第12話 嘘と涙


 幸良くんが出張に行って今日で三日目。

 ワンルームには当然わたししか居ない。心なしか、いつもより物静かな気がする。

 彼が出社していたとしたら、そろそろ夕食の支度を始める時間帯だ。わたしは健康に気を遣っているから、基本的に自炊しない選択肢はない。幸良くんが居ようと居まいと、しっかり三食食べるルーチンになっている。今まで日常的にしてきた行動だ。

 いつもよりずっと簡単な夕食を乗せたお盆をテーブルに置き、無音の部屋で一人食事をしていると色々余計なことを考えてしまう。一人きりでする食事の仕方をわたしは忘れかけていた。

 しばらくして、わたしは無音に耐えきれなくなってテレビをつけた。すると少しだけ気が紛れる。でも、空いているソファの半分が視界に入るだけで、心がしゅんとする。


「幸良くんって案外身体大きい……?」


 食事を終えると、わたしはきっちり畳まれた幸良くんの布団に腰を下ろした。上には彼の枕がある。


「…………」


 わたしは幸良くんの枕に顔を埋めた。

 凄く、男の人の匂いがした。臭いわけじゃなくて、あんまり嗅いだことのない匂い。これが、幸良くんの匂いなんだろうか。そう思うと途端にこの不思議な香りにも愛着が湧いてくる。そして、なんだかクセになる。

 瞼を閉じて、しばらく鼻をくんくんさせながら自分の世界に浸っていると、わたしは途端に真顔になった。


「やだ、変態っぽい」


 幸良くんの枕から顔を離したわたしはソファに戻って、ノートパソコンを開いた。


「あ、こーしーちゃんを飲もう」


 キッチンでカフェインゼロのブラックコーヒーをマグカップに注ぎながら、先日幸良くんと一緒に行った遊園地でのことを思い出して、頬がにやにやしていることに気付く。


「やだ、バカじゃん……わたし」


 昔から一人で居ることが多かったせいか、つい独り言をしてしまうクセがある。幸良くんと一緒に居るときは彼が話し相手をしてくれるけど、仕事に行っているときはわりと一人でパソコンのモニターやテレビに向かって喋っていることが多い。


「楽しかったな……」


 高所恐怖症の自分がジェットコースターに乗っただなんて、今でも信じられない。凄く怖かったけど、アトラクション終了後の幸良くんが凄く面白い顔をしていたから、今となってはそっちの印象のほうが強かった。


 ――せっかくだ、楽しもうぜ!


 そんなこと絶対言わなそうなのに、彼の言葉が今でもじんわりとわたしの胸に残っている。

 克服することができたのだろうか……一瞬そう思ったけれど、途端にわたしの脳裏に思い浮かぶのは、白い建物の屋上から地面を見下ろしているシーンだった。


「やっぱ、そう上手くはいかないよね」


 全身の力が抜けて、床に尻もちをついていた。一瞬でも弱い気持ちになってしまった自分を無理矢理切り替えるため、わたしは頬をぺちぺちと叩いた。

 ソファに戻って、ノートパソコンのカレンダーを確認する。


「明日病院か」


 そのとき、わたしのスマートフォンが振動する。画面を確認して、にんまりする。


「はろー、幸良くん」

『もう夜だぞ』

「結構遅かったね、現場は残業だったの?」

『いや、現場の作業員たちに誘われて飲みに行ってた』

「へー、幸良くんそういうの嫌いそうなのに」

『現場のおっちゃんたち面白い人が多くてさ、ちょっとだけ仲良くなったんだ』

「みんなおじさんなの? 若い人は?」

『居ないよ。みんな四十、五十の職人みたいな人たちばっか』

「ふーん……二次会とかは?」

『んや、俺は行ってないけど、みんなは夜の街に消えてった』

「それ、幸良くんは行かなくていいの?」

『流石にそこまで酒強くないしな。ホテルで早く休みたかったんだ』

「疲れてるなら、わざわざ連絡してくれなくても良かったのに」

『立夏が一人で寂しくしてると思うと、寝るに寝れなくてな』


 電話先の幸良くんがけらけらと笑う。最近こうやってからかってくることが多くて、わたしはちょっとだけ面白くない。でも、悪い気はしない。わたしと幸良くんにだけ許されている空気みたいなものが、お互いの中にある気がする。


「ふんだ、別に……寂しくなんかないし」

『ははは、嘘だよ。で、お前は何してたんだ?』

「仕事。ずーっとパソコンカチカチしてます」

『順調か?』

「普通。てか幸良くんがわたしの仕事について何か聞くのって初めてじゃない?」

『そうだな。お前がどんな話を書いてるのかさえ知らん。本屋でも見たことないわ』

「最悪! 普通ちょっと気になって調べたり読んだりするでしょ!」

『そうなのか? 俺活字苦手なんだよ、映画化したら見るわ。旧作レンタルで』

「ひどい! せめて新作にして! もっと興味持って!」


 幸良くんと喋っていると、とても楽しい。最初は冷たくて性格が悪いと思っていたけど、今では根元にある優しさとか、意外にも饒舌なところとか、むしろそこが幸良くんらしいと思えるようになっていた。

