第6話 生活


 バイトがない日の翌日は、大体10キロの距離を走ることから1日が始まる。

 たいがいの雨ならカッパを着て凌ぐから、休むことはほとんどない。アップテンポな曲のみで作ったプレイリストをシャッフルで流し続けながら、少し苦しいくらいのペースを保ちながら走る。走ることで頭の中の靄が晴れていくような感覚になり、悩みも小さなことに思えた。


 折り返し地点の桟橋でイヤホンを取ると、そこには朝の音が満ちている。目を閉じると、体が朝の気配に溶けて混ざる。全身に浴びてから目を開けて、今度は音楽なしで家まで走って帰る。


 生活は常に音で溢れていて、好ましい響きを耳にすると出所を知りたくなった。思い出せる最も古い記憶にも、鮮やかな音がついている。

 今はもうそんなことはなかったが、魅力的な音色をどこまでも追いかけて、よく道に迷った。

 良い音には、ひときわ美しい色がついて見える。目を閉じると、暗闇で音譜が翻った。


 190センチ、12キロ。

 バーが所有するドイツ製の彼女は、もう高齢になるがこなれた良い音を出してくれる。弾いた時、腹に伝わってくる振動。弦の震え。久々の感覚に、うっとりとボディを撫でる。


 一年のブランクを経て、ほとんど素人の自分はセミプロに混じり足を引っ張らないように弾くのがやっとだ。

 メンバーで最年少ということもあって、慣れない環境に身を置いて一回本番をこなすだけでくたくたになった。しかし疲労を感じる日は、全力を出し切って楽しい演奏ができた日だ。

 弾く楽しさと音色が混じり合う美しさを知っている。それだけで、どこまでも高みを目指せた。


 実物に触って少しでも感覚を取り戻したい一心で、無理を言ってお邪魔して、開店前に場所を借りて練習させてもらっていた。開店後は店を手伝いながら、落ち着くと勉強も兼ねて演奏を聴いた。客席では気付くことが出来なかった小さな工夫が、袖からだとよく分かった。


 遡ること、中学の入学式。

 心を奪われたのはトランペットではなくて、目立たず、そのわりに体ばかり大きいコントラバスだった。

 父親に貰ったベースを小学校の時から弾いていたのもあり、低音を拾う耳は養われていた。金管楽器に押されながらも必死に支えている控えめな音もちゃんと拾うことができた。

 ベースとの弦の高さの違いに初めは戸惑ったが、弾いていくうちにその魅力から抜け出せなくなった。


 おこがましく、かなりはっきりと、これは俺のための楽器やと思った。


 大学に入ってすぐの頃、バイトを探して求人を見ていたらクラブで奏者を募集していて、ネットで評価が高かったその店に下見で行ってみた。ステージが客席とフラットで、不便そうに思えた薄暗さは目が慣れるとむしろ心地良く、舞台上のライトも手元を見るにはじゅうぶんな明るさだった。格式が高くなく、洒落すぎていないのが良かった。ドレスコードもない。憧れた高級ホテルのラウンジでもなく、音響もたいしたものではなかったけど、これならリラックスして演奏ができそうだと思った。


 ジャズクラブといっても幅広い人に楽しめるようにという店長の意向で、曲目は幅広くポップスもやる。ジャズと無縁に思えるベースの演奏の幅が広がったのも、意外にもこの店でジャズに触れたからだった。


 高校を出てからろくに触っていなかったので押し掛けて弾いたのは今思うと無謀だったが、あの舞台に別の人が立つのを想像するといてもたってもいられなくなった。店の楽器をお借りして、開店前の客はもちろん他に店員もいない舞台で、拙い演奏を聴いてくれた。


 音を合わせるために軽く出すと、弾く前から良い音を奏でてくれるのが分かった。大事にされている楽器は、触ると分かる。代々、丁寧に弾きこまれてきたことを想像するのは難いことではなかった。


 人間がそうであるように、楽器にも個体差がある。繊細な彼女たちは、気温や湿度、その日の環境によってころころと表情を変えた。


 特に古くなってくるとそれが顕著で、いつもぶれなく同じ音を奏でるためには手入れを欠かさず、声に耳を傾けることが必要になる。微妙なバランスによって成り立っているので、調整をしてやる必要がある。機嫌を窺いながら尽くせば尽くすほどに、応えてくれる。


 演奏中、ひとつに重なり合えた気持ちよさは筆舌に尽くし難い。まだ、分からないけれど、愛がもしあるのならきっとこんな形に違いないと、ひそかに思ったものだった。活かすも殺すも、弾き手の腕次第だ。


 弾いているうちに相手の「くせ」も掴めるが、俺はこの人と相性が良いというのが弾くほどに分かった。動きに応えてくれる良い声で鳴く全身が粟立つ。ため息が漏れそうだった。絶対にものにしたい、とそう思った。



 バイトを終え朝に帰ってきて、夕方になると自然と目が覚め寝床から這い出して、机に向かい作業をする。

 遮光カーテンを開けて窓を開けると、日が落ちたあとの青の空気が入りこんでくる。この静かな時間が好きだった。

 早い時期から何件も内見をして防音性が高いコンクリ構造の、角部屋を選んだ。デザイナーズ物件で予算を少し超え、夏は暑く冬は寒くどうしようもない時があったが、一番の条件だった好きなだけ音が出せる環境だった。


 座り心地の良い肘掛つきのパソコンデスクに腰かけると、もうひとつ世界が開ける。


 知らない土地に知り合いが出来るのは、とても不思議な感覚だった。割り切った交流は気楽で、趣味と同じように、人間関係も浅く広がっていった。

 はじめてインターネットの味をしめたのはベースにはまったのと同じ、小学生の頃だ。あの頃からモニターのサイズは大きくなり、それでも飽き足らず、二面になり、ついには三面になった。メモリを増設することも覚え、曲を作るのもゲームをするのも配信をするのも快適になった。のめり込む時間が長くなるほどに、どんどん居心地が良くなる。


 最近は、海の向こうの人とスカイプでドラムやギターの人を捕まえては、片言の英単語と身振り手振りで曲を決め、最後まで母国を知らない相手とセッションをすることを覚えた。

 音色と表情さえあれば、言葉がなくても気持ちは通じ合える。インターネットと音楽は、おっちゃんと出会うまで俺にとって唯一の、外とつながる手段だった。


 形を変えながら色々な手段をとって交流をしていた。平気な顔をしても、人との繋がりに飢えていたのかもしれない。


 俺はこの画面の中に、もうひとつの顔があった。

 ベースの演奏を公開している動画アカウント、告知兼、常駐しているSNSアカウント。これが表の顔なら、もうひとつは女性Vtuberの動画アカウントと、キャラクターが運営しているという体のファンシーなアカウント。


 楽器を弾いているとき、そしてネットの中では、クリックひとつで別人になれた。

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