第9話 夢の国への小旅行


「来週から福岡で現場作業やろ、お前張りつけ」


 担当課長の加藤が朝っぱらから投げやりに言い捨てた。

 スケジュールを確認する。一週間丸々福岡の行程が引かれている。前はそれでなんの問題もなかった。しかし、今では一番に立夏のことが頭に浮かんでしまう。


「なんや、文句あるんか」

「……いえ、ありません。了解しました」

「安全対策しっかりせえよ、わかってんのか雨澤ァ!」


 朝っぱらから元気なことだ。話半分に聞きながら、とりあえず先日のことを謝ったら怒りがぶり返したのか、ぐちぐち昨日と同じことを言い始めた。一時間程度たっぷりと彼のデスクの横で棒立ちになってから、ようやく俺は解放され自分の仕事に戻れるのだった。


「――ってことで、来週から五日間出張が決まった」

「ええー、じゃあわたしずっと一人っきりってこと?」


 夕食の席で、立夏に福岡出張の件を告げる。わざとらしく頬を膨らませる立夏。しかし、少しずつ頬の空気が抜けて萎んでいく。なんだ、その面白い顔は。


「むう……でもお仕事じゃしょうがないもんね、わかったよう」

「なんだよ、もしかして寂しいのか?」

「そんなわけないじゃん。何バカ言ってんの。せいせいするー、あーせいせいするなあ」


 明らかに動揺したような顔である。あまり見ることのない表情だった。


「……お前でも、そんな焦った顔したりするんだな」

「してないよーだ。もういいよ、北海道でもアフリカでも好きなところ行っちゃえ」

「女の人って、面白い怒りかたするよな」


 まあ……少し可愛いなと思ったりもするが。そんなことを考えていると、立夏が「そうだ!」と瞳を輝かせる。


「埋め合わせをしてもらわなくちゃ!」

「待て。なんの埋め合わせだよ。別にお前は俺の出張をなんとも思ってないんだろ?」

「そ、それはそうだけど……幸良くんが居ない間のゴミ出しとか、風呂掃除とかどうするのよ。わたしが代わりにやるしかないじゃん。……っていうことは? 立夏ちゃんポイントがバンバン溜まっていくわけですよ」

「……ちなみに今どのくらい溜まってんの?」

「…………3000立夏ちゃん」

「絶対テキトーに言ったな。ていうかずるいだろ、お前は家にしか居ないんだから。その謎ポイントで何ができるのかお前しか知らないし、実質やりたい放題じゃないか」

「わー、うるさいうるさい! ということで、次の土曜日は小旅行に行くこと決定しました! わー、ぱちぱちー! 待ってましたー! うおー! いいぞー! 楽しみー!」


 立夏が声色を変えながら、一人コントを開始する。


「なんで複数人居るんだよ、誰だよ拍手してる奴ら」


 いつもの謎のテンションに引っ張られながらも、俺たちは週末の旅行の計画を立てることになった。ほとんど強引に立夏が決めてしまったのだけど。


「そういえば、幸良くんの私服ってどんな感じなの?」

「どうって……」


 立夏の前ではスーツと部屋着以外の服を見せたことがない気がした。

 俺たちはクローゼットを開き、小さなファッションショーを始めた。俺の自信コーデは、立夏からは28点という評価点を頂いた。とどめの一発は、「何そのダサい服どこに売ってたの」である。その文句、この服をデザインしたやつに言ってくれないか。


