28 可及的速やかに
その日、夕飯の時間を過ぎても帰宅しなかったゆかりに、ノーソルデル邸の一同は不審感を抱いた。
家令は使用人の男性を城へ伝令にやり、彼はグラハム・ノーソルデルに面会を申し出た。なにかあったのかと問うグラハムに、男はゆかりが戻っていないことを伝える。彼一人では、竜騎士団への問い合わせもままならないため、一旦は家長であるグラハムを頼る必要があったのだ。
最近はドラゴンへの騎乗練習をおこなっていることを知っているグラハムは、「夜行訓練でもしているのだろう」と考えた。以前にも同様のことがあり、夜勤の団員達と共に、食堂の夕食を食べたと嬉しそうに話していたのは、先日のことである。
グラハムは使用人に、自分が確認し送り届ける旨を伝えてから、領主の執務室へと向かった。
ヴィンセンテに断って竜騎士団の下へ行くつもりだったが、仕事に行き詰まっていたヴィンセンテは同行を宣言する。気分転換をさせろと視線で訴える筋肉男子の無言の威圧感に負け、グラハムは嘆息して許可を出す。
そうして二人が詰所に辿り着いた時には、すでにそこは騒ぎになっていた。
「騒がしいな、何事だ」
「殿下」
「いや、ドラゴン達が急に動き出してですね」
「暴れるって感じじゃないんですが、落ち着きがないというかなんというか」
あたふたと説明する団員達の向こうでは、他の面々が、それぞれのドラゴンをなんとか諫めようと四苦八苦しているところだ。
ライセムのドラゴンは比較的おとなしい部類で、凶暴性とは正反対の気質を持つ。今もあわただしく動いてはいるものの、人を攻撃する素振りは見せていない。ただ、なにかを訴えるように、そしてどこかへ向かう姿勢を見せているだけだ。
「落ち武者はどうした。彼女に声を聞いてもらえばいいだけだろう」
堂々とした張りのある声は、こんな時でもよく通る。
誰の耳にも届いたヴィンセンテの問いに対して、団員達は一様に首を振った。
「どこにいるか、わからなくて」
「今、探しに行ってます」
「わからない、だと?」
「たしか、殿下の所に行くって言って出て――、そのあと、誰か見たか?」
「いや、俺は警邏に出たし、見てないけど」
「俺も知らないな」
「もう帰ったんじゃねーの?」
「でも、挨拶ぐらいはして帰るだろ。ユカリちゃん、いつもそうだし」
「だなー」
出勤したら「おはようございます」、帰る際には「お先に失礼します」
白石ゆかりは、必ず一声かける。
詰所が無人になることは少なく、必ず誰かがいるので、ゆかりの生真面目な習慣については、誰もが認識していた。
誰も彼女が帰宅する姿を見ていない。
なんとなく重い空気が漂いはじめ、誰かがおそるおそる問いかけた。
「なあ、今日の担当、誰だよ」
「殿下の部屋付近まで一緒に行って、そのあとはいつもどおり、自分で戻るからって言われて……」
担当だった団員が答えながら、だんだんと青くなる。
「ぇえええ、ちょ、ええええ。や、だってさ、いつものことじゃん、ユカリちゃんが殿下のとこ行って、帰りは自分で戻ってくるのとか、いつもそうだろ?」
おろおろと周囲に確認を取りはじめた彼に、他の面々は顔を見合わせる。
たしかに彼の言うとおりだった。
ヴィンセンテとの定期面談の際、執務室の近くまで送り届け、そのあとは戻ってくる。面談が終わるまでの間、ずっと待っているわけにもいかず、はじめのうちは待機していたけれど、協議の結果、護衛担当は待機せずに詰所に戻ってよし、となったのだ。
領主城内部ならば不審者もいないだろうという理由に加え、白石ゆかりという落ち武者の存在にも周囲が慣れてきたこともあり、彼女の味方が増えてきたことも理由にあげられる。
「落ち着け。取り決めた通りに行動したおまえを、誰も咎めはせん」
エルビスが一喝し、皆が口をつぐんだところで、ヴィンセンテに向き直る。
「ところで殿下。なにか用がおありで?」
「殿下はただの付き添いで、用事があったのは私のほうです、エルビス団長」
「グラハム殿が、竜騎士団に、ですか?」
