第2話 おかえりの三連チャン


 朝、目が覚めると俺は一番にベッドを確認した。

 名前も知らない女が、無地のTシャツにショートパンツという無防備な格好でタオルケットから肌を露出させたまま寝息を立てていた。


「……夢じゃなかったか」


 俺は一人でぼやいてから、洗面所へ向かう。

 少し寝不足だけど、鏡に映る自分の姿に変化はない。となると、やっぱりあの女がおかしいに違いない。俺は自分の青い歯ブラシを手に乗って、毎朝のシャカシャカを始める。

 事情があるとはいえ、素性の良くわからない女と一夜を共にしたことが未だに信じられない。昨夜二人で洗面所を取り合った異様な光景を思い出しながら、俺は身支度を済ませる。


 ……この女、ちゃんと出て行くんだろうな。

 昨日はなんだかんだうやむやにされた気がする。帰ってきても普通にくつろいでたらどうしよう。今度こそ警察に相談だろうか。

 起こそうかと思ったが、少しだけ気が引けた俺は結局女に声をかけずに家を出た。通帳とキャッシュカードを持ち出すことを忘れずに。

 一応、部屋の鍵は閉めておいた。


 * * *


「いやあ、彼女が同棲したいって言うんだけどさ、どう思う?」


 同僚の吉川が隣でキーボードを叩きながらまんざらでもなさそうに言った。

 なぜかその言葉に過剰な反応をした俺は、「ど、同棲か」と言葉を詰まらせる。


「何どもってんだよ。実は雨澤(あまさわ)も同棲してるとか? あれ、彼女居たっけ?」

「いないよ」

「そうだよな。聞いたことねーもん。ってか、ウチの会社の人間って結婚早いかしないかのどっちかだよな。それだと、お前は結婚とかしなさそうだわ」

「そういうお前は? 今付き合って何年目だっけ」

「ちょうど一年。で、たった一年付き合ったくらいで同棲したいとか言いだすんだぜ? 俺的にはちょっと急かしすぎだと思うんだよな。そのうちゼクシィとか机の上に置きだすんじゃねえかと、ヒヤヒヤするわ」

「じゃ、今の彼女とは結婚する気はないってことか?」

「今んとこはな。まだ二十代中盤だぜ。まだまだ遊びてーじゃん」

「お前が良く言うその“遊ぶ”ってのは一体何を指してんだよ」

「そりゃお前、言わなくてもわかんだろ。男ならさ」


 吉川が気持ち悪い笑みをこちらに浮かべながら、作業の手を止める。


「それじゃ彼女が可哀想だな。さっさと別れてあげたほうがいいんじゃないか」

「おま、それとこれとは話が別だろーがよ」

「俺に話を振るときのお前は結構嬉しそうだったけどな」


 俺の言葉に虚を突かれたような吉川は、小さく息をついて頬を指でかいた。


「まあそりゃ、愛されてるんだなって実感できることは嬉しいし。結婚は考えてねーけど」

「めんどくさい奴だな。嫌われちまえ、お前みたいなやつ」

「彼女居ない奴のひがみ出た! ……ってもう部会始まるじゃねーか、また加藤のクソが吠えるところが見られるぜ」


 吉川が楽しそうにノートPCを抱えて席を立つ。毎日クソつまらない仕事でも、こいつみたいに脳天気に生きることができるなら、世界は変わって見えるのだろうか。


 * * *


 自宅のドアノブを回してみると、鍵がかかっていなかった。

 やっぱり出て行かなかったな、あの女……。


 音を立てずにゆっくりと扉を開ける。ソファには女がちょこんと座っていて、ちょうどこちらを見てきた。

 俺は平然を装って玄関で革靴を脱ぐ。というか、部屋の中がやけに涼しいんだが。こいつ勝手にエアコンつけやがったな。節約してんのに。

 女がソファから腰を上げて、裸足のままこちらに歩いてくる。


「おかえりー」


 女のまさかの対応に内心驚きつつも、俺は完全なる無視を決め込んで部屋に上がる。すると女は頬膨らませて、俺と歩幅を合わせるみたいに隣を歩いてくる。


「おかえりー、おかえりー、おかえりー」


 纏わり付いてくる女に目をやることも無くハンガーラックの前に辿り着き、ネクタイを外しながら、だんまりを続ける。これ、俺は服脱いで良いんだよな。……良いのか?


