現代の病魔がって軽蔑しかできなくなるときもあって、私はそっちの方が心地いい。


──あいつマジで冷たいよね。

──ほんとにリスカしたのかな。


 担任はまだ教室に来ていなかった。階段ででも転んだかな? 空席が二つ、生きてる喧騒に振動している。高田瑞希の席と、私が登校拒否児にしたらしい田中空雅の席。意味わかんねーって苛立つ。ランドセルを背負った女の子の服がはだけている表紙の本はきもいよ。それを読んでる奴もきもいよ。なんでショックを受けるのかの理解ができない。僕の好きなモノが侮辱されても僕が好きなんだったらいいじゃん。誇りを持てよ。世界中のみんながきみの好きなモノを愛してくれるとでも思ってるの? アニオタのことは気持ち悪いって思うけれど、ドラえもんもジブリも観ます。当たり前でしょ? ばーか。もっと言ってやればよかった。悪口言って、最低だなって引けるぐらい最低になって、みんなと同じように堕ちればよかった。だってあんなに幸せそう。空っぽだから幸せいっぱい。タピオカミルクティー飲んで、イケメン俳優の話をして、好きな友だちが好きなドラマを観てなくて「あー」って声を漏らしてる。幸せそう。凡庸に幸せそう。ちょうどよく幸せそう。

 クラスメイトが死んだこと。それも事故死じゃなくて、必然的で選択的な自殺で死んだこと。関係がなかった。夏は暑くて、熱中症で人がいっぱい死ぬ。電車が人身事故で止まって、みんなは自分の時間のことだけ心配した。台風で休校になって喜んだ。帰りの便が発たなくなって不機嫌になった。土砂崩れに巻き込まれて苦しかった。関係があるから怒った。高田瑞希の死はクラスメイトに関係がなかった。だから怒る必要がなかった。それで誰にも咎められないならそれでよかった。

 なのに、なんで。

 担任が入って来た。あー、はい、おはよう。転んでればよかったのに。


 私はあの日、うだうだとうだるような暑さに汗を流して、べっこう飴色に染まって、マジでありえなく泣きながら怒った。お前なにさかってんだよ。お前らなんでそんなに通常運転なんだよ、強いな、って怒った。高田瑞希とは無関係なのに。これから関係を築けることはえいえんにない無関係なのに。

 意味が不明で気持ち悪い。私は私みたいな奴が一番嫌いだ。

目次実めつぎみのり

「あ、はい」

「鈴木遥…」

 私は顔を上げて返事をして、そのまま担任を見つめた。出席確認を律儀にする辺りがこの教師を好きになれないポイントだ。いい人なんだろうけれど、のろまで、愚鈍で、損ばかりしているのに気づけてない。利用されるためだけに生きている使い捨てのティッシュみたいな大人。他のクラスはどこもやってないですよ。自殺した生徒がいるクラスなんだから、無理にやらなくたっていいのに。

「えー、君嶋恭子…」

 あ、飛ばした。飛ばしたよ。ちゃんと飛ばした。鼻すすってる。声が小さくなった。咳払いした! っかー、なんだか恥ずかしい。クラスメイトがセンセイカワイソウみたいな視線を交わし合ってるのほんとにきもいな。

 先生、滑稽だよ。もう高田瑞希は死んでて、先生のことをどうせうざいおっさんぐらいにしか思ってなかった。先生もそれでよかったから救おうとしなかったんでしょ。もう無理しなくていいんですよ。先生が悪かろうがもうおしまいなんだから。いったいなにを悲しむの。時間の無駄だよ。嫌いだ。ずぅっと愚かになった私を見ているようで、ああ、最悪な気分。

 私は出席確認の時間をなんとか乗り越えて、その後の授業は毎日通りテキトーに聞き流して、汗で濡れたワイシャツに消毒液の匂いと花の匂いを染み込ませて、何か月間か放置した芳香剤みたいになりながら帰宅部した。