「ですが、その用事はより大変なほうへ動いてしまったようです」
「それはどういう――」
「さきほど、我が邸宅から連絡があったのです。ユカリ様が戻っていないのだが、なにかあったのか、と」
グラハムの落とした言葉に、場が静まった。
竜たちの鼻息だけが、焦燥感を煽るように響いている。
グルルルー、グルルルー
竜たちが唸り声をあげる。
それが一体なにを訴えているのか、この場にいる誰も理解できない。
理解できないことが、もどかしい。
どうしたのー? そっかー、大丈夫だよ。
怪我してるとこ、消毒とかしなくていいの? 痛くない? ならいいけどさー。
エルナが珍しい花を見つけたそうです。なんか、滅多に咲かないらしいですよ。みんなで見に行きましょうよ。
時間大丈夫? 今からでもいいそうですよー。
こっちのほうが好みだって言ってます。
竜がこちらに教えてくれる言葉。
こちらの問いかけに対して、返してくれる答え。
竜と「会話をする」ということが、どれほど奇跡なことであったのか。
ゆかりがいない今、そのことを痛感する。
「殿下。落ち武者が元の世界へ帰還したという事例は、あるのでしょうか」
「――私が知るかぎりでは、ない」
グラハムが問うと、ヴィンセンテはそう答える。
落ち武者はただ「落ちてくる」だけ。
人であれ、物であれ、それらは別の世界から弾き出された存在で、世界の
にもかかわらず、姿が見えない。
それはつまり――
「心当たりはあるのか……」
声も低く問いかけたのは、アドレーだ。眼光鋭く睨みつけ、ヴィンセンテに詰め寄る彼を、誰もとめられなかった。
「わからん」
「わからんってなんだよ」
「心当たりが多すぎる」
「見当がつくなら、もっと手立てを講じろよっ」
「可能性だけでは、動けん」
「それでアイツになにかあったら――」
そこで思い当たったのか、アドレーは言葉を止めた。そして、震える声で、ふたたび問う。
「おまえ、囮にしたのか……」
アドレーの言葉に、団員達は息を呑む。
落ち武者を利用し、なにかをしようとしている連中がいたとして。
たとえばそれが、簡単に手出しができないような家だったとすれば、どうすればいいだろう。
答えは簡単。
わざと事を起こさせて、現場をおさえることで動かぬ証拠をつかみ、不穏分子を一掃すればいいのだ。
答えないことで返事をしたヴィンセンテに、アドレーは拳を振りあげた。
だがそれは、落とされる前に捉えられる。
止めた相手を振り返って、アドレーは叫んだ。
「なんで止めるんですか、団長」
「部下が暴走するのを止めるのが、団長の務めだろうが」
腕を掴んだまま答え、エルビスはヴィンセンテに言葉を向ける。
「部下が失礼いたしました」
「いや、かまわん」
「ですが、彼の憤りは総意でもあります。我々としては、大切な仲間に危機が迫っているかもしれない今、黙っておとなしく従うつもりはございません」
グルル……
エルビスの背後に、レイバンが立つ。
ライセムの長に従うように、数体の竜がそれに倣った。
「貴方様が動けないのであれば、我々が動きます」
「竜騎士団はどこの直轄か、わかっているのか」
ヴィンセンテは嗤う。そして、告げた。
「今より竜騎士団はそのすべてを持って、落ち武者・ユカリを捜索する。そのすべての責は、私にある。探し出せ。そして、
「仰せのままに、殿下」
その時、空間を引き裂くような硬質な音が轟き渡り、その場にいたすべての竜が空を仰いだ。
◇
アナライゼスは、なにかに追い立てられるような気持ちで、上空を単独で飛翔していた。
落ち着かない。
じっとしていられない。
気を紛らわせるために、空へ向かった。
人の作った建造物には近づかず、ただ遠くから眺める。唯一の例外は、竜騎士団の詰所だったが、最近ではゆかりの住むノーソルデル邸がそこに加わった。
人間から遠ざかっていただけではなく、ライセムの森に住む他の竜からも、どこか心理的に距離を取っていたアナライゼスにとって、ゆかりの様子を見に行くという「見守り隊」は、どこかくすぐったいものだった。
