第18話 久しぶり


 千々石春香は、心優しくてふわふわした天然系の美人だった。


 とある映画祭イベントで出会い、好きなマイナー作品がたまたま被っていたのが縁で仲良くなった。

 春香は女の子らしくたおやかな性格だったが、料理は苦手だった。彼女が得意料理だと自負するクリームシチューを最初に口にしたときの感想は、味のない焦げた汁だった。良くじゃがいもを溶かしては泣きべそをかいていた。


「失敗しちゃったけど、幸良への愛情は一千万パーセントだから! 次は絶対に美味しく頑張るから…………わたしを捨てないで」


 春香は要領が悪く良く失敗する子だった。そんな不器用な自分を気にしていたようで、茶目っ気の効いた冗談で誤魔化すことも多かった。本人はそれを欠点と思っていたようだったけれど、俺にとってはそこが誰よりも可愛らしかった。


 女性と交際をしたのは彼女が最初だったし、春香とは色々な初めてを一緒に経験した。それはどんな経験にも代えがたく、早くに家族を亡くした俺にとって春香は宝物だったし、彼女との毎日は幸福の日々だった。

 本当に、何よりも彼女のことを一番に愛していた。気が付けば、倦怠期なんてやってくることもなく春香との交際は三年が経っていて、俺たちは自然と結婚を考えていた。


 幸せへの階段を上っていくはずだった。

 悲しい出来事なんて、何一つ起きないものだと思っていたのに。


 春香の御両親への挨拶を終えた帰り道、俺たちは未来を語り合いながら山道を車で走っていた。

 今だからこそ思う。そういうときこそ、幸福な今を守るために日々の日常に気をつけるべきだったと。

 反対車線から蛇行運転をしたトラックが突っ込んできた。俺は、反応するのが一瞬だけ遅れ、急ブレーキをかけながら反射的にハンドルを切ることしかできなかった。


 衝撃。


 トラックは助手席側のボディ衝突し、その動きを止めた。

 たった一瞬の出来事だった。頭から流れ出る鮮血を指で触れたとき、俺はようやく事の重大さに気が付いた。


 すぐに隣の春香に声をかける。しかし返事はなかった。外傷はそこまで酷くなかったが、彼女は意識を失ってしまっていたのだ。俺は大声で春香に呼びかけながら、震える手で119番へ連絡した。


 入院した春香の意識は戻らなかった。綺麗な顔でただ眠っているだけで、何も喋らないし、笑いもしない。鼻や口にはたくさんのチューブが突っ込まれていて、酸素送り込まれながら必死に生きていた。


 俺は会社を休職し、春香が入院する病院と自宅を行き来するだけの毎日を送っていた。その間していたことと言えば、少しずつ死に近づいていく春香を見て泣くことだけだった。



 春香は――脳のすべての機能を停止させてしまっていたのだ。



 それは、実質上の死を意味する。

 薬剤や人工呼吸器で延命している状態とはいえ、必死に働いている心臓も、数日ほどで停止してしまうという。


 春香の胸に手を当てると、静かに上下していた。

 生きている。確かに生きているのに。


 それでも、助かることはあり得なかった。神様に見放されたと思った。

 人間はたとえ心臓が動いていたとしても、脳が働いていなければ物事を考えることができないし、身体を動かすことだってできない。自力で呼吸のできる植物人間と違って、放っておけばすぐに死んでしまうし、本当になんにもできなくなってしまうのだ。


 春香はそんな状態になってしまった。

 俺がもう少し注意深くできていたら、春香はこんなことにならなかったのかもしれない。俺は自分自身を呪った。視界は涙で濡れてばかりだった。何も考えられなかった。何もしたくなかった。俺にできることと言ったら、病院に通い春香の顔を見ること、ただそれだけだった。


