第17話 春香と立夏
「千々石……春香」
立夏の言葉を繰り返す。
「うん」
「立夏のお姉さんで……俺の元恋人?」
「うん」
立夏はあからさまに意気消沈していて、俺と目を合わせようとしなかった。
「何言ってるんだよ……笑えないぞ、立夏」
「だって、笑いごとじゃないもん」
立夏の表情は変わらなかった。
「幸良くんだって薄々はわかってるでしょ。記憶、少しずつ戻ってきてるんじゃない?」
立夏のその言葉を聞いて、俺はこれ以上誤魔化そうとするのをやめた。ポケットからスマートフォンを取りだして、“あの画像”を立夏に見せた。
「そう。この人、わたしのお姉ちゃん」
「……マジなのか」
「うん。わたしたち、似てるから」
もう一度スマートフォンの画像を見る。いくつ歳が離れているのか知らないが、今の立夏と瓜二つだ。これがプリクラ写真だということもあって、疑いもしなかった。
俺は言葉を失った。色々と、良くわからなくなってくる。
立夏の言っていることが本当なのだとしたら、彼女はそれを知っていて隠していたということになる。それはなぜだろう。
表情を曇らせた立夏は、軽くマニキュアをした爪先をかちかちといじりながら言った。
「……幸良くんの心は、ずっと前に壊れてしまったんだよ」
「俺が……壊れてるだって?」
「……最初に会ったときのこと、覚えてる? ピンク色の歯ブラシがあったでしょう。あれ、わたしのお姉ちゃんのなんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……じゃあなんだ、俺は立夏のお姉さんと同棲してたっていうのか?」
「うん。あの部屋にあった女物の私物は全部お姉ちゃんの物だよ。それをあたかもわたしの物みたいに言ってただけ。ごめんね、ずっと嘘ついてて」
嘘をつかれていたのはショックだった。だけど、それ以上に良くわからないことが多すぎる。俺が知らないところで、一体俺に何があったっていうんだ。
「じゃあ、なんで俺はそのことをまったく覚えてないんだ。この写真だって、俺のスマホには絶対に入ってなかった。間違いない」
立夏は辛そうな表情で俺を見つめてくる。やめてくれ……そんな風に俺を見るな。
「それは……幸良くんが自分に都合の悪いものを全部視界から消しちゃうからだよ。実際にそこにあるものだとしても、見えないふりをする。……それは、記憶でも、写真でも一緒みたいだね」
「何を……、言って……」
「全部本当のことだよ。嘘じゃない」
立夏は顔を俯けたまま、ガムシロップをいじくっている。多動な彼女がそうするときは、大抵落ち着きがないときだった。
自分は普通の精神状態ではない。それはわかっていた。さきほどの精神病院でも、俺は『解離性障害』という扱いだった。
スマホの画面に映っている“春香”に目を落とす。
「…………この人は……今どこにいるんだ?」
「……わたしの実家に」
立夏が、俺のスマートフォンにメッセージを送ってくる。
「そこ、実家の住所。話はしておいたから、本当のことが知りたいなら……行ってきて」
それだけ言い残して、立夏は喫茶店を出て行った。
俺は、しばらくそこから動けなかった。
* * *
千々石家に向かっている最中、スマートフォンのアルバムを注意深く見ていると、例の写真以外にも千々石春香の写真は何枚かあった。確かに立夏と良く似てはいるが、写真の写りかたによっては全然別人だと、俺は思えるようになっていた。そして、写真を見ていくたびに俺は頭痛が酷くなった。
「千々石……春香」
実際に何度か名前を読んでみても、肝心な彼女との失われた記憶が復活することはなかった。俺にとって千々石春香とは、幻覚の中でのみ生きる存在でしかなかった。
目的地の最寄り駅で降りてからはバスに乗った。周囲は山だらけで、緑が豊富なところだった。ここで立夏と千々石春香が育ったのだと思うと、なんだか感慨深い。
バス停から二十分ほど歩くと、古い木造の一軒家の前に辿り着いた。
表札の「千々石」を目にしたとき、激しい目眩が襲ってくる。唐突な吐き気と相俟って気持ち悪さが加速する。そんなとき、また幻覚の彼女が俺の耳元で囁いてくる。
「――ね、緊張する?」
「――うふふ、大丈夫だよ。幸良くん良い子だから。きっと二人も喜んでくれる」
「――ねね、なんて言うつもりなの~? 僕に下さいって? うふふ。楽しみだなあ」
幻覚の声が、聞いたことのないはずの春香の声で塗り替えられていく。
「…………俺は……ここに……来たことが、あるんじゃないのか」
幻覚と現実が混濁して、目眩が強烈になってくる。でもはっきりしたのは、これは俺が創り出したまやかしなんかじゃなく、実際に俺が経験した出来事だってことだ。
――俺は、春香と一緒にこの家を訪れたことがある。
その事実だけが俺の脳裏に刻まれる。
俺が千々石家の前で這いつくばっていると、引き戸が開いた。
「幸良くん……! 大丈夫か」
現れた男性に身体を支えてもらいながら、家の中へ運び込まれる。高そうな革張りのソファに下ろされ、俺はようやく名乗るタイミングを得た。
「お見苦しいところを申し訳ありません。申し遅れました、雨澤幸良と申します」
「…………わざわざ名乗らんでも知ってるよ。少し休むと良い。冷たい飲み物を入れよう、母さん、頼む」
男性が手を上げると、キッチンの奥から立夏と春香の母親らしい人物がそっと姿を現した。どうにも、歓迎ムードというわけではないらしい。
「どうぞ」
「すいません」
冷たい麦茶を飲み込んで少し気持ちが落ち着く。俺は心を決める。
「立夏さんからお話は聞いていると思うのですが……今日は春香さんに会いに来ました」
「ああ、わかってる。こっちの部屋だ、おいで」
先導する千々石父が襖を滑らせると、そこには畳部屋が広がっていた。中には高そうな卓上と、木製の棚しかなかった。
千々石春香が笑っていた。小さな写真の中で。
俺の中で、何かが壊れる音がした。
千々石春香は死んでいた。
彼女は……もうこの世には居ないのか?
立夏のお姉さんで、俺の元恋人の春香が?
どうして? なんで? なんで死んだ?
うるさいな、そんなことは知ってる。お前が、お前が……一番わかってるはずだろ。
お前が……一番愛していた女性なんだ。逃げるな。ちゃんと向き合え。
――春香は、とっくのとうに死んでるんだ!
「…………はる、か」
自分の記憶が、一度砕けて粉々になったものを必要な部分だけ拾い集めて修復した、つぎはぎだらけの欠陥品だということを、俺はようやく思い出した。
がくんと膝を落として、俺はその場に崩れる。
「……幸良くんのことはわかっているよ、でも聞いてくれ……それが、我々と君にできる春香に対してのせめてもの償いだと思うから」
千々石父が神妙な顔つきで言った。横では彼の妻がおいおいと涙を流していた。
正直に言って、そんな精神状態ではなかった。
俺は、自分が俺であることを瞬間的に否定した。そうすると、結局自分が誰なのか良くわからなくなる。そんなことをしていれば、記憶が欠けるのも頷ける話だ。
俺は、春香の死を受け止められなかった。そして、その命の行く先についても――。
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