14 竜の住む地
黒い竜がいた。
祖父の竜よりもずっと小さな竜だ。
とはいえ、小さなアドレーの何倍もある体躯が視界を覆いつくし、暗がりのなかで緑色の瞳だけが
水晶玉みたいだ。
アドレーは目を見開いて、その竜を――緑色の瞳を見つめた。
すると小柄な竜は、大きく首をかしげて鼻息を鳴らす。
その仕草はまるで「大丈夫?」と問いかけているように思えて、アドレーの恐怖心は安堵へ塗り替えられた。
自分でもどうかしていると思ったが、その竜は不思議と怖くなかったのだ。
グルルと唸る声も、牙が見え隠れする口が近づいても、緑色の瞳に映る自分が見えるぐらいの距離にいても、少しも怖くなかった。
こちらを慰めるように、鼻面が寄せられる。竜は身体を伏せ、尾でアドレーの身体を引き寄せた。
鱗は思っていたよりも柔らかかった。犬や猫のような体毛はないが、薄く短い
気持ちがよくて、撫でるようにさわっていると、鼻息が漏れて顔にかかる。
「ごめん、くすぐったい?」
グルルル
「こんな鱗、はじめてさわった。気持ちいいね」
グルルルル
「ここ、どこ? 本当に竜の森なの? 森の中に、こんなに広い草原があるなんて、おじいちゃんも言ってなかったし」
グルルル
一人ではなくなったことに気がぬけたのか、アドレーは竜に話しかける。律儀に返ってくる唸り声が返事をしているように思え、今までの孤独を埋めるように言葉をつづる。
帰り道がわからなくなってしまったことにはじまり、竜騎士である祖父の話や家のこと。母親が読んでくれたドラゴンが出てくる物語のこと。思いついたことをしゃべりつづけるうちに、眠くなってくる。背中に触れた竜の鱗はほのかに暖かく、眠りへと誘っていくのだ。
まどろみの中、遠くで咆哮が聞こえた。べつの竜がいるらしい。アドレーを抱えた小さな竜は首をもたげ、喉を反らす。息を吸うと、細く長く響く高い音を発した。
やがて大きな羽音が近づいてきて、黒く大きな影が差した。
次にアドレーが気づいた時には、大きな木の
暗がりのなかで見た竜は真っ黒に見えたが、こうして陽の光の下で見る彼らは、それぞれ微妙に色が違っている。
黒に近い色をしているが、赤や青、緑、黄と個体によって様々な色合いがある。中には全体的に色が薄くなった個体もあるが、祖父によれば、加齢によって鱗の色が薄れていくらしい。つまり、色素が薄ければ薄いほど、年を取った竜ということになる。
目に見える範囲にいるのは、五体のドラゴンだ。そのうちの一体は、他と比べて極端に小さい。
(きっとあれが、昨日会ったドラゴンだ)
濃紺色をした小さな竜をじっと見ていると、首が動いてこちらを向いた。
途端、アドレーは息を呑んで後退する。
草を踏みしめる音が近づいてきて、立て板から覗く光が遮られた。銀色の爪が板に喰いこんだかと思うと、軽い音を立てて板が取り除かれる。
明るい光が一気に空間に入ってきて、アドレーは眩しさに目を細め、遮るように手をかざした。
グルル、グルルル
竜の口から唸り声が漏れる。覗きこんだ竜の顔が、アドレーが座りこんだ位置にまで達すると、落ち着かせるように鼻先で身体に触れてきた。
鼻息が肌にくすぐったくて思わず笑みを漏らすと、濃紺の竜の瞳が輝いた。
嬉しそうだ。
唐突にそう感じた。
己の手を伸ばし、鼻先を撫でる。すると、こちらもくすぐったそうに身をよじらせた。おかげで草を敷き詰めた床が揺れて、転んでしまう。
それを見た竜がか細く鳴き、「大丈夫だよ」とアドレーは口にした。
「昨日のドラゴンだよね。ぼくのこと、助けてくれたの?」
グルル
「ありがとう」
今度は頭を寄せる。鼻先を抱きしめるように抱えて、産毛の立った鱗に顔をうずめた。
温かくて、少し甘い匂いがする。ドラゴンは身体を木や岩に擦りつけて汚れを落とすことがあるという。その時、鱗へ香りが移ることがあるのだと、祖父が言っていたのを思い出す。
「きみは、いい匂いがするね」
グル
目の前にある口から出る唸り声も、不思議とまったく怖くない。
それはきっと、ここがすごくいい匂いにつつまれていて、そしてこのドラゴンの瞳が綺麗だからだ。
アドレーはぎゅっと竜の鼻面を抱きしめる。すると竜は喉を鳴らす。