 下駄箱に入れといた運動靴の中にはセミの死骸があって、外では生命力の声がうるさいほどに響いていて。私は死骸を踏みつけて踏みつけて蓋の淵に固まったアイシャドウみたいにぐしゃぐしゃにしてから、銀色の粉塵が砂埃を含んだ風に舞い上げられるのを見届けた。ザラザラだ。私たちに内在する悪意のよう。当たったら絶対にとても痛い。血を流せばほんとうに痛みが緩和されるのかなって、一瞬、不謹慎な興味が湧いた。メンヘラって分からない。痛いときに手首切っても余計に痛いだけだと思うのに。生きてることを実感するために動脈切って死ぬって、それってけっこうな本末転倒。

 うっかりなのかな。高田瑞希のLINEについ うっかりなの? って送ってしまった。雨季の砂漠みたいな暑さとサッカー部員の野太い声と鳥かごで奏でられるモンハンのテーマのせいだ。思考がショート。情報量あぱあぱあぱ。夏だからってショートにしたけれど首が長いせいで似合わなくって泣きそう。

 キリン少女は校門を抜けて、雑木林を右手に坂道を下る。セミが鳴いている。あんなに引っ付かれて響かれたら、木、割れちゃうだろう。一つだけなら大丈夫だけれど、大勢に響かれたらひとたまりもない。人間も。ぱっくり、割れて、椿みたいにまっ赤だったって、って、誰が言ってたんだっけ。妄想かも。高田瑞希はなんとなくまっ赤が似合いそうだもんなあ。なんて聞かせたら喜びそう。ああ、もう死んでるんだってば。くそ、ほんとうにどうしちゃったんだ。家に帰ったら動物ドキュメンタリー映画でも観よう。フカヒレを作るためにヒレを切り落とされて海底でもがく鮫よりも可哀想な存在ってこの世に無い。

 コンビニエンスストアに寄った。冷房ー! パピコを買った。分け合う相手がいないことについての寂寥感を味わいたくて。二本とも食べれてラッキーとしか思えない私は一人で生きて逝くのに向いているのかもしれなかった。だってそんな実感をしても寂寥感が湧かない。

 ボトルのカタチをしたぐにゃぐにゃのプラスチックを咥えて、帰り道をたらたら歩いた。天使みたいな光が道の先で揺れている。白いでかい犬がそこからぬっと現れた。手首にリードを包帯みたいに巻いたおじさんが横を…過ぎる。チャリチャリッという冷たい音を、温かくて優しい犬が纏っている。夏になる前は二匹いたはずの白いでかい犬。若そうで、泡のない涎を垂らしてたけど、死んだんですか。片方の犬は死んじゃったんですか、って、私は未だに訊けないでいる。光が揺れていたんだろう地点で立ち止まる。私は果たして犬が死んだと聞かされるその時まで生きれているのだろうか。こわい予感がした。首筋を他人事みたいな汗が伝う。生命力の声が凝縮されていく、その粒に、私は犬みたいにぶるっと震えた。

 光はなんてことない、ただの光。なんで天使とか思ったんだろうって、拍子抜けするぐらいに。

 パピコの汁を吸った。コーヒー味を名乗るなんて後ろめたくないのっていじめたくなるぐらいに甘ったるい。うそうそ、冗談、最高だよ。なんだよ、マジになるなってー。

 たらたら歩いた。こんなのが四年後五年後に背筋を伸ばして朝のホームをちゃっちゃかヒールで歩いている様子なんて想像できない。大人のみなさんが高校生の頃はどうでしたか? 同じように無理だったなら、どうせ私も同じ道だ。人生の岐路も選択肢も実はあんまりなかったりする。

 いまはたらたら歩くのが好きな私だ。


 ──ブブッ。

 スマホが震えた。


 電源を入れて、息をのんだ。


『うっかりじゃねーよ』

『死ね』

『ていうか呪う』


 三件のメッセージは、ぜんぶ、自殺したクラスメイトの、高田瑞希から、だった。

 うそだ、と思った。白昼夢でも見てるんだなと手近なところに生えていた葉っぱを千切ってみた。嫌いな教師に正論を吐きまくって帰宅部するとか、うたたかな教室にテロリストが入って来て機関銃をぶち撃ちまくって私だけ生還するとか、そんなクリアな妄想は現実には絶対にならない。なっちゃいけないから妄想。つまり死者からのメッセージは妄想。三段論法。世界の価値観狂っちゃうよ。こんなの所詮フィクションになっちゃうじゃん。うそ、でしょ?

