夾竹桃
悦太郎
夾竹桃─キョウチクトウ
夏が衰え、夜はすっかり涼しくなってきたころ。居酒屋からでてきたばかりの
あたりはもうすっかりと暗い。遠くの居酒屋から漏れる大衆の騒ぐ声と、鈴虫の鳴き声位しか聞こえてこなかった。それでもご機嫌な長次郎は、調子にのり鼻歌なんか歌いながら一人帰路についていた。
「おまえさん、おまえさん」
暗闇の中、編笠の下から聞こえる細い声が長次郎を呼び止めた。
「ええい、なんだ。旦那様と呼べ」
普段はそんな強いことは言えない男だったが、酒のせいで気が大きくなった長次郎は、目の前の女をからかうように笑った。否、女だと思っていたという方が正しい。その編笠の隙間から見えたのは、女ではなく、整った少年の顔だったのだ。
「女物の着物なんかきて。どこの陰間かしらんがな、俺は男色に興味はないぞ」
本当に興味がなければ、さっさと通りすぎてしまえばいいものを、長次郎は懐から取り出した煙管を吹かし、その場に留まった。
「まあまあ。俺は陰間なんかじゃないですよ。放浪の、旅芸人でございます」
そういって少年は段々と長次郎との距離を詰めていった。そして人一人分程まで近寄った所で、くいっと編傘をあげてみせた。よりよく見えたその顔に、長次郎は思わず息を呑んだ。月光に照らされるその
「どうです?一つ、魅せられちゃくれませんか」
長次郎の反応に手応えを感じた少年は、陶器でできているような白い手で長次郎の頬を撫でた。頬から伝わる少年の手の冷たさとは対照的に、長次郎の身体も息も、どんどんと熱を帯びていった。相変わらず長次郎の視線は少年の顔に縫い付けられ、もはや抵抗する気などさらさら起きなかった。
「ずいぶんと辛そうですが……」
少年の指が、長次郎の頬から首元へ滑る。
「仕方がないだろう。おまえみたいな若いのに触れるのは、久しいからな」
長次郎は苦し紛れに言い訳をした。
「はい?若いなんて、
どこをどうみても、そんなようには見えないのだが。彼はそれを軽い冗談として流す他なかった。何せ
「おやおや、どうなさいました」
少年はグイッと手の甲で口元を拭うと、自分の肩に置かれた長次郎の手を掴み引っ張った。
「なにか、勘違いをしていますね」
よろけた長次郎の耳元で、わざと息が掛かるように呟く。ぶるりと身震いをした長次郎の口は半開きになっており、目も据わりはじめている。
「ほら。酔いが回り初めたみたいですよ」
「そ、そうだなぁ……、夜風にあたれば、ちょっとは冷めるとおもったんだけどなぁ」
「酒の事じゃありませんよ」
もう呂律も上手く回らない様子の長次郎を見て、少年は愉しそうに笑った。そこで初めて長次郎は、少年に本能的な畏怖の念を感じた。さっきまで長次郎の心を踊らせていたその妖艶な笑みが、食事を前にした蛇の眼のように見えたのだ。
「うぅ……、それじゃあなんなんだ」
「なんだとおもいます?」
長次郎の手足は段々と痺れ初め、急に波のような吐き気さえも感じてきている。ついに地面にうずくまった長次郎を、少年は悠長に眺めているだけ。長次郎はもはや声も出せないほどに衰弱しており、返事の変わりに、たまにピクリと身体が跳ねさせた。
「わからない?正解は、俺の毒ですよ。キョウチクトウって、ご存じないですか?」
もう長次郎の口からは、息の出入りする音と、唸り声しか聞こえない。それでも少年は、横たわる長次郎に得意気に話を続けた。
「俺の花、枝、さらには根をはる土までも、全てに毒が巡っているんです」
わかります? そう少年が長次郎の顔を覗きこんだ。虚ろになっている長次郎の目は、もう何処にも向いていない。
「俺は、春をひさぎにきたわけじゃないんですよ」
「う、ぅぅ……」
「咲き誇る今の俺をね、魅せにきただけなんです。先に手を出した、あんたがわるい。それじゃあ」
そう言い残すと、少年は踵を返した。チリンと涼しげな鈴の音が素っ気なく遠退いていく。冷たくなった長次郎と、甘い香りだけを残して。
夾竹桃 悦太郎 @860km
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