9-3

 今夜月は輝かない。闇夜の雲が、強くはないがぱらぱらと雨を降らせている所為せいだ。

 本降りにはならないと聞いていたので、そのOLは傘を持ってきてはいなかった。

 もっと強く降ればコンビニで傘を買えば良いと思いながら、人気ひとけの少ない通りを靴音を響かせて歩いている。

 通りの街灯の間隔は遠く、その間には深い闇が点在する。


 遠回りすればもっと賑やかな大通りがあるが、此方こちらの方が慣れた道だ。不気味ではあるが、幾度なく通っている。

 だが――ふと女性の足が止まる。早いテンポで刻まれていたヒールの高い足音も共に消えた。

 女性は硬直したようにじっと身を固めて、目の前の闇に目を凝らす。

 ――そんなことをしたのは、何かが闇の中で気がしたからだ。

 何かが……“何か”の形があるような気がする――。


 すうっと、闇が動く。


 それは水面のわずかな揺らぎを見るように、些細に感じとられる変化。

 何かが、こちらに近づいて来ている――。街灯の光が、わずかに当たる――。


 まるで闇のヴェールを一枚一枚剥がしていくように、街灯の光で“それ”はハッキリしていく――。



 水分を失って赤茶色になった、。剥き出しの歯。こびりつくようなわずかな頭髪。

 ボロ布のような黒い服に包まれた身体に、“下半身”と呼べるものは見当たらない。

 そして“それ”は――宙に浮かんでいた。およそこの世の物とはつかない、“死霊”と呼ぶべき恐ろしい姿。

 なにより強烈に目についたのは――骨が露わとなったその手に握られる、“大鎌”だった。



 女性は金切り声を上げる。その悲鳴が号砲だったかのように、死霊が素早く動き出す。

 その手に握られる大鎌は元来西洋では麦を刈る農機具であったが、今日では“死神”のイメージしか湧かない。女性も、ただ生命の危機のみを感じていた。

 女性は来た道を戻ろうとしたが、空中を滑るように移動する死霊に回り込まれてしまう。

 恐怖を顔面に張り付けて、女性はよろけながら今度は左に走り出す。

 死霊はそれをじっと見送って、一拍置いてから追いかけ始める。

 ――まるですぐ捕まえるのではなく、



 まだ短い間だというのに、女性の息は長距離を走ったように荒かった。

 恐怖が心拍を乱し、呼吸を乱す。

 女性はわずかな酸素で懸命に駆ける。しかし彼女は気付いてもいなかった。

 自分が駆けていく先が、どんどんとになっていることに。死霊が意図してに追い立てていることに。

 女性は換気扇や室外機の並ぶ路地裏を走る。

 女性の背後からは、死霊が歯をカチカチと打ち鳴らして、張り付くようにぴったりと追いかけてくる。

 その背後の気配にも、女性は後ろを振り向くことが出来なかった。

 振り向けば捕まってしまう――。振り向けば足がすくんでしまう――。

 今の彼女の生命は、呼吸でもなく鼓動でもなく、“足を動かすこと”が保っている。女性は今にも止まってしまいそうな足を必死に動かした。

 そんな女性に向かって、死霊はその鎌を大きく振りかぶる――。


 力を溜めて振るわれた鎌は――女性の頭をかすめ、女性の走る脇の壁を斬り裂き、そこに凶悪な“傷痕”をつけた。

 振り切った鎌を反転させ、鎌はもう一度振るわれる――。再び傷付けられる壁。


 死霊は、女性の恐怖心をあおるため、狙いを外していた。

 何度も女性の頭を鎌が掠め、いくつもの傷が周囲に刻まれていく。

 女性の顔は、溺れてしまいそうなほど涙に濡れていた。


 紙一重で精神を保っているような女性は、もつれて転びそうになりながら路地裏の角を曲がる。

 次いで、死霊も曲線を描いて角を曲がる。

 するとそこは――“行き止まり”だった。死霊は、姿


 死霊の表情に全く変わりはなかったが、その動きが一度止まる。

 そしてただようようにそこに浮かぶと、それからするりと動き出す。


 袋小路には換気扇の出口、室外機、そしてゴミ捨て用の青いポリバケツが置いてあった。此処ここは恐らく飲食店の裏口だろう。店の裏口の扉、その上についた白色灯だけが、頼りなく辺りを照らしていた。扉の足元には、枯れ木も山の賑わいとばかりに寂しく鉢植えも置かれている。


 死霊は水中を泳ぐように、スイとポリバケツのところまでやってくると、青いバケツの蓋を鎌の背でコンコンと二度叩いた。鈍い反響音が響く。

 死霊はその眼のない顔を近づけて音を聴くと、突如一気に身を引いて鎌を振り上げ、そのままポリバケツを貫いた。


 ――ポリバケツの蓋が飛び落ち、中からが撒き散らかされる。


 空中で死霊がサッと鎌を引くと、引き抜かれたポリバケツがアスファルトの上にどさりと落ちる。

 死霊はその生ゴミを吐き出すバケツを見詰めた後、顔を袋小路の奥に向ける。

 薄汚れた室外機の上には野菜の名前が書かれた段ボールが置かれ、その裏には死角がある。

 死霊は、そっと室外機に近づいていく。


 まるで猫が獲物を逃さないように静かに忍び寄るかのように、ゆっくりと間を詰めていく。

 極めてゆっくり――しかしあともう少しでまで辿り着いてしまう――。

 あともう一メートル、数十センチ、数センチ――もう、その裏側が見える――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る