第20話 もう大丈夫


 帰りに寄ったスーパーで一週間分の食材を買い込み、俺たちはいつも通り二人で夕食を食べた。食後には近所のコンビニで買ったアイスを堪能し、週末なので同棲ルールに基づき配信サービスの映画を一緒に観る。感想を言い合って洗面所を取り合い歯磨きをし、最後は雑談しながら部屋の明かりを消した。


 立夏は明日出て行くらしい。つまり、今日が彼女との最後の夜ということになる。

 俺たちの行動は何もかも普段通りだった。明日から立夏が居ないということが嘘のように思えた。だけど俺たちの間に存在する空気は違った。心なしか、どんよりした灰色が混ざっている。それは、ほんの僅かな虚無感だった。


 それを抱え込んで普段通りにするのはとても辛かった。言葉にするのはいけないと自分でわかっていながら、つい俺は訊ねてしまう。


「なあ、立夏。本当に出て行くのか」

「うん。そう言ったでしょ」


 立夏が躊躇いなく口にする。途端に聞かなければ良かったと、勝手に後悔する自分に嫌気が差す。自分に都合の良い言葉を聞いて、安心したかったのかもしれない。


「……そうか」


 隣で寝ている立夏は、こちらに背中を向けていた。さっきから、鼻を啜ってばかりいる。


「…………幸良くん」


 涙で濡れた声で、俺の名前を呼ぶ。


「……なんだ?」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ……立夏」


 今夜最後の立夏との会話を終えて、俺は瞼を閉じた。

 立夏と一緒に暮らすようになってからの日々を思い出す。

 始めはまともに口も聞かなかった。でも今ではこうして狭いベッドで夜を共にしている。


 俺たちの距離は、明らかに変わっていた。

 だけど、立夏のことを考えると同時にかつて消し去ってしまった春香との日常も流れ込んでくる。俺の頭の中には、立夏や春香との日々がたくさん詰まっていた。

 春香の墓石を前にして自分の天命を語る立夏のことが、俺は頭から離れなかった。


 * * *


 目が覚めたら立夏が居なくなっていて、部屋には俺一人しかいなかった。

 ……という夢を見た。酷く嫌な夢で、俺はとても悲しい気持ちになった。

 隣で寝息を立てる立夏のことが気がかりで、片目のまま立夏を見つめると、偶然彼女もぱちりと瞼を開けたところだった。


 しばらくじっと見つめ合う。ずっと近くにいたけれど、こうしてしっかり相手の顔を凝視するのは初めてだったかもしれない。それほど春香と顔は似ていない。


「おはよ」

「酷い顔だな」


 立夏の瞼は腫れぼったく腫れていて、いつもより少し不細工だった。


「うっさい。今日のわたしは81点なの」

「あんま下がってないな」

「わたし、泣き顔も可愛いから」

「ま、でも実際そうかもな」

「えっ」と立夏が驚いた顔をする。

「お前、顔は悪くないし」

「幸良くんが……そんなこと言うなんて」

「顔の造形を褒めただけだろ。うぬぼれんな」


 前に立夏に似たようなことを言われたのを思い出しながら指摘してやると殴られた。理不尽だろ。

 日曜日の朝食は、ベーコンエッグにウインナー。それにご飯に味噌汁。

 いつもの味が口内に広がると、とても感傷的な気分になった。でも、現実は現実でしかない。もう逃げることなんて、できないんだ。


 だから、こんな別れの日も――、きっと悪くない。

 俺は立夏との別れを真摯に受け入れることにした。


 * * *


 始発近くだったせいか、最寄りの駅は過疎っていて人がまばらだった。

 いつの間にか夏は終わりかけていて、周囲に生い茂る草葉がもうそろそろ秋の始まりを教えてくれるはずだ。

 代わりに運んでやった立夏のスーツケースを本人に渡す。


「これ、俺が会社に行ってる間に持って来てたんだな」

「当然でしょ。いくら姉妹とはいえ、全部のものを共有するとか無理だから」

「行き当たりばったりとはいえ、今思うととんだ役者だよなあ……」

「幸良くんに何か言われるたびに、内心ソワソワしてたけどね。幸良くんがもうちょっと怖い感じで迫ってきたら、逃げ帰ってたかも」

「どうだかなあ……お前なら倍くらいの剣幕で言い返してきそうだけど」

「はーあ、最後まで失礼な人」


 つまらなそうにむくれる立夏を横目に見ていると、俺は自然と笑ってしまう。

 そして、本当にこれでお別れなんだなと胸が寂しくなる。


「ホームまで行くよ」

「……うん」


 二人で改札を抜ける。電車が到着するまでの時間はあと五分くらいだった。

 さっきまでゆっくりと朝食を食べていた時間にも満たない、俺と立夏が一緒に居られる時間。


「…………」

「…………」


 微妙な空気だった。この気持ちはきっと立夏も同じだろう。俺たちの間には波長のようなものがあって、それが上手く同調していないと、すぐにわかる。今はお互いにそれが乱れている感じだった。

