2013年【疾風】男として、女は守るべきだ。

 バケットシートの背もたれに体を預けると、そのまま意識を失いそうになった。


 シートの後ろに積まれたエンジンの振動が伝わってくる。

 その音が、疾風の心臓音と混ざり合う。MR2のエンジンが止まる時、自分の命も終わりを迎えるような気がした。


 あながち間違ってはいないのだ。

 MR2を運転できなければ、この場所から逃げることもできないのだから。

 それはすなわち、優子を救えないことに繋がる。

 男として、女は守るべきだ。


 目に力をこめると、物体の輪郭がぼんやりと浮かんでくる。

 まばたきをしても、まだ輪郭が見えていることにホッとする。


 UMAとチャンは、まだお見合いを続けているようだった。

 悪いが、お前らに付き合っている暇はない。勝手に帰らせてもらうぞ。


 右手でステアリングを握り、左手をシフトレバーに伸ばす。シフトをニュートラルからバッグにチェンジする。

 両足でペダルの操作を行いながら、サイドブレーキを下ろす。


 ガードレールに車をぶつけながら、百八十度方向転換を行う。

 かつて『MR2の赤グラサン』という通り名を持った男が運転しているとは思えないほど、雑な運転だ。


 シフトレバーを一速に入れて、緩やかに車は前方に進んでいく。

 レバーの先端は『死』を連想させるほど冷たい。疾風は無意識にレバーから手を放し、助手席に左手を伸ばした。


 助手席に優子が乗っているとき、彼女の右手はだいたい同じ位置にある。

 ドライブ中、疾風が手を握ってくれるのをいつも待っているのだ。


 そういえば『シフトチェンジするたびに、手を離されるのが悔しい』と優子は口を尖らせていた。

 その横顔が、いつも悲しそうだった。すぐに手を握ってやると、飼い主に撫でられている猫のように喜んでいたっけ。


 どうして、こんなことを鮮明に思い出す。

 走馬灯のつもりか。悪いが、まだ死ぬわけにはいかない。


 アクセルを踏み込んでも、もうMR2の速度は上がらない。シフトアップしなければ、これ以上は加速しないのだ。

 そんなことは千石承知。

 だが、シフトレバーに手を伸ばさない。


 優子の手に指をからめていく。

 指と指の間の隙間を一切なくすようにした。


 ふと、足元に違和感を覚えた。

 アクセルペダルを踏んでいるはずの右足が、クラッチペダルの上に乗せているだけの左足が、いつの間にか消えてしまったように感じる。


 待て。

 そもそも、自分はいまどこに座っているのだ?


 尻、腰、肩に触れているはずのバケットシートの硬い感触は?


 肉体の感覚が欠如していく。

 そんな中で、ガードレールと思しき輪郭が、左に向かって曲がっていくのが、ぼんやりと見える。

 頭のどこかで予想はしていたが、右手の感覚はすでになかった。

 ステアリングを操作できない。これは、ガードレールにぶつかると覚悟をきめる。


 だが、MR2はドライバーの意志とは無関係に曲がり始めた。

 正確にいえば、感覚がなくなった右手が、勝手に動いただけだろう。


 そんな奇跡が起こっても、なんらおかしくはない。疾風がMR2を運転し続けてきた時間は、それほどまでに長く、濃密だった。

 開きっぱなしの窓から、横殴りの風が吹き付けてくる。前髪が揺れて、ちょうど視界を塞ぐ形となる。


 黒い髪で目隠しをされているのに、世界は真っ白だ。

 もっと言えば、赤いサングラスをつけているはずなのに。


 闇ではなく、光に包まれて、何も見えなくなる。

 世界のまぶしさに目がくらむ。

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