知らないキミとの0距離ワンルーム
織星伊吹
第1話 知らない女
初夏の熱さでじんわり蒸れたワイシャツを引っ張りながら、アパートの階段を上った。
時刻は二十三時。周囲のことなど気にせず俺は大きなため息をつく。昼すぎに客先でクソ上司に罵られた傷が未だに癒えない。
扉に鍵を差し込んで、ドアノブを回す。
ガチャン――――開かなかった。
今朝閉め忘れたのかもしれない。不用心な自分に舌打ちしつつ、今度は鍵を反対方向に回し、扉を開ける。
家賃64000円の一人用ワンルーム。いつもコンビニ弁当を食べる小さなローテーブルと、カバーの色が変色した二人がけのソファ。部屋の隅には質素なシングルベッド。
疲弊した俺をいつも迎えてくれるのは、主人を待つ我が家の日用品たちだ。
……それなのに、真っ暗であるはずの部屋が明るかった。
何かが、おかしい。
吸い込まれるように、部屋の中心に視線を向ける。
俺のワンルームの中に、知らない女が居座っていた。
「は?」
「え?」
我が物顔でソファにくつろいでいる見知らぬ女が、俺と同時に間の抜けた声を上げる。あまりのことに俺は口を開けたまま固まってしまった。結果、しばらく見つめ合う。
「あの、ここは……自分の家なんですが……」
「は、はあ? あなた何言ってるんですか、ていうか誰なんですか。何勝手に人の部屋に上がってるの!」
「ま、待って下さい。おかしいのはそちらですよ。俺、今朝だって普通にこの家に居たんですから」
「ちょっと! 勝手に入ってこないで! ホントになんなの。それ以上近付いてきたらっ……け、警察に通報しますよ」
「いやいや、それそのまんまこっちのセリフですから。本当に勘弁してくださいよ、あなた一体誰なんですか。早く出て行ってください」
あまりの意味のわからなさと、女の甲高い声に肌がぴりぴりしてくる。ひやりとした汗が穴という穴から漏れ始めそうだった。
「いやだ! だってここはわたしの家なんだもん!」
挙げ句に女が子供みたいなことを言い始めた。俺の家で本当に何言ってるんだ、こいつ。唯一の安らぎ空間であるはずの自宅が、正体不明の女に突然奪われるとか、笑えない。
「いや……その、俺疲れてて……もう……本当に、あの、すいません」
頭がくらくらしてくる。さっさと追い返して弁当を食べたい。俺は靴を脱いで、見知らぬ女の手首を強引に掴む。
「やっ……何する気!? ちょ、ちょっと……お、大声出すわよ!」
「はぁ!? 俺が被害者側なんですけど――」
「いいの!? 出すよ大声っ!」
女は大袈裟にすぅぅ…………と息を吸い込み、
「――きゃああああああああああ!!」
「ちょっと! 夜中ですよ、近所迷惑だからやめてください!」
女の口元を無理矢理に押さえ付ける。今この瞬間を近隣住民に見られでもしたら俺のほうが犯罪者になりそうで怖い。
数分間のいざこざはあったものの、ひとまず一度落ち着き、冷静に話し合うことにした。
「……いいですか、今からこのアパートの契約者が誰かを確認取ります」
フローリングで胡座をかきながら、俺はスマートフォンを耳に当てる。
小さなローテーブルを挟んで、ソファに座っている女を一瞥する。肩までの長さの栗色の髪に包み込まれた小さな顔。フェイスラインはシャープで一見綺麗めの美人だが、他のパーツは全体的に丸っこく童顔で可愛らしい感じだった。もちろん、今は興奮して表情を歪めているせいで可愛いなんて到底思えないけど。
「動かないでくださいよ。凶器でも取り出されたらたまったもんじゃない」
「そっちこそ! 本当は違う人に電話かけてるんじゃないの? ……怪しい!」
「スピーカーフォンに変えます。だから黙って聞いてて」
「……むう」
納得のいっていない表情で女が俺を睨み付けてくる。ふざけんなこの女マジでなんなんだ。ていうかなんでお前がソファで俺が床なんだよ。
結果、やはりこのアパートの契約者は俺になっていた。良かった……本当にほっとした。
「――というわけなので、出て行ってもらえますか?」
俺が自信満々にそう言ってやると、女は驚いた表情のまま何も言えないでいた。
「おかしい……こんなのおかしいよ、絶対にわたしの家なのに」
女が突然立ち上がり、部屋の中を動き回る。
「は? おいちょっと待て! 何勝手に歩き回ってんだよ」
女は俺の声に反応することなく突き進み、洗面台の前に立つと、人差し指を突き立てる。
細い指のその先には、二本の歯ブラシが並んでいた。
女はピンク色の歯ブラシをひったくるように握って、ぐいと見せつけてくる。
「これ、わたしのだよ。この青いのは……あなたの?」
