其の五
『確かに、この写真を撮ったのは私です』
老人は椅子に座ったまま、俺が示した新聞の切り抜きコピーを見て、張りのある声ではっきりと答えた。
ここは豊島区は駒込にある某有名医療法人の経営している有料老人ホームの一室だ。
俺の目の前に座っているのは
『あれは、昭和十三年の二月のことでした。
どこかの城壁で写したものだろう。
軍服姿の軍人が二人、軍刀を前について立っている。左側の髭面で眼鏡をかけているのが竹中少尉、右側の髭のない、面長の方が久坂少尉だという。
『私は主に写真を撮っただけでして、取材は殆どAがしてました。五十人斬りの話を切り出したのも、勿論Aです。お二人は煙草をふかしながら”講談や活動写真に出てくる剣豪なら、十人ぐらいは可能だったかな”と話してました。そのうちにAが”どうです?この先お二人が戦場で何人斬れるか競争でもしてみませんか?”と持ち掛けたのです。お二人は苦笑して”そんなことが出来たら痛快だろうけれど”なんておっしゃってましたがね。あれは明らかに冗談口でしたよ。戦場にいたら、その程度の出来もしないホラ話はよくありましたからね。
私も”馬鹿な質問をしてるな”と聞き流していました。
それっきりお二人とは別れてしまったんですが、その後暫くしてAの記事が私の写真入りで第一面に載ったんです。私は彼を捉まえましてね。
”おい、幾ら何でも創作記事は
”戦意高揚だよ。大した事ないさ”
なんて、気にも留めていない風でした。そして戦後になって、あの記事と写真が元で、久坂少尉ともう一人の将校が逮捕されたと聞きましたんで、私やAにも呼び出しがあるだろうと覚悟してました。私の方にはありませんでしたが、Aの方にはあったみたいです。その時彼がはっきりと「創作だ」と証言すればよかったんですがね。何か思うところがあったのか知りませんが、何も言わなかった・・・・その結果として久坂少尉ともう一人は南京で処刑されてしまったのです』
佐伯老人はそこで言葉を切り、眼鏡を外して目をこすった。
『昭和四十年代に東洋日報の間島君があの記事を元に本を書いたのには驚きましたよ。私の写真も使われていましたが、元々白兵戦で五十人という話だったのが、
当時既に私は退職していましたが、本社に問い糺しましたら、
”記事や資料の提供を要請されたのは事実だし、あの記事をどうするかという権利は君にはない、わが社にある”と、木で鼻を括ったような答えしか返ってきませんでした。記事の内容は創作でも、写真は私が写したものに間違いはないんですからね』
その後佐伯氏はこの問題が裁判になり、原告側の弁護士に頼まれて証人として法廷に行き、同様の証言をしたものの、結局裁判は原告敗訴ということになってしまったという。
俺は『もうお疲れでしょうから、ここらで止しましょうか?』といったのだが、氏は『いえ、構いません』と答えた。
『私だって報道カメラマンの端くれですから、プライドがあります。報道に携わるものは事実をありのままに報じなければならない。そう思っています。戦争はいいものではありません。だからといって無実の軍人を
彼の口調は最後まで決して
『お願いです。私はもうこんな老体ですから、何も出来ません。だから貴方が私の・・・・いえ、ご遺族の代わりになって、無念を晴らして差し上げてください』
別れ際、佐伯氏はそう言って俺の手を硬く握った。
俺は何も答えなかった。
探偵だって事実を突き止めるのが仕事の第一義だからな。
幾ら『許せん』という気持ちが心の中のどこかにあったとしても、大切にしなければならないのは『事実』それだけだ。
次に俺はまず東都新聞を訪れた。だが、返って来た答えは、
『担当者が留守だ』
『この件は既に決着していることだから』だった。
”資料を見せてくれ”と頼んでも『取材源の秘匿』を楯に応じようとしない。
次に俺が訪れたのは千葉県のある町だった。ここだと海の風が吹いてきて、都内のフライパンのような暑さからは幾分解放される。
この町の海沿いにある静かな住宅地を、俺は訪ねた。
呼び鈴を押すと、最初に出てきたのは中年の女性だった。
俺が身分を明らかにすると、彼女は最初困惑したような表情をみせ、
『
すると奥から中ぐらいの背丈の痩せた、髪形をオールバックにし、グレーの地に黒い縦じまの入った甚平姿の老人・・・・90代半ばと思われる・・・・が、出てきて、
『節子さん、済まんが茶をくれんかね?』と声をかけた。、彼は女性の肩越しに俺の方を
『誰だね?あんた?』
彼は明らかに俺に警戒心、というより、不信感を抱いているようだった。
『新聞記者や雑誌、テレビの取材なら断る。
きっぱりした口調で睨まれた。
『お
彼女がそう言いかけた時、俺はもう一度探偵免許とバッジを提示し自分の身分と、訪問の目的を話した。
『篠原重吉さん、元陸軍伍長ですな?』
『・・・・・』
老人は暫くの間俺の顔を見ていたが、やがて、
『まあ、お上がんなさい』
ぼそりと言って、奥へと入って行った。
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