第9話 変化
「音が変わったねえ」
他のメンバーもうんうんと頷く。
良くなった。とがってたけど優しくなった、と言ってくれたのはピアノの5つ年上の眼鏡をかけた佐伯さんだ。柔らかな標準語が特徴的な彼は軽やかに鍵盤を扱う。
ピアノの佐伯さん、サックスの山根さん、トランペットの佐久間さん、ドラムの安藤さん。
バンドの四人のメンバーは全員年上で、20代後半から30代だったと記憶している。落ち着いている人達で、黙々と音を完璧に近付けていく姿勢が格好良かった。
「なんかあった?」
何気ない感じで山根さんが聞いてくる。いつも真顔で、感情が読み取りにくいが、時々する好奇心旺盛な少年の目を、今もしているのを見逃さなかった。
「いや、特になんも…」
本当に心当たりがなく、首を傾げた。弾き方を意識して変えてみたわけでもない。以前と変わったことといえば、毎日喫茶の皆とあほみたいなことをして、笑っていることくらいだ。
「あ」
立ち上がって、ばさばさ、譜面立てに当たって楽譜を床に落としてしまう。安藤さんが拾って直してくれた。どうしたどうした、笑いながら佐伯さんに聞かれても答えられない。佐久間さんが目を丸くして不思議そうに見ている。山根さんは我関せずと譜面をさらっている。
楽譜を直して、もう一度椅子に座った。安藤さんの指示をする声が聞こえてこない。口を手で押さえる。ひとりでに笑えてくる。
意識すると、生活が音を立てて転がりはじめた。
大学の近くは実家よりは栄えた土地だった。
近所の都市公園の外周をぐるりと走ったり、続けざまの作業に肩が凝れば頭を空にして筋トレに励んだり。やることならいくらだって思いついたから、ひとり暮らしを退屈に思うこともなかった。
今までだって、何もない地元でだってずっと一人で飽きずに遊んできたのだから、環境は問題ではなかったのだ。
組み立てたプラモのパーツがひとつだけ見当たらないことに気付いてしまった時に近いような、心許なさだった。うまく、言い表すことができない。すっかり途方に暮れて、後から考えるほどにそれは分かりやすい答えだったけれど、愚直に頭からその人を追っぱらおうと躍起になった。築いてきたものを簡単に壊されたようで悔しくて、正体を突き止めなければ、元の自分に戻れない気がしたからだ。
高校を卒業する前に原付と車の免許を取ろうとは前から決めていて、大学が長期の休みに入れば実家の車で遠くまで出かけ、野外フェスではひとりだろうとテントを張った。
ネットで知り合った人と山でサバゲーをしたりと飽きずに楽しい毎日を過ごせていたはずなのに、俺はその人に出会ったことで、今まで覚えたことのない感情に悩まされることになった。
別れた後の隙間を、「それ」は覆い始めた。
部屋を掃除して、開いてない雑誌は括って古紙の日に出して、不要な物は業者に引き取ってもらい、それでも前のように集中できない。
すっきりとした部屋でまったくすっきりとしない気持ちで机にうつぶせて、おっちゃんの横顔や首を傾ける癖やくしゃみが消えてくれないと気付いた時、何時間でものめり込めたベースでさえ手に付かなくなってしまった時。
指先から生み出す低音のようにぶれない軸を、ついこの間からの得体のしれない感情に乱されまくっていることを自覚して、恐ろしくなった。
自己表現もコミュニケーションもいままで全部おしゃべりな楽器にまかせきりで、俺はまだこの気持ちを人に伝える言葉を持っていなかった。楽器を扱わない人とは、どうやって気持ちを通わせればいいのか、俺には、分からない。
「…え」
練習がまるで手に付かなかった。
こんなことは、ずっと楽器を弾いてきて初めてのことだった。
走ってみても、同じことだった。頭から、ひとつのことが離れない。ひとりのひとが、離れない。
部屋に戻ると、なんか物足りんなと思うことに気付く。
賑やかな人は苦手で、静かに過ごすのが好きだった。
ずっとひとりが好きだった。人と話すと疲れるから、別れた後は解放感を感じて元気になる。それなのに、また、会いたいと思う。矛盾した気持ちを抱えていた。
考え始めると歯止めがきかず、気付けば朝になってしまう。
とうとう時間の感覚までおかしくなってきた。走るのをやめて、あれだけ真面目に出ていた授業を、その日初めて休んだ。
こんな時に頼れる人もいなくて、相談相手の検索履歴はどんどん痛くてこっぱずかしい感じになってきた。
電源を落とした黒いモニターに映る顔に、自分はこんな顔だったかと見入ってしまう。
数回瞬きをすると、電流が走ったような感覚に襲われて、跳ねるように立ち上がった。何故だかとにかく会わないと、と思った。どうするかは会ってから決めても遅くない。紐を結んだままのスニーカーに足を突っ込んでいた。無性にいま会わんと確実に後悔するぞと思った。
すぐに次が来るのに駆け込み乗車で体をねじ込んだ車両は珍しく空いていて、それでも座っていられなくて立っていた。
窓から目に飛び込んでくる見慣れた景色の緑が、赤が、黄が、いつもよりはっきりと濃く色を付けて、光を放っていた。イヤホンから伝わる音楽はその時だけは俺のために流れていた。まるで映画の主人公になったような気分で、息が切れるほどがむしゃらに走って喫茶店へと向かった。
どうしよう。俺、いまめちゃくちゃ浮かれてる。悩んで飛び出したはずが、口もとが緩んで勝手に笑ってしまう。
この気持ちを俺は、知っていた。
途中で人にぶつかりそうになってすぐに体制を保ちなおして、足がもつれると思ったらいつの間にか靴紐が解けていた。それも後回しにする。
三日前おっちゃんが葉山の軒先で水を撒いていて、俺がしぶきを避けて店に入ろうとすると、たなちゃんたなちゃんとおっちゃんに手招きをされた。何すか、と近づくとホースの先を指でせばめて水の出方を変えた。
照りつける太陽を背に見せてくれたのは、小さな小さな虹だった。…そんだけですか?と俺は聞いた。そんだけ、とおっちゃんは笑った。
本当にもう用はないようで、鼻歌を歌いながら水撒きを再開したおっちゃんを、変な人やなあと思いながら店に入った。そんな小さな出来事が、次から次へと思い浮かんだ。
苦境に立たされた時、人は、自分でも信じられない行動を取ってしまうらしい。気付くと息を切らして店の前に立っていた。会いに来てしまった。呼ばれてもないのに。扉を開けて、挨拶する余裕もなくいつもの席で常連と談笑しているその人の裾を引っ張って言っていた。
「…あんた、何かしたやろ、俺に」
それは、20年目にして初めてやってきた春だった。
こうして恋は愛へと変わった 南海鶏飯蓬莱山 @nankaikeihanhouraisan
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