第16話 穏やかな日常
俺と立夏の日常は大きな変化を遂げることなく平和なものだった。朝起きて会社に向かい、一生懸命仕事をこなして立夏の待つ自宅へ帰り、二人で夕食を食べながらその日あったことを話して、一つのベッドで眠る。
そんなことを繰り返しているうちに、会社での俺の評判は少しずつ変わっていった。
「最近明るくなった」「新入社員のようなフレッシュさがある」「一緒に仕事をしていて楽しい」
その影響は部長の耳にまで届き、偶然なのか昇給の話まで上がるくらいだった。言うまでもなく担当課長は面白くなさそうにしていたが、それでも俺の最近の熱心さは認めているらしく、少し前まで滝のように浴びていた罵詈雑言がフロアに響くことは少なくなっていた。
順風満帆。まさにその通りだったが、一方で“あの幻覚”の頻度は増していった。
会社で仕事をしているときも、電車に乗っているときも、立夏と二人で話しているときも、寝ているときでさえ――場所や時間を問わず発生した。そして、顔のない幻覚の女は、会うたびに立夏に塗り替えられていき、今では彼女としか認識できなくなっていた。
幻覚の空気感といい、ふわりと匂いすら香ってくる気がするくらいリアルで、たまに現実の風景とごっちゃになることさえあるくらいだった。
それによる弊害か、立夏から聞いた話と幻覚の女から聞いた話がたまに混じってしまうことがあった。日常生活の些細な部分がほとんどだったから始めは対して気にしていなかったが、立夏から「わたしそんなこと言ってないよ」と言われるたびに俺は少しだけ不安になった。
やはり、俺の記憶はおかしい。
立夏と同居するようになってから、その疑念は日々強固なものになっていく。何かが足りない。胸の真ん中にぽっかりと穴が空いてしまっているような感覚で、すぐそこに掴めそうな何かがあるような気がするけど、それに手を伸ばそうとすると途端に具合が悪くなる。『触れてはいけない』と、無意識的に危険信号が上がっているのだ。
まるで、自分が自分でなくなっていくような気がして、気味が悪かった。
立夏に相談することはできなかった。同棲ルール第三条を自分から提唱していたくせに、俺は怖かった。立夏との楽しい毎日が崩れてしまうことが何よりも嫌だった。
とある休日、俺は一人で町で評判の精神科医へ向かうことにした。
休日の病院にはたくさんの人が居て、みんな何かしらの病気を患っている。俺もその中の一人なのかもしれないと思うと、不安が加速し焦燥に駆られる。
やがて、『雨澤幸良さん、二番の扉にお入りください』というアナウンスが聞こえた。
俺は席を立ち、真っ白いリノリウムの床を進んで引き戸を開ける。優しそうな医者が小さな椅子を薦めてくれた。
そして、真っさらであるはずのカルテを見ながら、医者がこう言った。
「久しぶりですね。雨澤さん、最近どうです?」
* * *
帰宅すると、ソファにしゃんと座っていた立夏が突然言った。
「ねえ、幸良くんデート行かない?」
「なんで」
「いいじゃん、たまには。近くに新しい喫茶店ができたの。そこに行ってみたい」
そんな風に唐突に午後の予定は決まった。
新しい喫茶店は節々に緑色の植物が配置され、木と煉瓦で造られたお洒落な外観だった。
ちりりんというベルの音と共に、涼しい空気が汗ばんだシャツの隙間に入り込んでくる。
「わー、内装も可愛い」
「恥ずかしいから黙ってろってば」
はしゃぐ立夏と一緒に店内を見渡していると、大人しそうな初老の店員が日差しの差し込む素敵な二人席へと案内してくれた。立夏はアイスコーヒー、俺はパイナップルジュースを注文した。
「ふふ、幸良くんって子供舌だよね」
「言ってろ。俺は一生コーヒーを飲まない生活を送る」
俺はストローを突き刺して、黄色い液体を吸い上げる。甘酸っぱい。
会話が途切れると、立夏の様子がいつもと違うことに気が付く。普段は立夏と会話が途切れたところで特段気にしたりしないのに。
「そういえばさ、この間『パンズ・ラビリンス』って映画一緒に見たじゃん」
「ああ、お前偉く気に入ってたよな」
ストローを咥えて外の景色を眺めながら立夏に返事する。
「……わたし、そんなこと言ってないよ」
立夏に言われた瞬間、自然と相槌を打った自分が信じられなかった。
窓から、目線を少しずつ立夏に戻す。
立夏が好む映画はわかりやすく万人受けするエンターテインメントだ。仕事柄映画をインプットとして取り入れはしても難解なダーク・ファンタジーを気に入るタイプじゃない。
「この間一緒に見たのは、『スターダスト』だよ。わたしが気に入ったのはそっち」
「……あ、ああ。そうだった。嬉しいと身体が光るヒロインが出てくる話だよな」
「『パンズ・ラビリンス』が好きなのは、別の人だよ」
「別の……人?」
彼女は口に付けていたカップをことりとテーブルに置いた。
「……その人のことね、わたし知ってるんだ」
「は? どういうことだよ」
立夏の表情は冗談めかすときのものとは違っていた。直感的に、立夏がこれから話す内容を聞きたくなかった。途端に指先やつま先の神経がびりびりと痺れた気がした。店内にいる他の客がみんなこの空間から消え去ってしまったような錯覚に陥る。
「…………ずっと、言おうかどうか、迷ってた」
いつになくしおらしい表情でゆっくりと胸に手を当てる立夏。しばらくの間彼女はそのままぴくりとも動かなかった。
「……立夏、どうした? 大丈夫か」
なぜだろう。この先の話をしたくない。よくわからない。
「具合が悪いんだろ、もう帰ろう。そんで映画でも見ようぜ」
俺が伝票を掴んで席を立とうとしたとき、立夏が俺のシャツをぎゅっと引っ張った。
「……座って。お話、させて」
小さな手のひらには信じられないくらいの力が入っていた。席に戻る。
やがて、立夏が意を決した表情で俺の目を見る。
「…………幸良くん、落ち着いて聞いてね」
「なんなんだよ……一体」
どくん――どくんと心臓の鼓動が跳ね上がる。なんだかとてもざわざわする。嫌な気分になる。とても気持ちが悪い。頭がぼうっとする。今すぐここから逃げ出したい。
立夏は深呼吸をしながら、ゆっくりと震える唇を動かす。
「その人は……“千々石(ちぢわ)春香”」
その名前は――――、
「わたしのお姉ちゃんで――――あなたの……元恋人」
俺と立夏の穏やかな日常を、切り裂いた。
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