第8話 優しい声
「じゃ、行ってくる」
立夏に声をかけると、彼女はいつもみたく犬のように玄関に向かってくる。
「ん、ちょっと待った」
そう言って立夏は俺の首筋に触れた。さらりとした指先が、俺の皮膚をくすぐる。
「おひげのそり残しがあるよ」
「……いいよ、こんくらい」
立夏の顔がすぐ目の前にあった。直視できずに顔をそらす。こいつは何かと距離が近い。
「はあ、またそんなこと言って。そんなんだと会社で一生モテないぞ」
「モテなくていいっての。……今日は、早く帰れるようにするよ」
「当たり前だよ。定時の時点で一回連絡ちょうだいね。あと帰る間際にも」
「そうするから、スタンプの乱用はやめろ」
「だって暇なんだもんー」
「いや、普通に仕事してろよ」
「わたしは好きなときに自由に働くって決めてるんですー」
小生意気な声でそう言って、立夏は背中から巾着袋取りだした。
「これ、お昼に食べて」
「……弁当作ってくれたのか」
「毎日じゃないから。勘違いしないでよ!」
「……なんか、アニメみたいだな。ツンデレって言うんだっけ、こういうの」
「ち、違うし……! そういうのとは違うし! もう、早く行きなよっ」
立夏に背中を押されながら、俺はドアノブに手をかける。そのとき、背後で彼女のくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「何笑ってんだ?」
「ううん、なんか……新婚さんの生活みたいだなって思って」
振り向いたときの立夏は、なぜだか必死に笑みを抑えているような気がした。
* * *
「え、雨澤愛妻弁当かよ!」
同僚の吉川が声高々に叫んだ。結婚はしてないけどな。
「声がでかい。たまたま家に来てる妹が作ってくれたんだ」
「お前、妹とか居たんだ」
「ああ」
正確には“居た”だ。五歳の頃に両親と妹を交通事故で一斉に亡くしている。それ以降身寄りが居なかった俺は、高校生まで施設で育った。
「いいよなあ、俺の彼女、弁当どころか料理も作ってくれたことねえよ」
「そうなのか」
「それで同棲したい結婚したいって抜かしてんだぜ、考えらんねーわ」
「別に女が料理をしなくちゃいけないって決まってるわけじゃないだろ」
「いや、俺はもっと家庭的な子が好きなんだ。今の彼女はルックスは悪くないが結婚したら絶対仕事やめて豚になるぜ、俺にはわかる。恋愛と結婚は別なのさ……」
吉川は一人でぶつぶつ不満を垂れながら、打ち合わせに出かけていった。
定時時刻が近づいてきた頃、俺の社給携帯に一本の連絡が入った。
担当現場の作業員が、顧客に納品したケーブルに傷を付けてしまったのだ。人身被害はないし、顧客設備にも影響はなかった。だが、会社としては重大な問題として取り扱わなければいけないのである。
担当課長である加藤を含めた統括部の偉い方々を集結させて、緊急会議が始まった。
なぜそのようなことが発生したのか、一体どこに問題があったのかを分析し、お詫び状の作成や問題の経緯をまとめた資料、改善策の提示等を行い、客先に頭を下げに行かなければならない。それも今夜中に。
定時後で空調の切れた会議室内には、十数人の社員と幹部が群がっていて、皆がホワイトボードを前に頭を悩ませていた。
「おい雨澤ぁ! 聞いてるのかテメェ! おめェの案件だろうが!」
担当責任者は俺だ。申し訳なさそうな顔をして、頭を下げ続けなければいけないだ。社会人として当然なのは間違いないが、本当につまらない世界だなと思う。
「何かあれば大事故に繋がったんやぞ、もし何千ものサービス停止が起きてたら、テメェの給料賞与オールカットくらいじゃすまねえぞ!」
言っていることはごもっともだが、なんでそこで俺の給料が話に上がってくるのか意味不明である。
「すいません」
「お前、さっきからすいませんばっかじゃねえかよ! テメェ、他人事かっ!」
加藤が吠える。こうして叱りつけ批難することが、己の正義だと信じて疑わない。確かに俺は怒られる立場にある。だけど、今はそんなことよりもなぜそのような状態になってしまったかをチーム全体で共有し、その改善策を上げていかなくちゃいけないんじゃないのか。それに、バカの一つ覚えみたいに怒鳴り散らされては、受け入れるこちら側は疲弊するばかりで反省と見つめ直しの隙間すらない。本末転倒だ、こんなの。
「テメェはなあ、いつもいつも他人事なんだよ、対岸の火事くらいに思ってんだろ!?」
「……思ってません」
他人事だと思っているのは、お前のほうだろう。現場から連絡を受けた俺は、早急に加藤に速報を伝えた。するとこいつは理由を聞くこともなく開幕からブチ切れ、三百人以上居るフロアの中心で俺を罵倒し始めたのだ。公開処刑というやつだ。そして加藤は俺への罵倒が終わると他部署の仲良し管理職の元へ向かい、へらへらした顔で「いやあ、雨澤のアホがやらかしまして」と言ったらしい。自分のグループの部下のミスを笑うっていうのは、他人事なんじゃないのか? あんた、管理職だよな?