猫みたいだ。
アドレーが笑うと、竜も身体を揺らした。
しばらくそうしていると、大きな躰の竜が一体、アドレー達の下へやってきた。同じような鱗の色をして、緑色の瞳をしている竜に、小さな竜がなにかを話しかけている。
なにを言っているのか、さっぱりわからないが、色合いが似ているからきっと、お母さんとかお父さんに違いないと、アドレーは考えた。
昨日、あの時。最後に見たドラゴンはこの大きなドラゴンで、もしかしたら子どもを迎えに来たのかもしれない。
「あの……」
アドレーが声をかけると、大きな竜はその瞳を向ける。
「助けてくれて、ありがとうございました。この子を迎えにきたついでかもしれないけど、ぼくのことも助けてくれて、ありがとうございます」
頭をさげると、頭上からグルルと唸る声がする。下を向いたままの顔の傍に、より大きな竜の鼻先が現れて、アドレーを促した。おそるおそる顔をあげると、優しい瞳と出会う。
竜の尾に背中を押され、
そのなかには、こっそり後を追いかけた竜もいて、「ああ、やっぱりここはあの森なんだ」とアドレーは安堵した。こんなにいっぱいドラゴンがいるんだから、きっとおじいちゃんだって気づくはずだ、と思ったからだ。
昨日はあんなに怖いと思ったはずなのに、今は平気だった。
アドレー。竜はたしかに恐ろしい存在だ。彼らを本気で怒らせてはならない。
彼らは我々よりもずっと長く生きている先達なのだから、敬意を払うべきだ。
だけど、彼らは恐ろしいと同時にとてもとても優しいんだ。
おまえが彼らを心から好きになれば、きっと彼らもおまえを好きになってくれるはずだ。
祖父が言っていたことは、本当だった。
ドラゴンは恐いけれど、ものすごく優しい存在だった。
◇
「その広場でしばらく過ごした。大人のドラゴンはいたりいなかったりしたが、ノエルはまだ小さかったせいか、ずっとそこにいて。だから、ずっと一緒だった」
「アドレーは小さかったってノエルが言ってたけど、そんな昔からのお友達だったんですねぇ」
「俺の体感的には一日ぐらいはそこにいて、ドラゴンが採ってきた木の実や果物を食べた。疲れたらノエルと一緒に寝て、起きて遊んだ。そのうち、大きなドラゴンがやってきた。祖父の騎乗するドラゴンだった」
「お祖父さんのドラゴンを呼んできてくれたんですね」
「たぶん、そうなんだろうな。そのドラゴン――ゲルトに連れられて森を歩いた。木立が深くて太陽の位置はわからなかったが、日が沈んだ様子はなかったから、数時間程度だと思う。子どもの感覚では、もっとずっと長いように感じたけどな。まあ、結果的にそっちの感覚の方が正しかったんだ」
「といいますと?」
「無事に人がいる場所へ戻って知らされた。俺は、一ヶ月以上、行方不明だったんだ」
「はい?」
竜の森へ迷いこみ、竜騎士が昼夜問わず必死で捜索しても見つからなかった子どもが、竜に連れられて無傷で戻ってきたのだ。
子どもの言うことなど、要領を得ない。
ドラゴンに助けてもらった。
ドラゴンと一緒に遊んだ。
ドラゴンとお友達になった。
嬉しそうに話す以外の具体的なことなど、聞き出せるわけもない。
けれど、五体満足で戻ってきた子どもに、グリーブス家は喜んだ。
問題は周囲のほうだった。
あれ以来、もっとドラゴンに対して興味を示し、相手方もまた少年に対してひどく友好的な態度を示すのだから、その噂はどこからともなく囁かれるようになったのだ。
アドレー・グリーブスは、竜の世界に行ってしまった。あちらで取り替えられて戻ってきたのだ。
今ここにいるあの子どもは、人間ではない。竜だ。
人の
「荒唐無稽な話だ。まともに信じている奴なんて、そうそういやしない。だが、俺が一ヶ月帰らなかったことは事実だ。いくら探しても、あの場所に辿り着けなかったことも、事実なんだ。疑惑なんてものは、一度囁かれただけでもうおわりなんだよ」
竜に攫われて、取り替えられた子ども。
そう野卑されながら育った。
自分はともかく、家族はさぞかし苦労しただろうとアドレーは思う。竜の加護を得た子どもということで王家に保護されていた期間は、アドレーが安全に過ごせるように配慮する時間だったといえる。