 幸良くんが笑うだけで、わたしは楽しくなる。幸良くんが真面目な声を出せば、わたしはちゃんと耳を傾ける。幸良くんがバカなことを言い出せばわたしはツッコミたくなる。

 だから、幸良くんの声を聞いているだけでわたしの胸は何色にも染まるんだ。


『そうだ立夏、ちょっと聞きたいことがあったんだわ』

「ん? なになに」

『お前さ、“春香”って人知ってる?』


 わたしは、知らないと嘘をついた。


 * * *


 幸良くんに飛行機の到着時間を聞いて、わたしはお化粧を始める。ほんのちょっとだけ、いつもより念入りに可愛く見えるように頑張った。

 鏡に映る自分の表情が、少し不安そうだった。

 ……昨日、幸良くんが“あの名前”のことを聞いてきた。もやもやして少しだけ寝不足だけど、彼の前では普段通りにしていよう。


 身支度を終えて玄関でお気に入りのスニーカーを履いてから、部屋を振り返った。寂しい部屋には折り紙や百円ショップで買ったお粗末な飾り付けが大量に施されている。出来はチープでも、結構な手間がかかっているのがミソだ。まるで、小学生の誕生日パーティーのような子供じみた模様替えだった。これを見たときの幸良くんが一体どんな顔をするのかが楽しみで、それだけのためにやった。後悔はしていない。

 わたしが空港まで迎えに来ることを、幸良くんは知らない。これはサプライズなのだ。

 くっくっくとわたしは心の中で悪戯なことを考える。自分が二十一歳なのか怪しくなってくる。バカだな、子供だなと思いつつも、うきうきが止まらない。幸良くんの帰宅をどれだけ待ち望んでいたことか。


 ――早く、一緒に喋りたいな。


 わたしは部屋を出て、鍵を閉めた。

 スマートフォンの乗り換え案内アプリを駆使しながら、空港への路線を調べる。実は電車にあまり乗ったことがない。それでも苦手なりに数分遅れでようやく空港に辿り着く。早めに家を出て正解だったみたい。

 空港に来るのは始めてだった。ことあるごとに駅員さんや空港のスタッフさんに訊ねて、ようやく到着ロビーまで辿り着くことができた。


「なんか、疲れた……」


 せっかく綺麗にしてきたのに、げっそりしてしまう。ミネラルウォーターを口に含んで、少しでも元気を取り戻す。

 やがて、到着した人たちがぞろぞろとロビーへなだれてくる。幸良くんの姿を見逃さないため、わたしは必死に首をきょろきょろさせた。これで会えなかったらわたしは泣く。


 そんなことを考えながらしばらく待っていると、見覚えのあるスーツケースを引きずった幸良くんが見えた。五日ぶりの姿だった。

 ふふふと怪しげな笑みが浮かんでしかたない。さて、どうやって脅かしてやろうものか。背後から近づいてお約束の「だーれだ?」。不意をついて突然抱きついたって――。


 しかし、わたしの思考は突然終了する。


 幸良くんが、女の人を抱きしめていた。


 ちょっと瞬きをした間に、気が付くとそんなことになっていた。

 驚いたわたしは視線をそらす。予想すらしていなかった光景に、どういう顔をしていいのかわからない。あの人は、誰だろう。

 そして、困惑と同時に込み上げてくるものがあった。鼻の奥がつんとしてくる。

 わたしは、もう一度だけ前を向く。すると、今度は幸良くんがこちらを見ていた。


「……あれ、立夏? なんでこんなところに」


 彼は驚いた表情をしていた。その表情は、一体どっちのものなのだろう。


「…………おかえり、幸良くん」


 ポロリと瞳から涙がこぼれ落ちる。


 なぜ泣いているのか、自分でも意味がわからない。とにかくわたしは悲しくて、恥ずかしくて、その場を逃げ去る。


「立夏、おい待てよ!」


 幸良くんの叫び声が後ろのほうで聞こえる。でも止まれなかった。わたしは、これからどこへ行くのだろう。

 ひ弱なわたしは足が遅かった。すぐに幸良くんに追い付かれて、手首を強く握られてしまう。


「なあ、何で泣いてるんだ。お前」


 幸良くんが、幼い子供に尋ねるような優しい声で、俯くわたしを覗いてくる。


「……別に。泣いてないもん。これ、目薬だから」

「いくらなんでも嘘下手くそすぎだろ……」

「…………」

「もしかして……さっきの女の人が原因?」

「知らない」

「あの人は俺もさっきあった人だよ。躓いて転びそうになったから、咄嗟に抱き寄せちゃったんだ」

「嘘っぽい」

「嘘じゃないって」

「彼女ならそうだって言ってよ、そしたらわたしはあの家を出て行くから」

「なんでそうなるんだよ、違うって言ってるだろ」

「……帰る」


 感情的になっている自分がバカみたいだった。ネットで心無い人たちから“フェミさん”と小バカにされている女の一人になっている気分だった。自分は違うと思っていたのに。もう少し論理的な思考を持ち合わせている人間だと思っていた。なのに今は“悲しい”と“虚しい”ばかりが頭を埋め尽くしてしまっている。


「あ、てか急いで来たからスーツケース置いてきちゃったんだよ、ちょっと取ってくるからここで待ってろよ、立夏」

「…………」


 わたしはすっと動き出す。


「あ、このやろ、待てってのに! 待て立夏、ストップしろストーップ!」


 幸良くんが大声を上げながらわたしの後ろにくっついてくる。この人、こんなに人前で大声出せるような人だった? そういう世間体凄く気にしそうなタイプなのに。

 結局、わたしたちは同じ電車に乗ることになった。


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