 金曜日の夜、用事があると強引に会社を定時で切り上げて、俺は駅前で立夏と合流した。彼女は外行のきちんとした服装に、ちゃんと化粧をしていた。


「何してんの、早く行こ」

「あ、ああ……」


 Tシャツにホットパンツのラフスタイルが立夏の基本だと思っていたせいか、俺は驚いて声が出せなかった。そして、彼女はそんな俺を見て面白がっているようだった。


「可愛くなったわたしに見惚れてたの?」

「何を言ってんだか。ちょっと自意識過剰なんじゃないか」

「ふーんだ。あっそーですか!」


 少しずつ歩行スピードが上がっていく立夏。……女って難しい。

 俺たちはカジュアル衣料品の専門店へ向かった。


「幸良くんはねえ、結構細身だからサマーカーディガンとデザインTシャツ、スリムなチノパンあたりのキレイめスタイルでまず間違いないと思うんだよね」


 そんなことを言いながら店内をガツガツと進んで行き、立夏はいくつかの商品を俺に渡して試着室へと向かわせた。


「……ど、どうだ?」

「……ふむ、悪くない」


 とっても偉そうな立夏様。でも少し楽しそうである。


「ちょっとこっちも着てみて、幸良くん」

「あ、はい」

「ジャケットもなかなかイケるな……幸良くん、結構シルエット良いのかもしれない」

「どうも……ありがとうございます……?」


 それからたっぷり三十分くらいは着せ替え人形雨澤幸良として俺は生きた。頑張った。

 帰りに二人で定食屋に入って、俺がとんかつ定食、立夏がヘルシー野菜定食を頼んだ。なんだかいつもと違う日常で、少しだけ楽しかった気がした。


 * * *


 土曜日、小旅行という名の遊園地お泊まり計画が始まった。そこまで遠くはないから、あまり旅行という気はしないが、立夏的には旅行らしい。


「わぁー、見てみて幸良くん凄いよ! あそこに本物のパッキーがいる!」


 立夏が瞳をきらきらさせながら幼稚園児みたいにはしゃいだ。二十歳を越えた大人でもこんなに無邪気になれるのだから、ある意味ここは夢の国なんだろうな。


「あの中どうせおっさんだろ」

「違うよ、着ぐるみの中は狭いから、きっと小っちゃいお姉さんだって!」

「それ本物じゃないじゃんかよ!」

「この世界では本物なの! 信じろ、さらば与えられん」


 立夏はそのままマスコットキャラの元へ突っ込んでいき、一緒にピースをした。写真撮影は俺がした。

 立夏はそれからも様々なマスコットキャラクターと自分の写真を撮りまくった。なんでそんなに曇り一つ無い笑顔をそこら中に振りまけるのか、俺には到底理解できない。役者かなんかに向いてるんじゃないのかこいつ。


 二人で小休憩を兼ねてベンチに座っていると、一生懸命チュロスを頬張っていた立夏が、もぐもぐしながら口を開いた。


「ふひらくんもひっしょにふぁしんとおうよ」

「食ってから喋れ。それに……ほっぺに砂糖付いてるぞ」

「ん?」


 チュロス片手に反対の頬をかく立夏。お約束野郎か、お前は。俺はハンカチで彼女の汚れた頬を軽くはらってやる。


「まったく子供かよ、お前」

「え、何今の……ちょっとやだ紳士的なやつ!」

「は? 何が」

「無自覚的なやつ! やめてよ急にそういうの!」

「何言ってんだお前」


 何やら楽しそうである。夢の国に来れて良かったな、立夏。


「ちょっと待って今気持ちを落ち着けるから。すーはーすーはー……チュロス、いる?」


 身体を捻って俺に背中を向ける立夏が、食いかけチュロスを向けてくる。


「どうしてそうなる……で、さっきはなんて言ったんだよ」

「幸良くんも一緒に写真撮ろうよ、って言ったんだよ」

「俺、写真嫌いなんだよな」

「なんで? 普通に嫌いそうだなと思ったけど、一応理由を聞いとく」

「いや、たんに写真映りが悪いっていうか、笑えないから」


 本当は、軽いトラウマみたいなものだ。家族が一斉に亡くなった五歳のとき、俺はまだ人間の死というものが良く理解できていなかった。施設に引き取られて、独りぼっちで家族写真を眺めたとき、この中で生きているのがもう自分一人だけなのだということが怖くて、それ以降家族写真を見ることが嫌になってしまったのだ。もちろん今はもう乗り越えているし、たまに家族写真を眺めることもある。ただ、やっぱり嫌いなものは嫌いのままだった。


「ふうん……顔は悪くないと思うけどね。もっと自信持って良いと思うんだけどな」

「そりゃどうも。でも嫌いなものは嫌いなんだ」

「ちょっと笑ってみてよ」

「無理」

「ほら、いっーって。わたしみたいに。いっー」


 立夏は自分の人差し指を頬に付けて、にっこり微笑む。本当に、見ているこちら側が惚れ惚れするような、綺麗な笑顔だった。


「ふん、幼稚園児かよ俺は」


 このやりとりが稚拙すぎてバカらしくなってきて、俺はつい吹き出す。それを目ざとく見ていた立夏が指を指してくる。知ってるか立夏、人に指を差しちゃいけないんだぞ。


「笑えるじゃん。幸良くんは笑えるんだよ」

「別に笑顔を失った訳あり男ってわけじゃないんだ。カメラを向けられたときに自然に笑えないだけだよ」

「うーんそうかあ。無理に笑えとは言わないけど、カメラの前でも自然に笑えるようになるといいな、幸良くん」


 立夏はまるで自分のことのように言った。思えば、最近は立夏との会話の中で俺は笑うことが多い。それもこれもこいつの意味不明な言動を嘲笑っているだけのような気もするが。


「――って言ってる隙にスキヤキ!」

「なっ」


 カシャというシャッター音。どうやら不意を突かれたらしい。それにしてもスキヤキとは何事か。“隙”とかけてるんだろうか。完全にオヤジギャグだ。もはや死語だろ。……突っ込まないぞ。


「あはは、ホントに無表情、幸良くん見てコレ、あっはっは」

「ったく……お前のやることは良くわからん」


 言いながら、立夏が見せてくれたスマートフォンの画面には笑顔でピースをする立夏と、無表情でカメラを認識した瞬間の俺が映っていた。マヌケ面である。こんなものが一生データとして残り続けるかと思うと、死にたくなってくる。


