其の二

『復讐?』


 俺は彼女の顔をまじまじと見た。


 最上百合もがみ・ゆりはまったく表情を変えず、ごく自然な調子で、


『そう、復讐ですわ』


 と、繰り返した。


『・・・・詳しく話をお聞かせ願いますか?』


 本当なら、ここで断ればよかったのかもしれないが、何となく先が聞きたくなった。


 俺の好奇心がそうさせたのかもしれない。


『私の旧姓は久坂・・・・久坂百合くさか・ゆりと申します。』彼女はため息をつき、やや間をおいて後を続けた。

『五十人斬り競争事件というのをご存知ですか?』

『うろ覚えですが、確か日本軍の将校二名が五十人の中国人を軍刀で斬殺する競争をしたとか・・・・』

 俺は答えた。

 彼女は大きく息をして、それからゆっくりと語り始めた。

『昭和十三年、日中戦争のさ中、父は少尉として大陸にいました。ある時Aと名乗る従軍記者から、同じ連隊の竹中少尉と共に取材を受け、”一体一振りの軍刀で何人迄斬れるものでしょうかね”と聞かれたそうです。父と竹中少尉は”昔の剣豪なら10人位迄なら出来たかなぁ”と答えたそうです。

暫くしてから記者の新聞でその時のやりとりが記事にされました。記事の中で父たちが白兵戦で敵の兵隊を五十人斬ったことにされていたんです。

勿論そんなのは嘘です。父は歩兵砲部隊の小隊長で、前線に出ていくことはあったかもしれませんが、白兵戦なんて一度もやったことはありません。当時曹長以上の軍人はみんな軍刀を腰に吊っていたのはご存知でしょう?でも父は剣道なんか、学生時代と士官学校時代に基礎を習った程度で、とても人なんか斬れるような技量の持ち主ではないのです。竹中少尉にしても大隊の副官でしたからね。ご自分の任務の方が大変で、とてもそんなことをしてる暇なんかありません。

当時は戦意高揚の記事なんて、どこの新聞でも先を争って載せていましたからね。一度戦地から帰って来た時、まだ三歳かそこらの私や姉たちにも”こんなのは全部ウソだよ”と、笑って話してくれたものです』


 彼女は大きく息をし、それから肩を落とし、暫く黙りこくっていた。


『・・・・そのうちに終戦を迎え、父たちも復員して、しばらくは別の会社に就職して、何事もなく過ごしていました。しかし・・・あれは確か昭和二十一年の暮れのことです。』


 突然久坂少尉は出頭命令を受けた。当時一家は横須賀に住んでいたのだが、市役所の役人がMP(米軍憲兵隊)と一緒に訪れ、連れて行かれた。

東京に住んでいた竹中少尉も、やはり出頭命令を受けた。


”大したことはない。直ぐに帰れる”久坂少尉自身も、彼女達家族もそう思っていたのだが、そこからが悲劇の始まりだった。


 そのまま両少尉は取り調べを受け、拘留された。


 理由はその時の『五十人斬り競争』の記事についてだった。


 彼らは最後まで『自分は人斬りなどやっていない。あれはA記者の創作記事だ』と主張し続けたという。


 しかし記事を書いたAという新聞記者は、記事は創作だと認めず、そのまま輸送船で南京の法廷に運ばれ、ほぼ即決の軍事裁判で『死刑』と決まってしまった。


『向こうで拘禁されている間、母や兄や姉・・・・私は四人兄姉妹の末っ子でした・・・・そして竹中少尉の御家族は、A記者に何度も創作記事だと証言してくれと頼んだのですが、なしのつぶてでした。結局父は南京で父達は銃殺刑にされてしまったのです』


 遺骨も帰って来ず、二人の遺品が返還されてきただけだったという。


 しかし、そこからが地獄の始まりだった。と彼女は唇を噛みしめて語った。


『そのうちに私も大人になり、結婚もしました。子供も出来ました。そんなある日のことです』


 夫の弟・・・・つまり彼女の義弟に当たる人が、当時、17~8歳の青年が誰でもそうであったように、

『平和主義』に傾倒し、一冊の本を彼女に示し、

義姉ねえさんの父親は人殺しだ!』と罵ったのである。


『挙句の果てには私や、私の兄や姉に対しても「人殺しの子供」と言うようになりました。』


 しかし、幸いなことに夫は彼女の良き理解者でいてくれ、その点が大きな救いだったという。


  その本を書いたのが、当時まだ東洋日報の記者だった、間島博人氏だったのだ。


 しかも、である。


 A記者の創作記事は、まだ白兵戦で『敵の兵隊を五十人』というものだったのに、間島氏の出版した本になると、何時の間にか、


『非戦闘員である民間人を面白半分に競争で斬殺した』という内容に変わっていたというのだ。


『存命中だった母と兄は東洋日報と間島氏に抗議をしました。でも向こうは「私は綿密な取材を元に明らかになった新事実を本にしたのだ」といって譲りませんでした』


 そのうちに母親は亡くなり、兄も姉も他界した。


 元の創作記事を書いたA記者もとっくに他界しているという。


『私たちの一家は全員このことによって社会からいわれのない非難を世間から受け続けてきました。だから間島氏への復讐を思いついたのです』

 彼女の頬を涙が伝って幾筋も膝の上に落ちるのが見て取れた。

 




 


 





 


 



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