 いつものように病院へ向かうと、千々石家の両親と顔を合わせた。

 そのとき、御両親が俺に“とあること”を告白してきた。

 一瞬、言葉の意味がわからなかった。無表情で聞いていた俺は、その場で嘔吐した。


 俺が壊れたのは、きっとそのときだ。

 それは本能的な自己防衛だったのかもしれない。

 俺は、春香の死から逃げることしかできなかった弱い人間だ。千々石春香の存在ごと記憶を抹消させたのだから。他でもない、自分自身に。


 翌日から俺は当然のように会社に出社し、ノイローゼになりながらも仕事に忙殺されることとなった。もう春香のことは頭の片隅にもなかった。

 そのときに取り組んでいた仕事や日常生活のことは、あまり良く覚えていない。


* * *


 千々石家から徒歩二十分ほどの山奥に、緑の木々に囲まれた辺鄙な墓場があった。ささやか花を胸に抱きながら石畳の上を歩き、春香の墓石へと向かっていく。

 目の前に人影があった。喫茶店で別れた格好のままの立夏が立っていた。

 立夏は、こちらを一瞥するとすぐに顔を背けてつぶやいた。


「……聞いた?」

「ああ」

「…………恨んでるでしょ? わたしのこと」


 俺は、何も答えることができなかった。


「いや、恨んで当然だから。別にそこら辺は気にしないから、大丈夫。それよりお姉ちゃんのお墓参り、来てくれてありがとう」


 引きつったような笑みで立夏がそう言った。とても痛々しい表情だった。


「恨まれるのは……俺のほうだろ」

「でも、お姉ちゃんが脳死状態になってなかったら、わたしはきっともうこの世には生きてなかった。……間接的にだけど、わたしは幸良くんに命を救われたんだよ」


 俺は墓石になってしまった最愛の人を見下ろしながら、苦い顔しかできない。春香に、こんな顔を見せに来たわけではないのに。


「……触ってみる?」


 立夏らしい悪戯な笑み。その表情の奥には、一体どんな想いがあるのだろう。


「…………」

「ほら、早く」


 立夏が断りもなく勝手に俺の手を掴み、自分の胸にぎゅっと押し付ける。


 柔らかな感触の奥から――とくん、とくんと小さな鼓動が伝わってくる。



 立夏の身体の中で、春香の心臓が動いていた。



 脳死状態と判定された春香は、心臓に病を抱えていた妹の立夏に心臓を移植をした。

 医学的に死亡扱いとなった春香にはもう生き返る可能性が一切なかった。だけど、まだ健康体である彼女の脳以外の部位には価値がある。そして、それを必要としている人たちがこの世にはたくさんいるのだ。


 千々石の両親にとっても、その決断が苦しいものだということはわかっている。だけど……それでも。あのときの俺は納得することができなかった。心臓の鼓動があるうちは、春香はまだこの世に生きていると、思っていたから。


 会ったこともない妹に心臓を移植する? そんなこと知るか。春香を生かすことをもっと必死で考えてくれと伝えた。だがもう決定事項だったらしく、俺の主張は一切通らなかった。心臓移植は春香本人の意思でもあったからだ。


 親族であったとしても必ず臓器移植ができるわけではない。それが、春香と妹の立夏の場合成功する可能性が非常に高かった。春香の妹が病弱だということは聞いていたし、俺との結婚を前に自分だけ幸せになって良いのかと春香がずっと悩んでいたことも知っている。でも、俺には春香はもうすぐ死ぬのだからと彼女の大切な命をぞんざいに扱われた気がしたのだ。


「ありがとう。もういいよ、立夏」


 俺が手を離すと、立夏はなんとも言えない表情で聞いてきた。


「……ついでに悪戯してくるかと思ったのに。紳士だね」


 俺の返事をまともに聞くのが、怖かったのかもしれない。立夏なりに気を紛らわせようとしたのだろう。今だからこそわかるが、彼女は大雑把に見えて女性らしく繊細な面もある。


「するか。……心臓の音、だんだん大きくなってたぞ。ちょっと恥ずかしかったんだろ」

「ち、違うよ。そんなわけないじゃん、ちなみにお姉ちゃんの心臓の音だからこれ。わたしのじゃないもん」


 少しだけ顔を赤くさせた立夏が慌ててながら否定した。


「お前って、うぶなくせにヘンに大人の女ぶるところがあるよな」

「違うってば! ほら、お花持ってきてくれたんだったら早くお姉ちゃんにあげて」


 夕色に変わっていく夏の空の下で、俺たちは手を合わせながら春香のことを想った。


「春香……久しぶり」


 俺は柄にもなく石碑に喋りかけた。無機物に声をかけるという行為を、俺はこれまで蔑んでいた。あまりにアホらしい行為だと。でも、今は不思議とそうしたい気分だった。そこで初めてわかった。こういうのは、理屈じゃないんだということが。

 そんな俺をいつもなら茶化してきそうな立夏だが、特に触れてはこなかった。きっと、俺の声が、震えていたからだろう。


「春香、俺は……どうしてお前との想い出を忘れるなんてバカなことができたんだろうな。俺は……自分で自分が……許せないよ」


 瞳から涙が零れた。そこには、悔しさ、虚しさ、悲しさのすべてがあった。


 付き合う前、初めて一緒にデートをしたのは小さな映画館だったな。二人で一つのキャラメルポップコーンを食べた。偶然手が触れあったときは、胸が高鳴って映画の内容に集中できなかったことを鮮烈に覚えている。見終わった後は近場のカフェでお互い遠慮無く感想を言ったり批評し合った。映画鑑賞は俺にとって唯一の趣味だったからいつも本気だったし、熱しすぎてケンカっぽくなったことも多々あった。でもそれは春香も同じで、言い負かされたことだって何度もあったことを思い出す。


 二人で色々な作品を見た。たくさんの感想を言い合った。意見が食い違ったかと思えば、笑ってしまうくらい同調するときもあった。


 一番、好きな時間だったんだ……。


 ――――春香。


「もう……俺は……君に会えないのかな」


 心の奥底でずっと眠っていた想いが溢れ出る。


 春香と過ごした何気ない日々。俺を彩り、特別な想いにしてくれた春香。俺がこの世界で、一番愛していた女性。


 春香は……もう居ない。


「そりゃ……そうだよな。俺は…………今更、何を言って……」


 嗚咽が止まらない。自分が滑稽だった。こんな自分を逝ってしまった春香はどんな風に思うのだろう。でも、春香はそんな俺でさえ包んでくれそうな気がした。

 死して尚、春香は俺の心の中にずっと残り続ける。だけどそれは、一度彼女の真実から逃げてしまった俺さえも永遠に忘れてはいけないのと同義だった。


 だから俺は、向き合わなくちゃいけないんだ。この苦しみや、悲しみに。


「春香……ごめん、今まで……ごめんよ」


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにする俺の横で、立夏がじっと側に居てくれた。

 一言も口を開くことなく、彼女はただ俺の隣に居た。

 春香が居なくなった悲しみを、彼女はずっと前に味わっているはずなのに。

 俺の痛みを共に分け合ってくれているような、そんな気がした。

 そのささやかな優しさが、俺は嬉しかった。


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