2013年【疾風】上り坂、下り坂、まさか
3
峠の走り屋は、三つの坂を攻略しなければならない。
上り坂と下り坂。
この二つの坂ならば、いまのMR2でも疾風は最速で駆け抜けられるはずだ。
昼飯にカレーを食べたあとに、疾風はMR2の修理に時間を使った。
ひとたび愛車と向き合えば、事故の影響を受けた箇所以外のところも気になってくる。
直せる箇所を直しただけなので、車体はへこんだままだ。
なのに、時間はものすごく経っている。仕事終わりの優子を迎えにいく約束の時間に遅れてしまったのだから。
優子が勤めているスーパーマーケットは、峠道を下ったところにある。
閉店時間までに、その店に立ち寄れていたら、三つ目の坂に挑む必要もなかっただろう。
最後の一つの坂に、今日も翻弄されている。
まさか、ヤクザの息子をはねてしまうなんて。
まさか、あの中谷勇次がアルバイトとはいえ働くなんて。
まさか、彼女の中谷優子が浮気をしているかもしれないなんて。
まさか、ま『さか』、まさか――
疾風がスーパーの駐車場に到着すると、事務所の裏口から、ゴミ袋を提げて女性従業員が出てきたところに鉢合わせた。
優子が仲良さそうに話しているのを横で見守って、別れ際に挨拶をした程度の顔見知りだ。
秋穂というファーストネームはかろうじて思い出せた。苗字を忘れてしまった相手だが、彼女の発言は鮮明に記憶している。
「へ? 優子ちゃんですか? あ! 男の人が運転する白い車に乗っていっちゃいましたよ。ま、乗り込むところは見てないから、私の勘違いかもしれませんけど」
そうだな。
お前の勘違いであってほしい。特に、男が運転するというところが。
優子の肉親は、勇次のほかに生きている者はいない。
そのため、父や兄弟が運転する車ということは有り得ないのだ。
何かの間違いだと思う一方で、疾風にも白い車に心あたりがあった。
MR2でスーパーの駐車場に入る際に、白いライトバンとすれちがっている。
あの車に優子が乗っていたとは限らない。
そんなことはわかっているが、疾風は白いライトバンを追いかけるようにMR2を走らせている。
時速七十キロを超えている車内で、疾風は携帯電話を操作する。
三度かけて、三度とも留守電に繋がった。
助手席に電話を投げ捨てる。
こうなれば、怪しいと思った車に追いついてやる。
両手でステアリングを握りながら、アクセルを目一杯まで踏み込む。
MR2のシートは、運転席、助手席ともフルバケットシートに交換している。
拘束性が高いために、座ったまま体を伸ばすことが不可能だ。だが、その代わりに限界まで速く走らせるときには心強いものになる。
尻や肩がシートに深く包み込まれているから、走行中の横Gで姿勢が崩れることはない。
五点式の競技用シートベルトを装着していると、車の振動をダイレクトに肌で感じられる。
その影響からか、自分もMR2の一部になったような錯覚に陥る。
三速で走り抜けるのにちょうどいい区間に入り、疾風はエアコンを切った。
速く走らせる以外の要素を削ぎ落としたかったのだ。車内が暑くなるのはわかっているので、すぐに窓を数センチだけ開ける。
もの凄い風の音だ。
強い風で頭を冷やしながら、浮気される理由を考えた。
最近の自分が不甲斐無いからか?
二七歳にもなって転職を考えているくせして、今日は休みの日なのにハローワークへ行かなかった。
就職するために、もっと努力しろと彼女はいう。
それが、疾風のためになるのだから、頑張れと。
正直、自分のために努力するのは好きではない。
優子と出会うまでの間、自分のことしか考えずに生きてきたからだ。
その結果、ろくなことにならなかった。
自分のために何かをすると、いつも行きつく先は同じ。乗り越えることも壊すことも困難な大きな壁が立ちはだかる。
壁に挑み続けても、仮に逃げ出したとしても、おとずれる結果は同じだと経験から知っている。
この世界から否定されている気分に襲われるだけだ。
もう二度とあんな辛い気持ちは味わいたくない。
だから本当は、自分のためだけに何かをするのが怖いと思っている。否定的な気持ちを腹の底で抱きながらも、ギリギリのところで踏みとどまって生きている。
頑張れるのは、他ならぬ優子との将来のためだ。
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