 そんなことを考えていると、立夏が思い切り背中を叩いてきた。


「……何すんだよ」

「湿っぽいの、嫌いなの。だから明るく送り出してよ」

「…………」


 背中を摩りながら俺が黙っていると、立夏は突然俺の頬を摘まんで、ぐにぐにと回しながら言った。


「はい、ウジウジするのは昨日でもうおしまい! わたしはこれからも楽しく生きていかなくちゃ、お姉ちゃんのためにもね。だから、君もシャキッとしたまえよ!」


 胸を張りながら、立夏は自信満々の笑顔でそう言った。

 少しの強がりが垣間見える89点の笑み。本当に、真夏の太陽みたいなやつだ。


「立夏は最後まで立夏だな」

「とーぜんでしょ。わたしはわたしでしかないんだから。どんなことがあっても、わたしはわたしだよ。どう、名言っぽいでしょ」

「同じこと二回言ってるからチープに聞こえるけどな。アンタ本当に小説家なのか?」

「あ、ていうか結局わたしの本読んだのかよ!」

「読んでない」

「ちくしょー!」


 嘘だった。実は少し前に文庫化したばかりの本を購入し、苦手なりにも通勤時間に少しずつ読み進めている。小説家である立夏は、俺の知ってる立夏とは違って見えたけど、その奥底には彼女らしさがぐっと詰め込まれている気がした。


 そして思い知る。俺にとって、立夏がかけがえのない存在になっていることに。


「立夏と過ごした毎日はさ……俺にとって、その……大切なものだったよ」


 素直な気持ちだった。俺の声が突然震えだしたことに、立夏はきっと驚いただろう。


「ちょっと? 湿っぽいのは嫌って言ったよ。なんで話まとめようとしてんの」


 立夏は、こちらの顔を見ることなく淡々とした口調で言った。


「…………」


 俺は泣きそうになっていた。そんな俺の表情を見た立夏は、慌てたようにスーツケースを掴んで歩き出す。


「……立夏?」

「もう帰って。そんな顔、見たくないもん」


 一蹴されてしまう。俺は動けなかった。声も出せず、涙ぐむ視界の中で小さくなっていく立夏の背中を見ているだけしかできなかった。


 俺と立夏の関係は、たった今終わりを迎えた。


 昨日の夜から決まっていたことだ。もともと俺たちはなんの関係もない他人同士だった。同じ、一人の人間を愛していたことを除いて。

 だから、別に悲しむ必要なんてない。元ある関係に戻っただけだ。俺は恋人を失った悲しみから解放され、傷が癒えて前を向けるようになった。死ぬはずだった立夏だって元気に生きている。それでいいじゃないか。


 俺たちが綴るこの物語は、ハッピーエンドじゃないか。


 だけど、胸にはぽっかりと大きな穴が空いてしまっていた。

 それを埋められるのは、立夏だけだった。名前も知らずに同棲生活を共にした千々石立夏ただ一人しか居ない。


 俺と立夏の繋がりは、こんな風に唐突に終わってしまうものなのか――そんな風に考えてしまう。きっと現実なんてそんなものだ。フィクションのような起伏のある展開や意外性のあるエンディングを迎えることもなく、気が付いたら終わってる。そんなものなんだ。