「おかえりーって言ってるんだけど」

「…………」

「返事くらいしなよ。せっかく出迎えてるのに。口ついてないの?」

「頼んでないです」

「そこは優しさじゃん。無償の優しさは絶対に受け取っておいたほうがいいと思うよ」

「……なんでまだ居るんですか。昨日出て行くって約束しましたよね」

「約束? してないよ。君が勝手に言ってただけじゃん」

「……そういうの、屁理屈って言うんですよ」

「そういう君は理屈屋さんだな? 面倒臭い人生生きてそうだね」


 なんでドヤ顔してんだこの女。お前の存在が面倒臭いわ。


「っていうか、何勝手にエアコン付けてるんですか。まだ外は26℃だ。付けるには早い」

「だってジメジメしてて暑いんだもん。あ、でも今は夜だから涼しいか」

「無駄遣いしないでください」


 リモコンで電源を切ってから窓を開ける。涼やかな夜風が、部屋中に広がっている乾燥した空気を吹き飛ばしてくれる。


「ああ~、わたしのオアシスが無慈悲にも終了させられたよー」

 女が大袈裟なリアクションで落胆する。そんな彼女を横目に見ながら、俺は質問する。


「……なんで鍵が開いてるんですか」

「え? 昼間にちょっと外出したから」

「帰ったんなら普通は鍵閉めるでしょ」

「そう? わたしが部屋にいるんだし、別に良くない?」

「良くありませんよ。泥棒とか不審者が入ってきたらどうするんですか」

「……やっつける」

「ふざけてんですか?」


 自分が女だってことを自覚してないのか、この女。フライパンでやっつけるってか?

 俺が訝しげな視線を向けると、女は面倒臭そうにため息をついた。


「君メンドくさ! 細かいなぁ、どうでもいいじゃんそんなこと」

「全然良くないわ、俺のウチだぞ!」


 つい声を荒げてしまう。本当に昨夜から何回言ってると思ってるんだよこのセリフ。


「出た! それお互い不毛な感じになるからさ、もう今後『これは自分のだ』ってやつは禁止ね。君、罰ゲーム一回分溜まったから」

「溜まってんのはアンタへの怒りですよ」


 何が罰ゲームだ、ふざけんなと女を睨み付ける。すると女は、俺の視線もお構いなしで、じーっと俺の顔を見つめてくる。


「……帰るの、遅いんだね」

「だからなんですか。干渉してこないで下さい」


 女性の前で着替えるわけにも行かず、とりあえずネクタイだけを外した俺は、コンビニ袋をローテーブルの上に置いて、さっきまで女が座っていたソファに腰を下ろす。もちろん、先ほど彼女が座っていなかったほうだ。


「あ、ご飯食べるの? わたしの分は?」

「は? 何言ってんですかマジで」


 一人分のデミグラスハンバーグ弁当をビニール袋から取り出し、冷蔵庫で麦茶を取りだす。


「え、ひどい! 自分の分だけだ!」

「当たり前のこと言わないでください。これ、俺の金で買ってるんですよ」

「うわー……せこい。優しくない」

「むしろなぜ買ってきてくれると思えたのか不思議でならない」

「ま、別にわたしも夜ご飯は済ませてるんだけどね」

「食ってんじゃねーか!」


 さっきまでの流れは一体なんだったんだ、と思わずには居られない。


「当たり前じゃん。こんな深夜にご飯食べるなんて、身体に悪いんだよ? しかもコンビニ弁当……いつもそうなの?」


 なぜか女は心配そうなニュアンスの声色と表情で、訊ねてきた。


「別になんだっていいでしょう。名前も知らないあなたには関係ないことだ」

「わたしの名前、知りたい?」

「別に」

「チヂミ」

「嘘つけ」

「……っていうのは冗談で、本当は田中太郎」

「男じゃねえか!」

「じゃあ、ヨハン・リーベルト」

「普通にじゃあって言ったよね今。しかも無駄に格好良い感じにすんな」

「……へへ、秘密」

「結局教える気ないんじゃないか……なんなんだよ、一体」


 氷いっぱいのグラスを持ってソファに戻る。さっきまで俺が居た場所の隣に彼女は座っていた。こいつの距離感なんなんだ。

 俺はソファには座らず地べたにあぐらをかいて、ハンバーグに箸を差し込む。


「君の名前は雨澤幸良(ゆきら)って言うんだね。珍しい名前」

「なんで知ってる……?」

「電気料金の紙に書いてあった」

「なんか色々不公平だ……」


 そもそもこの部屋の契約者は自分なのだから、例えこの女の私物があったとしても、立場が強いのは俺なのでは? どこかに訴えればすべて解決するんじゃないか? っていうか本当にこいついつまでウチに居るつもりなんだ?

 そんなこと一ミリも考えてなさそうな女が、弁当を食べている俺をじっと見つめてくる。


「あのさあ、幸良くん」

「いきなり名前呼びかよ……図々しいなアンタ。っていうか人の食事シーンを勝手に見るな」


 俺の意見など聞く気もなさそうな女は、俺のハンバーグから目を反らすことなく言った。


「お互いに良くわからない状況下なんだしさ、色々と協力してったほうがいいと思うんだけど、わたしたち。……あと、ハンバーグ一口ちょうだい?」

「協力? それ言っちゃうの? 自分の周りを良く見てみなさいよ。よくもまあ一日でこんなに部屋が汚せるな」


 なんというか、昨日と比べて単純に物の量が増えている。開いたままの雑誌から脱ぎ散らかした衣服、横に倒れた爪切りと丸めたティッシュの数々――そのすべてがテーブルに置かれるでもなく床に広がっているのだ。綺麗好きの俺としては許せない。今すぐ食事を中止してすべて片付けてやりたい。この謎の女も一緒にな。


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