第3話 トイレの花子さんはトイレの水を流しまくれない


「ねえ、ハンバーグちょうだい」

「やだね」

「ぶう、けちー!」

「いいから部屋を片付けてくれ。話はそれからだ」

「そんなことしてたら幸良くん全部食べちゃうでしょ!」

「その下りはもう終わったんだよ! っていうかアンタ今日一日何してたんだよ」

「別にいいじゃん。教える義理はないはず」

「外出したって言ってたな……仕事か?」

「お仕事は基本的に在宅だから会社とかには行かないよ」

「在宅? 自宅警備員とか下らないこと言わないだろうな」

「言わないって。フリーランスってやつ。物書きしてるんだ、わたし」

「物書きって……ライターとかってこと?」

「そそ。一応そこそこ売れてる小説家なんだよ」

「嘘くさいなあ……」

「本当だってば! ほら、こういうの書いてるの」


 女が部屋の隅に置いてあったスーツケースの中から、一冊の本を押し付けてきた。


「……あんなスーツケース、昨日あったっけ」

「あったよ! もう、幸良くんってば物忘れ激しいんじゃないの」

「それはアンタもだろ! 家に俺の私物があることに最近気が付いたくせに」


 俺たち言い争いは、いつの間にか振り出しに戻っていた。


「にしても小説家ねえ……もっと頭良さげな人かと思ってたよ。そういう職業の人は」

 ぺらぺらと彼女の本らしいものをめくりながら言ってやる。ちなみに俺は活字が苦手なのでほとんど読めない。


「な、失礼な。映画化の話も上がり始めてるくらいには売れてるのに」

「なんだって……? この本が映画になるのか?」

「厳密にはデビュー作のほうが、だけどね。何? 幸良くん映画が好きなの?」


 女は俺の表情が変化したことに興味を示したらしく、少し唇をにこりとさせる。


「まあ……唯一の趣味というか」

「一番好きな映画は?」

「んー……悩むけど、『スタンド・バイ・ミー』」

「へえ、随分古い映画が好きなんだね」

「あの儚いラストは最高だろ。名作でしかない……っていうか、『スタンド・バイ・ミー』が古い映画だと知ってるってことは、君もそこそこ映画を見るってことか。アンタくらいの若さで知ってる人ってあんまりいないし。いくつか知らないけど」

「物語作る職業柄、勉強も兼ねて映画は良く見るよ。……ちなみに“ピチピチ”の二十一歳ですっ」

「……好きな映画は?」

「ツッコミなくて悲しい……好きな映画はね、楽しくて幸せになれるような作品が好き。『魔法にかけられて』とか」

「ディズニーのやつか。アニメと実写の融合……あれも素晴らしい作品だ」

「『プラダを着た悪魔』とかも好き! 女優さんたちの来てる服がもうとにかくお洒落なの!」

「お仕事もの映画として定番だね。わかりやすいエンタメ作品が好きなんだな」

「そうだね。あんまり難解な作品は合わないこと多いかも。もちろん良い小説書くためにそういう作品も勉強はするんだけどね……あ、そういえば、記憶を消してくれる組織が出てくる映画とかあった気がする。上手くいかなくなったカップルがお互いに自分の記憶を消しちゃう……、みたいな。なんか難しかったからあんまり覚えてないんだけど」

「『エターナル・サンシャイン』かな、多分」

「あ、それかも! パッとタイトルが出てくるなんてすごいね。本当に映画好きなんだ」

「まあメジャーでもマイナーでも人気作はそれなりに。なんで突然思い出したんだ?」

「え? なんとなく今のわたしたちと状況似てるなあって思って」

「確かに……言われてみれば。でも実際そんなことがあったらこの世界は回ってはいかないだろうな。フィクションの世界は嘘だからこそ娯楽として楽しめるんだ」

「そうかもしれないけど、現実にもそういう不思議なことってあるかもしれないじゃん」


 女が明日の天気を予想するみたいに言った。能天気なやつだ。


「ねえねえ、他にもお勧めの映画ってないの? せっかくだから教えてよ」


 女が語尾を踊らせながら訊ねてくる。笑うと、表情がもっと幼く感じた。

 それからも俺たちは映画の話を続けた。まさか名前も知らない女と同じ趣味で盛り上がるなんて思いもしなかった。周りに映画の話をできる人間が居ないせいだろうか、俺は食事が済んでも彼女と長いこと語り合った。それは、とても不思議な空間だった。


