最終話 あの日、あのワンルームで君に出会えたときみたいに


「では、今日も安全作業でお願いします!」


 何万という回線を繋ぐサーバーが大量に駆動する通信機器室の中で、俺は腹から声を上げた。

 現場に出るときは、こうして声を張り上げることが多い。相手を刺激できるとともに自分のやる気も一緒に向上するからだ。仕事を円滑で楽しくするための小さなコツなわけである。病は気からと言うが、仕事だって気の持ちようでどうにでもなる。

 今日の現場作業は昼までで、午後からは会社に戻って書類作業を進めなくてはいけない。何しろ来週からは北海道で二週間規模の出張が予定されている。

 仕事は相変わらず忙しい。でも、昔よりもずっと毎日が充実していた。あれだけ嫌だった仕事を、幸せな人生の一部として考えることができるようになっていたからだ。


 それもこれも、すべてはアイツのおかげだ。

 立夏と別れてから、三ヶ月ほどが経っていた。もうすぐクリスマスシーズン。最近は時間の経過が早すぎて焦る。賑わう世間の華やかさと対比するように、俺は仕事漬けの毎日だった。きっとこんなことではすぐに三十歳を迎えてしまうだろう。

 そろそろ、誰かと恋愛でもしておいたほうがいいんだろうか……と考えるくらいには色恋に興味がないらしい。この際、結婚しなくても良いかもなと思えるようになってきた。結婚することが幸せのすべてではないわけだし。


 まあ、あれかな――きっと理想が高いのだ。俺は。

 帰社してからは鬼のようにキーボードを叩き続けた。現場帰りの作業着姿で、休憩することなく真面目に働いた。すると、いつの間にか今日のノルマは達成されていた。

 時計を確認する。たった今、定時時間になったばかりだった。


 昔だったら、ここでさて帰ろうという気持ちにはならなかった。煮詰まっている仕事をどんどん先行して片付けようとしてしまっていたのだ。結局ギリギリで客の仕様変更が来てすべてが台無しになることだって多いのに。そんなの無駄無駄。

 できる部分は全力で。今日やらなくていいことは明日の俺に丸投げする。それで良いんだということに、俺はようやく気が付いたのだ。

 仕事を効率的にこなし、無駄な残業時間をなくしたおかげか最近はプライベートの時間が圧倒的に増えた。そして、やりたいことも増えた。


「さて、吉川、俺はもう帰るぞ」

「えーマジかよ。早っ。ちょ、手伝ってくれよ」

「ふざけんなバカ。手伝って欲しいんだったら、朝の時点で言え。今日はもう帰る」

「早く家帰ったってやることねーだろ? それより残業代もらえたほうがよくね?」

「俺は金より時間のほうが大事なんだよ。やりたいこといっぱいあるんだから」

「ちぇー、冷てー」

「タバコ吸ってる時間があるなら、少しでも早く仕事進めたらどうだ」

「ごもっともでございます……しっかしあれだな、最近のお前はなんか……デキる感じ出てるよな。巻き込まれ体質じゃなくなったっていうかさ、強い意志があるよな」

「そうだな。でもそれは今までの俺がバカだったんだよ。ようやく気づけたんだ……いや、気づかされたのかな」


 俺が鞄を抱えて立ち去ろうとしたとき、クソ上司である加藤が俺を手招きする。


「雨澤、今からこの間の事故の緊急対策会議や。今すぐ準備せい」

「いや、僕はもう上がります。今日やるべきことは全部終わってますんで。それに早く帰りたい気分ですし」

「気分? お前は何言ってるんや! 気分で仕事すな!」

「気分で仕事しますよ。たった今課長が不快な態度で僕を罵倒するから、わざわざこうしてあなたに合わせた憎たらしい態度を取ってるんでしょうが。おわかりになりませんか。もし本当にお願いしたいなら、もっと誠意のこもった言葉で伝えてください」

「お前……!」

「じゃ、お先失礼しまーす」

「おい待てや雨澤! お前また他人事か! おい、他人事か!」

「他人事っすよ。課長が歩み寄ってくれない限りは」

「……なっ!」

「そもそもその緊急会議、開催する必要性って本当にありますか? グループで共有する、対岸の火事と思うな、ってそればっかりで物事の本質が全然見えてませんよ、ウチの部署って。給料高い人集めて偉そうなこと言いたいだけなら、飲み会でやったらどうです。工数の無駄ですから、会社のためを考えるなら課長もさっさと帰宅してください。では」