 やばい病人みたいに震えながらトークルームを開いたら、まっ赤な写真が送られてきた。


 雪の上に落つる、まっ赤な椿。

 なにか黒いモノの上に乗っかっている。タイヤかも。牡丹雪が上の花びらに二つ、まあるい模様を作っていた。茎がまっ二つに割かれている。やけに皺皺な花びらが二枚ある。眩しい黄色の花粉が付いためしべは随分と大きくて…。

 ──あっ。悲鳴をあげた。

 これ、高田瑞希だ。

 背景は雪じゃなくて照明に照らされたフローリングだった。タイヤに見えたそれはブランケットかブレザーで、椿は動脈血でまっ赤に濡れそぼった高田瑞希、の、死体。牡丹雪は…なぜだか見開かれている目玉だった。茎は貧相すぎる足っきれ。めしべは黄色いカバーがされた最新機種のスマホ。

 これは、死体の写真!

 私の知っている少女の抜け殻…。

 途端、カラダが心臓に成り代わったように、どくどくっ、と跳ねた。呆けた口元からいとこの玩具みたいな軽さのパピコが落下していく。ドラマで観る死体とはまったく違う、血生臭くて、凄惨で、左心房がぎゅぅぅと押されるようなおそろしさを含んだ写真だった。

 それで、私は少なくともこの写真は妄想じゃないんだと理解せざるを得なくなった。それはつまり、自殺したはずの高田瑞希からメッセージが送られてきたってことも、そうなってしまうんだけれど。空になったパピコを拾って歩き出す。スマホはまたしばらく死体になった。

 なんだろう、これは感想待ちの時間なの? 私はじゃあ うっかりとか言ってごめん と打ち込もうとして…ほんとにうっかりじゃないの? 送信。

 二歩歩いて返信がきた。

 『違う』

 びっくりしたような死に顔だね 送信。

 それからまたしばらく死人に口なし。詳細に言えば、私が帰宅してトイレに入って手を洗って部屋着に着替えて水を吐くほど飲むまでの間、高田瑞希は宿主を亡くした魂だった。さ迷っているのかどうかは分からない。誰かに乗り移っているのかもしれない。

 なみなみと注がれたジンジャーエールの側に置かれたスマホが震えた。ブブッ、ブブッ…あれっ、なんか長くない…? うそうそ、げぇっ! これ着信じゃん。脊髄に寒気が走る。脳からの指令を待たずして指が素早く動いた。「勝手に動くなよ」ってまるで他人事みたいにキレる。嫌に温い液晶画面をタッチしちゃって、不気味すぎるカウントダウンの始まり…00:01 00:02。

「あ…た、自殺してなかったの」

 すんでのところで名前を呼ばなかった。私は奴に声をかけたことすらなかったかもしれなくて、ていうかそんなことを意識したこともなかったし、死んじゃった後に親し気に振る舞われたらムカつくだろうなって思ったから。先の返信を見るに奴は自暴自棄よりの攻撃的で、なんだか呪いの力が強まりそう。もしくは──メンヘラって他人に執着することが自分の価値だと捉えてる節がどうせあるから、名前を呼んでくれたね…! って痩せっぽちのお姫様みたいに、不気味すぎる解呪をしちゃって──冥界まで連れていかれそう。勝手にお供にされそう。それもペットとして。メンヘラって首輪とか鎖とか着けられるのも着けるのも好きそうだし。来世は犬になれるといいね。ワンワン。わーんわーん。

 沈黙があった。終わるのか分からない沈黙が、ただあった。それはもはや静寂なのかもしれなくて、喧騒なのかもしれなかった。あの世ってうるさいのかな。うるさいぐらいに静かなのかな。心臓の音も、息遣いも、咀嚼音もないのなら、きっと静かなんだろう。映画館が快適な日々が、いつかまで続くんだ。