「――幸良くんはお仕事何してるの?」


 ソファで体育座りをした彼女が、落ち着きなく身体を揺すりながら聞いてくる。


「ネットワーク関係だよ。お客さんの施設でサーバー納入したりケーブル引っ張たり……まあ、IT系の土方とかって良く言われるね」

「土方って、あのだぼだぼした感じのズボン履いてる人?」

「それニッカポッカだろ。ウチのは帯電防止作業着だよ」

「……たいでん? 全然意味わかんない。……はっ、もしかして幸良くん、頭良さそうに見せようとしてる……?」

「面白いこと考えるなアンタ。ちょっとだけ天然入ってるっぽいけど」


 女はぽかんとした表情のまま、俺の目を見つめてくる。


「……危ないお仕事なの?」

「事故とかはあるけど、実際に手を動かすのは俺じゃないからね」

「ふーん……それ、楽しい?」

「全然。なんの感情もないよ。ただ金稼ぐために働いてるだけ。上司はクソだし、残業多いし、現場行くときはダサい作業着着て行かなくちゃいけないし。不満しかない」

「ふうん。なんでそんなに不満だらけなのにその会社で働いてるの?」

「なんでって……道すがらそうなったってけだよ。大半の人がそんなもんじゃないか?」

「そんなに嫌なら、お仕事辞めたらいいんじゃない?」


 その投げやりな言葉に、俺は少し気分を害した。


「……辞めたところで、どうやって生きていくんだよ」

「そんなの、君が楽しい気持ちになれるお仕事を探すんだよ」

「楽しいって……なんじゃそりゃ。そんな風に仕事を選べるやつは限られてるだろ」

「やるまえに選択肢から外しちゃうのはもったいないと思うけどなあ……それに、組織で働いてる以上は志を共にするのが会社ってものでしょ? 真剣に頑張ってる人たちと、無感情でお仕事をしてる幸良くんが、気持ちよく一緒に働けるとは思えないから。お互い嫌な思いするだけじゃないかな」

「手厳しいこと言ってくれるね。俺はたしかにやる気なんてこれっぽっちもない。入社するときは愛社精神振りまくって、いざ属すれば上昇志向皆無の典型的なお荷物社員になった。でも仕事っていうのは金を稼ぐためにやるべきことであって、別に情熱を持っていなくてもかまわないだろ。もちろん、だからといって手を抜いているわけじゃない。最低限の労力でしっかりこなしてるんだ、それで問題ないはずだ」

「そういう考えかたがダメだって言ってるんじゃないよ。でも会社に尽くす代わりに給与を受け取る関係の上で採用してるわけだから、組織の一員として社会と接する以上は志を持ってやるべきなんじゃないかなあ。……でもそれって君にとっては自分に嘘つきながら働くってことだから、結局のところ楽しくないし、人生の時間の無駄な気がするんだよ。そりゃ、お金は手に入るだろうけど」


 栗色の毛先をくるくると指に絡ませながら女がうーんと唸った。意見は纏めてから口にしろと言いたい。会議の鉄則だ。


「仕事してる時間なんてさっさと過ぎてもらったほうが俺としては良い。むしろ、仕事してる時間が人生の無駄だ」


 テーブルに広げていた弁当箱をビニール袋に戻して、席を立つ。ソファに座る女は真っ黒なテレビ画面を見つめながら、足の爪をいじくっていた。


「……幸良くんさ、本当はやりたい仕事とかあったの?」

「それはなんだ。夢とかそういう話か。なら、考えたこともないね」


 ビニール袋をゴミ箱に放り捨てて、グラスに麦茶を注ぐ。


「映画好きじゃん。映画監督とか、映画評論家とか考えたことなかったの」

「そんなもん、なれるわけないだろう……子供じゃないんだから」


 想い描いたことはある。だけど、そんなの無理に決まってる。


「一つ、わたしが大事だと思ってることを言うね。“人生は有限”なんだよ。特に仕事は人生で最も長い期間付き合っていくことになるんだもん、やるなら自分で納得できなくちゃ。幸良くんの大切な人生の一部なんだから」

「うるさいな。年下に説教される筋合いなんてないよ」

「説教なんてしてないよ。君は現状に納得してないようにみえるって言ってるの。自虐的になってるというか、色々無理してない?」


 女が、まっすぐな瞳で俺を見つめてくる。

「…………」


 女の言葉は、すべてが夢物語のようだった。さぞ社会経験が無いと見える。人生ってのはそんな楽しいことだけでやっていけるもんじゃない。


「アンタは子供だな。大人の世界はそんなに単純じゃないんだよ」


 大した人生を歩んできたわけでもないけれど、この女よりは世間を知ってる。俺はとことん偉そうにしながら冷えた麦茶をごくりと飲み込んだ。


「そんな風にふてくされながら大人として生きていく理由って何? 一日の大半がお仕事してる時間なのに、そんなんで人生楽しいわけないじゃん。そんなんじゃ、すぐにおじいちゃんになっちゃうよ」


「……そうかもな。でもだからなんだよ。アンタには関係無いだろ」

「あっそ! じゃあもう勝手にすれば!」


 女が突然声を上げて、俺に背中を向けた。


「なんでちょっとキレてんだよ……普通に勝手にするけど」

「キレてないもん!」


 女は明らかに不機嫌そうに頬を膨らませながら、勝手にトイレに駆け込んだ。やがてドアがゆっくり開き、女が顔を半分ほど出した。


「不慮の事故が起きて……明日なんてこないかもしれないのに……幸良くん……限りある人生は……大切に扱ったほうが良いと思うよ……思うよ……思うよ……うよ……よ……」


 ぼそぼそと、まるで怨念のようなものが聞こえる。ちなみにセルフエコー。


「俺が死ぬってか、嫌なやつだなお前! もうそのまま出てくんな」

「トイレの花子さんになって祟るよ……」

「いいよ、一生そこで便所メシしてろ」

「む、幸良くんが寝てるときもずっとトイレの水流しまくってやるんだから!」

「陰湿! 地味な嫌がらせ!」


 その後、女は何事もなかったかのようにトイレから出てきたが、俺が寝静まる頃になると、用もないのに本当にトイレの水を流し始めた。

 でも流しまくることはできなかったようである。ざまあみろ。


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