緊急会議は夜の十一時まで続いた。その間、立夏からのメッセージに答えることはできなかった。
* * *
「…………ただいま」
「あー、もう、やっと帰ってきた!」
俺が玄関に入ると、頬を膨らませた立夏がとたとたと裸足で出迎えてくれた。デジタルの置き時計を確認する。既に深夜一時を回っていた。
「連絡するって言ったのに! 返事もくれないし!」
「…………ごめん。忙しくて」
靴を脱ぎ捨てて、俺はネクタイを床に放り投げる。
「……何かあったの?」
「いやあ、疲れた」
俺は、そのままソファに頭から飛び込んだ。立夏に背中を向けたまま、疲れた頭の回復を図る。もう何も考えたくない……。
ソファの余ったスペースに、立夏が腰を下ろす。俺の足先が、立夏の腹部へわずかに当たる。
「……幸良くん、話してよ」
「言ったって、どうせわからないよ」
「それでもいいから。内にあるもの、全部吐き出して」
「…………」
なぜだかその言葉を聞いて、俺の視界はじわっと潤んでしまった。泣くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。どうやら相当参ってしまっているらしい。
「……俺が担当する現場でちょっと問題があったんだ、それで上司に滅茶苦茶批難された。ただそれだけだよ」
「あのクソ上司か。セクハラおっぱい野郎の」
「その言いかたはやめてやってくれないか……」
まさか泣き顔を見られるわけにも行かないので、俺はこのままの体勢で今までの経緯を説明した。立夏は相づちを打ったりしながら、俺の愚痴を真剣に聞いてくれていた。
「――結局アイツはゆとり世代だからって、若いヤツを問答無用でバカにしてるんだよ」
「わたしは、そのゆとり時間を持って、積極的に自分のしたいことに打ち込んでいる人のほうが人間として一皮むけてるって思うよ。ただがむしゃらに仕事しかしてこなかった世代が、それを次の世代に押し付けるのは乱暴だなと思う。時代は進んでるんだもん。“今は今”だよ。……仕事っていうのは、自分の人生を彩るためにあるんだから」
「人生を彩るための仕事か……」
その言葉はとても綺麗で、自分には似合わない言葉だった。
「そもそも、会社での仕事内容見てるだけでその人の何がわかるっていうんだろうね。ゆとりって言葉で一括りにして批難したいだけにしか思えない。その人、他人を罵倒することでしか自分の存在価値を見いだせないんだよ。そんな人の言うことなんて、真面目に聞かないでいいよ」
「……そうかな」
「そうだよ。嫌になったら、お仕事なんて辞めちゃえばいいんだから。“上司が嫌いだから仕事やめます。”これだって立派な退職の理由でしょ?」
立夏が、いつもと違う優しい声を俺にかけてくれる。
「今日のことで、きっと幸良くんは今のお仕事が前よりずっと嫌いになっちゃったんだよね。それは当然のことだよ、批難されて嫌な思いしたんだから。でも、それをずっと引きずったままお仕事するのは良くないと、わたしは思う。嫌なら辞める。頑張るなら本気で頑張る。前にも言ったよね、お仕事をしている以上はそれに関わるすべての人に幸良くんの行動は影響してくるんだよ。投げやりな人と、わたしだったら仕事したくない」
立夏は俺のふくらはぎを撫でながら、「決めるのは幸良くんだよ」と言った。
「……やめろ、くすぐったい」
「あは、嫌なの?」
実に楽しそうでムカつく。表情は見られないけど優に想像できる。
「ふふ、今日の幸良くんはなんか子供みたいだね」
ふと後頭部に何かが近づいてくる。俺は瞬時に身体を捻って、立夏の手を弾いた。
「何すんだよ」
「好戦的な幸良くんだ」
「なんだそれ、ブッ飛ばすぞ」
「できないくせに~」
完全にからかわれ、馬鹿にされている。
だけど不思議と、俺の心は温かい何かで満たされていた。
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