 ──スーッ。


 そんなことを考えていた矢先、誰かの息がマイクを掠った。たぶん通話相手は泣いていたんだと思う。少女特有のソプラノの声が洞窟を通る子風みたいに震えて聞こえた。

「………お、まえらに殺されたんだっ」

 最後の「だっ」はまるで即死みたいだった。ぶつ切りの怒り。液晶画面がこと切れる人の目玉みたいに、徐々に光を無くしていって…とうとう真っ暗になった。

「はっ」

 私はくだらない顔をしていた。まったくらしくないよ。私は冷酷で軽薄な少女なんだから、もっと無に近い表情をしてみせるべきだ。「くだんない」ってスマホを放って爪でも磨くべきなのに、私の肺から絞り出されるのは微かに震える息だけで、爪は凝った牛乳のように白くなっている。ここでようやく笑えた。ほんとっ、どうかしているな。


 おまえらって、私もか。

 ………なんで、だよ。


 視界は明るかった。大きな居間の窓から厳しい夏の陽が降り注いでいる。夏はきっと生命力の季節なんだ。セミの声や、日差し、荒ぶる風や、高校球児の蛮声や、儚いから派手に散らせる花火や、ヒートアイランド、熱い砂に、まみれる子ども。どれもこれも輪郭を破いてしまいそうなほどに弾けていて、その力に浄化される生命もあるこの世界はやっぱり確かめる必要もないぐらいに残酷だった。

 ジンジャーエールの黄みがかった透明の泡が、奇跡みたいに綺麗だった。

 ただの泡で、すぐ消えるのに。


 ──果たして通話相手の声が高田瑞希のモノだったのか、分からなかった。それがすべてを物語っているような気がした。私が殺人者だという思い込みを含まないすべてを、含まないなにかのすべてを物語っているような気がしていて、でもそのなにかがなんなのかが分からなかった。明日、高田瑞希が指定してきた高校近くの公園に向かえば判明するんだろうか。私はそれで楽になれるのだろうか。鎮魂とかどうでもいいから、ただそれだけが気になっていた。

 ジンジャーエールを飲み干す。唇の端から漏れたジンジャーエールがTシャツの白い生地に二つまあるい灰色の模様をカタチ作った。

 どうして私なのか。涙腺以外に行き場のない怒りが湧いてきていた。コォンッ、と狐みたいにむせる。喉が辛くてたまらない。私の感情が私の感情のまま濡れそぼったほそっこい声帯に犇めいていた。

「どうして私なんだよ。当事者は私以外の奴じゃん。ハルカとミユキとその取り巻きじゃん。好きでもない奴を助ける理由なんてない。というかあっても意味がない。理不尽に理屈を振りかざしたって助からないから。身代わりになったら私は私が死なないように頑張って、みんなは安心していじめを続ける。いじめには内緒の信頼と、古い契約がある。死ぬとかほんとに盛り下がるよ。なに死んでるの。一時の感情でぜんぶを台無しにするとか赤ちゃんじゃん。積み上げた積み木を崩して泣きたくなったことが何度あるの。足りないの? まだまだまだまだ生き足りなかったはずでしょ。あんたは十七年間生きただけの少女だよ。好きなモノは、血と、眼帯と、悲劇の過去と、銀色のアクセサリー。どう育ったらそんな人格が形成されるのか、あんたがえいえんに分からない。きっともう少し時間が経てば、私の荒ぶる心も落ち着けた。あんたは死者で、私は生者だ。それだけですべての気持ちを強引に飲み下せた。なのに、今さらなんなの。生者との交信はお前みたいなメンヘラが振るっていい奇跡じゃないから、もっと人徳のある死者に譲りなよ。身の程を知らないって欠点はいじめてもいい理由にはならないよ! ってバカか。理不尽だからいじめになるんだ。じゃあ理由があったらいいのかよ。理不尽に対抗する術は無抵抗か理不尽だ。耐え忍ぶか暴力か逃亡しか残された道はあり得ない。あんたはそれでえいえんの逃亡を選んだ。あんたの選択だ。あんたが選択した。それだけだ」

 ぜんぶ、澱んだ泡だった。

 外の空気に晒される前に、私の内部で消える泡。どれもこれも私の気持ちじゃない気がしていたし、どれでも私の気持ちであるような気がしていた。言葉がたやすくて、この激しい感情の輪郭になれぬままに消えてしまう。


 自殺したんだよ、あんたは。だから、もういない。


 ──おまえらに殺されたんだっ。


 ほんとうに。この気持ちは、まるで………

 ぜんぶ、澱んだ泡なんだ。



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