「立夏、写真を消去しよう」

「何言ってんの、そんなのダメに決まってるでしょー」

「追加でチュロス二本買ってやるから」

「え、餌付けしようったって……そうはいかないんだから!」


 結構傾いてたよな、今。……まあいいや。立夏のことだから、悪用してネットにアップしたりは絶対にしないだろう。こいつに悪事は向いていない。色んな意味で。


「そういや、ああいうジェットコースターには乗らなくて良いのか?」


 前方の上空で大きな悲鳴と共に勢いよく落下するマシンを見上げながら訊ねる。この遊園地で一番人気のアトラクションで、ネットの評判だととにかくヤバいらしい。便利だよな、ヤバいって言葉。


「あーそうだねえ。ちょっと苦手……かもなあ」


 立夏は、基本的にコーヒーカップなどの大人しめのアトラクションを好んだ。ジェットコースターだとしても、室内だったり、ゆっくり進むものに足を運んでいた。それが、なんだか立夏の性格にしては大人し過ぎるような気がした。


「意外だな。好きそうなのに」

「高い所が……苦手だから」

「高所恐怖症なのか」


 高所恐怖症だということよりも、立夏の反応が意外だった。彼女なら「わたし高所恐怖症なんだー、だから絶対乗りたくない!」と会話を断ち切ってしまいそうなものなのに。


「まあ嫌なものに乗れとは言わないけどさ、せっかく来たんだし……一番人気のアトラクションに挑戦してみるのもアリなんじゃないか。一人で乗るわけじゃないんだし」

「……幸良くん」

「怖かったら…………なんでもない」

「え、今なんて言おうとしたの? 気になる」

「なんでも良いだろ。行くのか? 行かないのか?」

「えー……さっき言いかけてたこと教えてくれたら答えてあげる」

「……よし、家に帰ろう」

「あー嘘です嘘です、乗りますだから一緒に乗って幸良くん~!」


 * * *


 二時間以上並んで、ようやく俺たちの順番が巡ってくる。立夏はガチガチに緊張していて、これもまた彼女の新しい一面だった。


「待って。幸良くんやっぱり辞めよう。死ぬ。これは死ぬんだよ、地獄への入り口なんだよ」

「こら、キャストさんの前でそういうこと言うな。それにこれまでの二時間を無駄にする気か。……乗るって自分で決めたんだろ?」

「……うん」

「じゃあ一緒に頑張ってみようぜ。ぶっちゃけ言うと、俺もこの手のものは苦手な部類だ」

「でも……」

「……ったく、しょうがねえな」


 おどおどして足を踏み出せずにいる立夏の手を握る。彼女の白い手は滑らかで、ひんやりしていてとても冷たかった。


「これで……どうだ」


 少し緊張しながら立夏の反応を窺う。彼女はしばらくぽけっとしたまま俺の手をじっと眺めていた。


「……幸良くんの手って、温かいね」

「お前の手は冷たいな」

「じゃあわたしは心が温かいってことだね。幸良くんは心が冷たい」

「それ一体どこからの情報なんだよ、どうせ下らない恋愛コラムが発祥なんだろ」

「知らないよそんなこと。あ、わかった! 心が冷たいからわたしにこんな苦行を体験させようとしてるんだろ、そうなんだろ!?」

「お前自分で乗るって言ったよな、俺の目の前で確かにそう言ったよな!? ボイスレコーダーで録音しときゃよかったって心の底から思ってるわ!」


 調子を取り戻した立夏と、いつものやりとりが展開される。これが意外と気持ちいい。そうだ、お前にはその表情が一番良く似合ってるんだぞ。知ってたか?


「あの……カップルのお客様……搭乗していただけますかー?」


 業を煮やした女性スタッフが、少し大きめの声でそんなことを言った。俺は途端に顔が熱くなった。隣の立夏は顔を俯けて訂正するでもなく無言のままである。横の髪を耳にかけていたせいか、熟したトマトのように紅潮した耳が俺にはしっかりと見えてしまった。

 生まれて初めてこんな大恥をかいた気がする。俺たちはとぼとぼとマシンに乗り込んだ。


「うわあ、幸良くん……ヤバい、ヤバいよ」

「さっきからお前ヤバいしか言ってねえぞ」

「だってヤバいんだもん!」


 俺と立夏を乗せたヤバいジェットコースターはもうすぐで山なりレールの頂点に到達しそうだった。その後は……もうおわかりだろう。


「幸良くん、幸良くん」

「なんだよ」

「手、絶対に離したらダメだよ」


 立夏の握る力がぎゅっと強くなる。俺たちの手のひらは一つになり、同じ熱を共有するようになっていた。


「……わかってるよ」


 立夏は瞼を固く閉じていて、下を俯いた状態だった。俺は彼女の腕を突いた。


「立夏」

「ん?」


 立夏がこちらを向く。


「せっかくだ、楽しもうぜ!」


 俺は自然に笑いながら、立夏にそう言った。

 そして次の瞬間、俺たちは悲鳴の渦へと巻き込まれるのだった。


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