第9話 寺山

 踊り場には先客が居て、佳苗を見ると驚いたようだった。

 ハンカチをぐしゃぐしゃにして、目を真っ赤に腫らした佳苗に、寺山は無言で背を向けると降りて行った。

 気を使ったのか、やっかいごとが嫌だったのか。だが、寺山は悪意に満ちて見える周囲の中でも、寺山は佳苗を傷つけることはなかったし、ここで佳苗が泣いていることを喋るような人間でもないことは分かっている。

それで十分だった。

 だから、ここで思う存分、佳苗は泣くことにした。

 家で泣けば祖父母が気にするし、教室で泣けば噂の種になる。

 悔しくて泣いているのか、哀しくて泣いているのか、それすらも分からず、次から次へと涙が出てきた。

 そうして、泣き過ぎて頭が痛くなってきた頃、目の前に、清涼飲料水が降りてきた。

「ん」

 いつの間にか戻ってきたらしい寺山が、青いペットボトルを佳苗に向かって差し出してくれていた。

「飲めばいい」

と、起伏はないものの優しい言葉が降りてきた。

 いつかと同じだなと、佳苗は思った。

 男子生徒に囲まれて、泣き出しそうな佳苗を助けてくれたのは寺山だった。

 そして、今は泣きつかれた佳苗にペットボトルを差し出してくれる。

「寺山君て、優しいね」

と、言うと、寺山は困ったように頭を掻(か)いた。

「千寿さんの友達だから助けてくれるの?」

と、佳苗が干からびた声で尋ねると、寺山はじいっと彼女を見詰めた。

 灰褐色の瞳には、泣き濡れて不細工になってしまった佳苗の姿が映っている。

 鼻の頭も真っ赤になって、見苦しいことこの上ない。

「君がいつも困っているから」

「困ってる子は、誰でも助けてくれるんだ」

 八つ当たりのように言うと、寺山は、また困ったように頭をいた。

 自分でも可愛くない態度だと、佳苗は思う。

 そして、自分の気持ちを自覚した。

多分、自分は寺山が好きなのだ。そして、構ってもらえる今の瞬間が嬉しい。

 しかしそれに反して、誰にでも寺山が優しいかと思うと、腹立たしいのだ。

 おかしなことだが、佳苗は、嫌がらせを受けたことも、兄のことも忘れ、目の前の寺山が優しいことに腹を立てていた。

「千寿さん、呼んで来る」

 居心地悪げになった寺山が千寿の名を口にすると、佳苗はかっと頭に血を上らせた。

「千寿さんは、関係ないの。これは寺山くんと私の問題なの!」

「……お、俺?」

「寺山くんが浮ついているのがいけないの!千寿さん、千寿さん、千寿さんって、本当は私のことなんてどうでもいいんでしょう!」

 最悪の気分だった。寺山には何の落ち度もなければ問題もないのに、個人的感情のままに罵ってしまっている。

 ふと、気がつくと、佳苗の大声に呼び寄せられたように二人の周りには人だかりができていた。ただでさえ無表情な寺山の表情は読み取ることが難しく、佳苗の言葉に反応するわけでもなく、じっと佳苗を見ている。

 どうとでもなれと、佳苗が寺山に向かって更に罵りの言葉をかけようとした時だった。

「秀、佳苗さんから離れておくれやす」

と、千寿の場違いにも聞こえる優美な声が廊下に響いた。

 彼女の革靴の足音が、静まり返った廊下に反響する。

「千寿さん、私……」

 我に返った佳苗が身を震わせていると、千寿が佳苗の手を取ってそれを自分の頬に当てた。

「早苗さん、すんまへん。うちの心がしっかりしとらんで、不安にさせてしもうて」

 千寿は何を言っているのだろうと、佳苗は思った。しかし、追い詰められ、何かに縋りたい気持ちに陥っていた彼女は、千寿の手を振り払う気力も、言葉を否定する元気もなかった。

「ほんまに、すんまへん」

 優しい言葉で謝る千寿は、ぎゅっと佳苗を抱きしめた。

 千寿は着痩きやせするタイプなのだろうか。ほっそりとした外見に反し、筋肉質な身体つきをしているようだった。女性にしては広い肩幅は、しっかりしていて、守られているような安心感があり、不思議な居心地の良さがあった。

「うちは、佳苗さん一筋ですけん、心配せぇへんとって」

 気を緩めていた佳苗の頬に、何か柔らかいものが降りてきた。

 それが千寿の唇であると佳苗が理解するのに、幾ばくかかかり、どよめきが階段を走り、視界の端で、寺山が大きく後ろに下がったのが見えた。



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