一ヶ月間姿を消していたことは秘され、ただ、竜の巣で迷子になり竜騎士の捜索で見つけたことになっている。彼の祖父の竜が傍にいて、守っていたところを発見したと説明されているが、御三家には詳細があかされており、モルゼディアス家はアドレーに対していい顔をしていない。年齢の近い長男アーロンは、その筆頭だった。
「アーロンは、昔からああなんだ。あいつは、俺が居ること自体、よく思ってない。目にはいるのも不愉快だってことだろう。ヴィンセンテの目があるから、表立ってなにもしてこないだけだ」
「おとなげない人ですね。顔や態度に出すなんて」
「……仕方ないだろ。自分でも妙だって思うしな」
「なにが妙なんですか?」
「俺は竜の気持ちがなんとなくわかる。嬉しいとか哀しいとか、あいつらがどう感じているのかが、なんとなくわかるんだ。子どもの頃にそう言ったら、じいさんの同僚たちに、随分と驚かれた。普通、そんなことはないらしい」
「喜怒哀楽もわからずに、みなさんどうやってドラゴンと付き合ってたんですかね」
「彼らは優しいからな。俺達人間に合わせてくれてたんだろうよ」
「それでアドレーさんも竜騎士になったんですね。天職じゃないですか」
ゆかりが言うと、アドレーは「そんないいもんじゃない」と頭を振った。
他になりたいものも、なれそうなものも無かったから。自分にはその選択しかなかったのだと、吐露した。
「いっそ竜になれればいい。今の俺は、人にも竜にもなれない半端者だ」
ノエルと同じようなことを言う。
人間になりたいノエルと、竜になりたいアドレー。
どこまでも似た者同士だ。
「――私はべつの国の人間なので、この国の考え方はわかりませんけど、べつにアドレーさんがそこまで気に病む必要はないと思います」
前置きをして、ゆかりは自分の考えを述べた。
「だってアドレーさんが望んでそうなったわけじゃないんですよね。ドラゴンに助けられたことによって、結果的にそうなっちゃったっていうだけで。助けてくれたから戻ってきたんだし。たしかに時間の流れはおかしかったのかもしれないですけど、アドレーさんは戻ってこられないほうがよかったんですか?」
「……いや、べつにそんなことは」
「だったらいいじゃないですか。竜の加護、でしたっけ? よくわかりませんけど、ようするに気にいられた印ってことですよね。
「尊敬?」
「憧れの存在ってやつです」
ゆかりは言いきる。
「それはべつに俺がどうこうってわけじゃなく、ドラゴンのおかげで――」
「だから、ドラゴンと仲良しなのはアドレーさんの人徳なわけでしょ。じゃあやっぱり、アドレーさんがすごいってことですよ」
「なにがすごいんだ。俺はただの異物だ」
「異物っていうなら、私のほうがよっぽど異物ですよ」
「おまえは、慶事だろう」
「アドレーさんも同じですよ。ドラゴンとの距離を最初に縮めたのは、アドレーさんなんだから、みんなにとって喜ばしいことをした存在です。そうやって目立つ優秀な人をやっかむ人はいるんですよ。気にしたって仕方ありません」
彼女らしい、なんとも気楽な発言だ。
思いつきのように話し、悩みなどないように笑う。
その前向きさに気おくれし、イライラしていたはずなのに、アドレーは今、なぜか穏やかな気持ちだ。
ずっと心に引っかかっていた。
周囲に気を使われていると思っていた。
気を使われることに苛立ち、それでいて気にかけてくれることを嬉しくも思っていた。
自分はここにいてもいいのだと、認めて受け入れてくれているようで、安心していた。
なんとも矛盾した気持ちだ。ガキかよ――と笑いがこみあげる。
「竜騎団の皆さん、アドレーさんのことちっともいやがってないじゃないですか。フェイムさんなんてアドレーさん大好きだし」
「――おまえは?」
「はい? 私ですか?」
ポロリと漏れた言葉に、ゆかりが首をひねる。
なにを訊いているのかと慌ててごまかそうとした時、彼女は笑顔で言った。
「アドレーさんは親切で優しい、すごくいい人です。いつもありがとうございます」
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