「雨澤、お前そんな反抗的な態度取ってると給料減らすぞ!」

「ご勝手にどうぞ。そんな権限があなたにあるのか知りませんが、そのときは労働組合に連絡してパワハラで訴えます。ああ、社内サイトに課長の名前が載るの楽しみだなあ」


 ストレスの大きな要因となっていたクソ上司にも、この対応である。おかげさまで最近は鬱々とした気持ちを抱えることが一切なくなった。爽快感がハンパない。ていうかこの人他人事好きすぎるだろ。

 クソ上司とのバトルの末、フロアの雰囲気が最悪になってしまった……と思いきや、わりとみんな楽しそうな顔でチラチラこちらを見ていた。日頃の鬱憤が溜まっていたのだろ理解する。


「じゃあお先に失礼します! みんなもさっさと帰らないと課長に会議誘われちゃいますよ。さあ、早く逃げましょう!」


 最後にグループ内の笑いを取ってから、俺は元気よく退社した。

 帰宅の途中で本屋に寄る。新作コーナーに平積みされている本を手に取り、レジで購入。立夏の書いた新作の小説だった。ようやく新作まで追い付いた俺である。


 思えば、立夏と過ごした日々は本当に不思議だった。良く名前も知らないやつと同じ部屋で寝てたもんだ。あいつもあいつでTシャツに短パン姿なんて無防備な姿で良く居られたな。我ながら奇跡的な空間だったと思う。いやらしい思いが一切なかったわけじゃないけど、今では何もなくて良かったと心の底からそう思える。