 人生っていうのは、そういうものだ。

 自分にそう言い聞かせる。


 胸いっぱいに広がる悲しみを必死に押し殺しながら、俺は踵を返す。向かうべきはいつものあのワンルーム。故人である春香と一緒に選んだ、あの部屋だ。

 自分の弱さから、一度だけ振り返る。


 彼女はやっぱり前を進んでいた。


 立夏には立夏の人生がある。春香の分も、彼女は自分の人生を豊かなものにしなければいけない責務がある。だったら、俺と一緒に過ごしている暇などないのかもしれない。

 格好良いなと思う。俺は、彼女のことを一人の人間として尊敬していた。


 そこでふと思い立った。

 俺と過ごした日々は、立夏にとってどんなものだったのだろう――。


 ころころと小さな車輪が止まる。


 立夏が立ち止まり、数秒後――振り返る。


 スーツケースを置き去りにして、立夏が息を切らしながら駆け込んでくる。


 唐突に、胸の中にふわふわと温かいものが溢れ出す。涙腺が壊れる。

 俺は手を広げて、胸の前に立夏が入り込める空間を作った。


 その中に――、立夏が飛び込んでくる。


「ちょっと、イジワルしてみたよ」


 にんまりした表情を浮かべる立夏を咎めるように、俺は強く抱きしめる。

 柔らかくて、俺よりもずっと小さな身体。優しくて、華やかな立夏の香りがする。

 愛しさでいっぱいになる。どう我慢しても耐えられない。胸が切なくなる。


「立夏、行かないで」


 泣きながら駄々をこねる幼子をなだめるみたいに、立夏が俺を包み込んでくる。


「春香のことは、誰よりも愛してた。春香が……死んだのは、俺にとって……凄く、辛いことだったんだ。だから、俺は……俺はっ…………!」

「……うん。うん」


 まるで整理できていない、脳からそのまま垂れ流したような言葉の数々。立夏は、そんなしょうもない俺の頭を撫でられながら、頷いてくれる。


「君は……ダメになった俺のことを癒してくれた。叱ってくれた。励ましてくれた。一緒に……居てくれた。一度は死んでしまった俺の人生を、立ち直らせてくれたんだよ」


 少し顔を離す。立夏は俺と同じように顔をくしゃくしゃにさせて泣いていた。

 波長が重なった今、彼女の気持ちが痛いほどにわかる。立夏だって悲しいのだ。俺と同じように。


 立夏の頬を流れる涙を、俺は指で拭き取った。


「そんな君が、春香の命を引き継いだ君が……俺の人生を豊かに彩ってくれた君が、楽しく生きることが目標の君が……そんなに悲しそうな顔をしないでくれ」


 どうしたら立夏は笑ってくれるのか、そんなことはわかってる。簡単なことだ。今すぐにも解決できるだろう。でも、それは立夏が決めることだ。


 俺にできるのは、精一杯自分の気持ちを伝えることだけ。


「俺と一緒に居たときの君はとても楽しそうで……俺は、そんな君ともっと一緒に居たいんだ。俺のことを救ってくれた君を……今度は俺が幸せにしたい」


 立夏は涙で濡れた顔のまま、嬉しそうに笑った。


「ふふ、まさかそんな風に言われるなんてなあ……わたし、求められちゃってるね」

「そうだよ、求められてるんだよ」

「わっ、直球恥ずかしい」

「もう……本当にお前は」


 立夏とのいつもの軽快なやりとりをしていると、心がほっとして居心地が良い。話をしているだけでこんなに良い気持ちになれる相手がいるのは、とても幸せなことだ。知らず知らずのうちにお互いがお互いを笑わせているから、幸福のループにしかならない。


 好きな人と一緒に居ること。

 人生の喜びっていうのは――案外そのくらい単純なものなのかもしれない。


 立夏と鼻を近づける。傍目から見たら、その姿はもうそういう関係にしか見えないだろう。でも、俺たちはもっと捻れている。痒いところに手が届かない関係だ。お互いが最も幸せになる方法を知っていながら、それを実行できないもどかしさを兼ね揃えているのだから。


 立夏の綺麗な瞳が、悪戯に細まる。


「ねえ、わたしとお姉ちゃん……どっちのほうが好き?」


 とても意地悪なその質問に、俺は答えることができなかった。

 自分で思っている以上にヘンな表情をしていたのだろう。立夏は、「やっぱり君は優しい人だね」と微笑みながら、背中に回していた腕をほどいた。


「またね、幸良くん」


 それは再開を約束する言葉だったが、俺には――もう二度と会わないからこそ言える言葉に聞こえた。


「…………ああ」


 やがてホームに電車が到着する。

 大きなスーツケースと一緒に立夏が乗り込んで、くるりと身体をこちらに向ける。彼女は微笑みながら小さく手を振った。もう口は開かない。さっきの言葉を最後にするつもりらしい。


 ドアが閉まりかけるとき、俺はもう一度だけ彼女の名前を呼んだ。

 立夏は嬉しそうに表情を緩める。


「出会ってくれてありがとう! 生きててくれて……ありがとう!」


 立夏と出会ったこれまでに。数少ない言葉に感謝を込めて。彼女の心に届くように。


「……どういたしまして!」


 ドアが閉まって、電車はゆっくりとホームを離れて行く。

 テレビドラマのように走って見送るようなことはしなかった。

 涙で歪む俺の視界には、これまでで最高の笑顔をしてくれた立夏がまだ焼き付いている。


 ちゃんと……笑えていただろうか。

 笑顔で、送り出せただろうか。

 ホームに設置されていた鏡に俺の顔が反射する。


 俺は――もう大丈夫。

 きっと、残りの人生を笑って生きることができるだろう。


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