女が握っている歯ブラシは、今朝の時点で俺の家に存在しない物だった。ちなみに隣に立て掛けられている青色の歯ブラシは俺が毎日使っているものだ。
「なんでそんなものが」
「わたしだって……昨日までこんな汚い歯ブラシ無かったのに」
俺の歯ブラシを睨めつけ、女が心底気味悪そうな顔で吐き捨てる。その表情は嘘をついているようには見えなかった。
俺たちは二人で一緒に部屋を見て回ることにした。すると、奇妙なことに女物の洋服や化粧品など、男の独り暮らしには不必要な物が数多く出てきた。もちろん、俺にはそんなもの買った記憶などない。そしてそれは相手も同じようで、男くさい物を見つけるたびに彼女は眉を顰めていた。
「どういうことなの……? あなたもわたしも、おかしくない?」
「……良くわからないけど、名義上はここの契約者は俺になってるんですから、出て行ってくださいよ」
「ひどい。こんな夜中に女の子を一人で追い出すんだ」
「……それは」
それを言われると良心が傷む。この女がおかしいのは間違いないが、事情はどうあれこんな夜に若い女性を外に追い出すのは、男としてどうなんだろう……。
「……わかりましたよ。じゃあとりあえず今日はこの部屋に泊まっていいです。でも明日には出て行ってください」
「なんでわたしの家なのにそんなこと言われなくちゃいけないわけ! この部屋の鍵だって持ってるのに!」
女が突き付けてきた鍵は本物だった。ちなみに俺は合鍵なんて作ったことがない。
ここは自分の部屋だとお互いに主張し合うことにも疲れ始めたころ、時刻は夜中の三時を過ぎてしまっていた。しかし、だからといって会社を休むわけにもいかない。問題は山積みだったが、俺たちは早々に休むことにしたのだ。
ベッドに入り込もうとする俺に、女が信じられない発言をした。
「ちょっと、何勝手にわたしのベッドに入ってるの!」
「いや、これは俺が初任給で買ったやつで――」
「違うよ! それはわたしが引越祝いでお母さんに買ってもらったんだもん」
「…………マジでなんなんだ」
渋々ベッドから身体を起こして、二人がけソファに腰を下ろす。
「とりあえず今日はあなたがそのベッド使っていいですよ。俺はこっちで寝ますから」
「とーぜんでしょ」
「……当然じゃねーよ」
女に聞こえないくらいの声量で、俺は文句を言った。内心のムカムカが収まらない。
当たり前の話だが、この部屋が間違いなく俺の部屋であることは俺自身が一番良くわかっている。しかし、女物の下着が実際にこの部屋にあるのも事実だった。
動機は不明だが、女がこの部屋を自分の部屋に装うことは可能だ。俺が仕事に行っている間に、なぜか持っている合い鍵で部屋の至るところに女性用の生活品をセッティングすればいいのだから。
もし金品の巻き上げが目的ならば、どうして昼間のうちに部屋を荒らさない? 無防備な姿で部屋に居座っているのが謎だし、キャッシュカードは無事だった。何も盗られてはいないと思う。
他に可能性が考えられるとしたら、新手の美人局(つつもたせ)だろうか。明日起きたら怖い顔のおじさんが「俺の女に手ェ出しやがって」とど突いてきて高額要求されるパターン……だとしたら人生終了だ。
色々と不安はつきないが、それでも俺はあの女を無理矢理追い出すことができない。少し話をしただけではあるが、悪人でないことはなんとなくわかる。
それにしても、女が意図的にとぼけてまで俺の部屋に留まる理由がわからない。演技じゃなく本気なのだとしたら、嘘はついていない? 何かの事故で記憶障害が起きてここを自分の家だと勘違いしているとか?
もし、仮に女が言っていることがすべて本当のことだったとする。ベッドだって母親に買ってもらったものだし、アパートの契約だって自分でしたことになる。すると必然的に“この家は俺の家でもあるし、彼女の家でもある”ということになり、その前提で考えると、不可解な点が多すぎる。
何故俺たちは“同じ家に住んでいながら、お互いのことを一切知らない”のだろうか。“部屋中のいたるところにある私物に一切気が付かなかった”のも妙だ。女もそんな状況に戸惑っているようにみえた。
そう、まるで――、“お互い記憶喪失にでもなっている”みたいな。
仕事で疲れているせいもあってか、瞼を閉じると急激な睡魔がやってきた。そしてそのまま微睡の中へと沈んでいく――。
こうして、名前も知らない女と俺は奇妙な二重生活をするようになった。
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