今の自分を受け入れてくれた仲間の存在は、アナライゼスを支えているけれど、それを素直に表現できない。ノエルのように素直に行動できたとしたら、どれほど楽しいだろうといつも考えているが、あれを目標にするのはやめておいたほうがいいとハウロスがこっそり思っていることは、アナライゼスの知らぬ話である。
アナライゼスにとってゆかりは、はじめてできた「大事な人間」だ。
好きとか嫌いだとかで語るわけではない、もっと別の枠組みにいる存在。
それは、人間でいうところの「恋」に似たものかもしれない。
特別に大事にしたいと思う、はじめての人間だ。
ゆかりを背に乗せて、はじめて空に浮かんだ時。
アナライゼスは高揚した。
ライセムの竜たちが誇らしげに空へ向かう気持ちを、その時はじめて理解した。
みんな、こんな気持ちで飛んでいたのか。
大切な人間を乗せて、その存在を感じながら大空へ溶け込む。
名前なんてどうでもいいと思っていたけれど、ゆかりが呼ぶ「アナライゼス」という響きは胸を高鳴らせ、過去に名を与えてくれた人間に感謝する気持ちが生まれた。あの人間は、きっともう死んでしまっていないだろうけれど、彼に鱗を与えなかったことを少しだけ残念に思った。
ありがとう、とゆかりはよく言う。
アナライゼスにもお裾分けだと言って、嬉しいことや楽しいことを分け与えてくれる。
つい突き放して、途端、後悔に襲われるけれど、ゆかりはいつもそれを許して、受け入れてくれるのだ。
それが、どうしようもなく嬉しい。
ゆかりが望むことは、俺が叶える。
彼女が空を自由に飛びたいというのであれば、アナライゼスがどこへだって連れていく。ライセムだけじゃなくて、もっと遠い場所にだって。
かつて、自分を捨て置いた竜のことを考えると、いつも苦しくなったけれど、そんな気持ちはいつの間にか消えてしまった。
ほんの少しだけ覚えている自分の生まれた場所、山の上にある森林。崖の端から見下ろす広い海。遮るものがなにもない場所では、見上げると視界いっぱいに星空が広がっている。
ゆかりに見せてあげたら、喜んでくれるだろうか。
すーっと冷たい空気を吸い込むと、アナライゼスはさらに上昇した。
城の周囲を旋回する。まずは、この辺りをきちんと把握して、ゆかりが行きたいと願う場所を案内するのだ。
悠然と飛行するかたわら、ピリリと鱗が痛んだ。
頭の片隅で、なにかが引っかかる。
目を向けた先にあるのは、まわりと比べると、ひどく小さな建物だ。なぜか気になって、アナライゼスは近づいた。
竜が降りられる程度には開けた場所に、ぽつんと小さな石室が建っていた。
入口を挟む形で置かれた灯篭には火は入っておらず、無人であることを告げている。薄闇のなかで見渡していると、壁際に無造作に落ちているものに気がついて、蒼然となる。
石畳を踏みしめて近づいて、爪の先に引っかけてそれを取りあげる。糸を使って固定し、
それはまぎれもなく、自分たちがゆかりに渡した鱗だった。
全身の鱗がビリビリと震え、激流が走る。
アナライゼスは
喉を反らし、遥か上空に向け、細く長く息を吐く。
鋭く、引き裂くような音が響き渡る。
竜たちが送る合図には幾つか種類があるが、アナライゼスの発したそれは、緊急事態を告げる危険度の高いものだった。
どんなものであれ、それは自らの「仲間」に向けて放つものであり、助力を請うものだ。
アナライゼスははじめて、ライセムの竜に向けて、信号を送った。
「仲間」たちに、助けを求めた。
アナライゼスは、何度も呼んだ。
喉が裂けんばかりの勢いで、助けを呼んだ。
自分だけではどうにもならない。ゆかりを見つけるためには、たくさんの目と鼻が必要なのだ。
ちっぽけな自尊心や恥など、ゆかりがいなければなんの意味もない。
羽音が近づいてくるまで、アナライゼスは、ただ叫びつづけた。
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