 立夏のことを考えていると、一緒に春香のことも思い出す。彼女の幻覚はもう見なくなっていた。彼女との想い出は今でも大切な俺の宝物だ。


 春香との出会いから――彼女の死まで。俺が命尽きるときまでずっと、永遠に記憶に刻んだままにしておくつもりだ。

 春香は、今も立夏の胸の中で精一杯生きているだろうか。立夏の支えになってくれているだろうか。


 一度でも、春香の存在を想い出ごと抹消した俺の罪は重い。でも、春香はきっと俺にそんな業を与えようとはしない。


 俺と立夏が幸せでいることを、誰よりも望んでくれるような人だから。


 立夏のこと、頼むな――春香。


 冬空に最愛の人だった恋人に想いを捧げながら、俺は帰宅した。


 * * *


 最近自炊をするのが楽しい。立夏が居なくなった次の日から初めて、もうだいぶ慣れてきた。レパートリーも大分増えて、そろそろ誰かに披露してみたい段階になっている。


 鼻息交じりにテレビを見ながら特製のクリームシチューをかき混ぜていると、玄関のほうで突然ガチャリと音がした。



 俺のワンルームに、誰かが入り込んできた。



 見たことのない冬服を身につけた真夏の太陽みたいな女が、当たり前のように玄関でブーツを脱いで、早足で俺の前へやってくる。


「…………」

「…………」


 俺たちはお互いに見つめ合ったまま、何も喋らなかった。

 お互いの波長が、合わない。


「…………料理、作ってる」

「……いや、開幕それかよ。マジかお前」

「…………わたしのこと、覚えてた?」

「……ていうか、何しに来た。もうさよならじゃなかったのか?」


 そんな憎まれ口を叩きながら、俺は少し泣きそうになっていた。


「…………またねって言ったじゃん」

「あれは……雰囲気的に間違いなくお別れの言葉だったろうが」

「ひどい! そういうの、勝手な解釈って言うんだよ」


 徐々に波長が一致してくる。


「お前が勝手に出て行ったんだろ。三ヶ月間連絡一つ寄越さないで、よくも俺の家に来られたな」

「あ、それ禁止なのに!」

「出た! それまだ適用されてんのかよ……あーもう知らん知らん、お前のことなんてもう忘れちまったよ。名前なんて言ったっけ、君」

「千々石立夏!」

「言ったよこいつ」


 ムキになった子供のような表情で、立夏が声をあげる。その姿を見ていると、俺の視界はぼやけた。正直、もう何も見えない。


「忘れてるなんて嘘だよ。だって幸良くん、泣いてるじゃん」

「泣いてねえよ、お前こそ、化粧落ちまくってお化けみたいになってるぞ」

「女の子にそういうこと言ったらいけないんだよ!」

「いつまで女の子でいるつもりなんだよ、お前は」

「一生だよ。幸良くんの前では、一生」

「は? どういう意味だ」


 首を傾げる俺に、立夏は「ふん」とそっぽを向いた。ぐつぐつと煮える鍋の音と、テレビの音が邪魔だった。そのどちらも消して、もう一度立夏に向き直る。


「で、本当になんの用? 忘れ物でも取りに来たのか?」

「…………」


 立夏は押し黙ったまま、顔を俯けて小さい子供のようにもじもじする。


「何か、あったのか……?」


 少しだけ真面目な表情を作って、そう訊ねる。

 正面の立夏は潤んだ瞳と真っ赤な顔で、俺のことをまっすぐ見つめる。


「お姉ちゃんのほうが……好きって言ってるような顔してたから……ムカついた」


 一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。でも数瞬遅れて理解する。


「あそこは……嘘でも君のほうが好きだよって言って、引き留めるところでしょ!」


 大声を上げながら、立夏が俺にのしかかってくる。体勢を崩した俺たちは床に横たわる。ちょうど、立夏が俺を押し倒してしまったような形だった。


 柔らかな重みを全身で受け止める。


「お姉ちゃんと……幸良くんが愛し合ってたことは知ってる」


 懐かしい匂いと柔らかさ。


「妹のわたしがそこに割り込んじゃいけないことだって重々承知だよ」


 ああ――本当に立夏だ。


「でも、あなたと一緒にいるだけで、ドキドキしちゃう迷惑なお姉ちゃんの心臓が言ってるの。もっと、もっと――」



「“あなたと一緒に居たい”――って」



 そして立夏は、彼女らしい悪戯な笑みと一緒にこう付け加えた。



「でも、わたし絶対に負けないんだから!」



 * * *



 それから立夏は三十六年間生きた。

 心臓移植をした患者としては、とんでもなく長生きだったそうだ。


 立夏は最後に「とても幸せな人生だったな」と言い残して安らかに眠った。

 そんな最後の一言でさえ彼女が日々つぶやいていたことだったし、明日には退院しても何も問題なさそうなくらい、最後まで立夏は元気だった。

 流石に死んでしまったときはたくさん涙が流れたけど、悲しみよりも、感謝の気持ちのほうが強かった。笑って、立夏と出会えた日々を思い返すことができたのだから。


 立夏は念願の夢だったらしい家族に抱かれながら幸せに死ぬという目標を達成できた。

 彼女の病室には、恋人時代から撮り続けた俺と立夏の若い頃の写真だったり、成長していく子供たちとの写真、彼女が必死に書き綴った作品群でいっぱいだった。

 それらは、すべて立夏がこの世に生きていた証だ。生に対して誰よりも執着していた彼女らしい死にかただった。


 立夏の枕の横では、春香がずっと笑ってくれていた。

 春香、立夏は最後の最後まで元気だったよ。

 そう伝えると、記憶の中の春香が笑った。そしてこう言った。


「――でも、ちょっとだけ妬いちゃうな」


 姉妹だなと思う。

 二人が話しているところを見たことはなかったが、幸せそうな笑顔を優に想像できる。

 春香も立夏も、幸福のループを持っているから。


 立夏――自分の好きなことだけを仕事にして大成功を収めた君のことを、俺は本当に尊敬していたんだよ。

 お互いになんでも言い合える生活は思った以上にストレスがなくて楽しかった。

 子供が産まれたときは大変だったけど、今ではその思い出の一つひとつがとても眩しい。

 可愛い息子と娘の結婚式に一緒に出たときも、二人で頭がおかしいくらい存分に泣いたよな。


 ――楽しい人生だったよな、立夏。


 君のすべてがわかるわけではないけれど、おそらくなんの後悔もなかったのだと、俺は確信してる。

 君の死に顔は随分と満足そうだったからね。

 少し羨ましかったくらいだ。俺が死ぬとき、あの顔ができるかは怪しい。そして、君に見せつけてやれないのが一番悔しい。でも、頑張ってみようと思う。


 人生を生きることは――ときに辛いこともあるかもしれないけれど、そういった苦しみを乗り越えた先に見える景色は――やっぱり幸せなものであってほしいから。

 ああ、まだ生きていたかったなと天国で君が羨むくらいに幸せな人生を生きてみせるよ。


 きっとこれから先楽しいことがまだまだたくさん待っていると思うから。



 あの日――、あのワンルームで君に出会えたときみたいにね。



 覚えているかな。君が聞いてきた、あの意地悪な質問のことを。

 結局、君が生きている間に伝えることはできなかったね。

 まあ、言うつもりなかったけど。


 真相は、いつまでも俺の胸の中だけに残っているというわけだ。

 あのときの仕返しだよ、ざまあみろ。


 ずっと、愛しているよ――立夏。

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知らないキミとの0距離ワンルーム 織星伊吹 @oriboshiibuki

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