第3話 夢

 その日はいつもより長く眠ってしまったようで、起きるとすでに日が傾きかけていた。


 うちのバーは日付が回る頃に店を閉めるので、撤収をしていると終電を逃がす。

 家から手癖のように弾いているエレキベースを担いでいって、そのまま近くのスタジオで夜を明かすのが日課となりつつあった。

 残った最後の力で厚い遮光カーテンを引いて、街や人が動き出す音を聞きながら眠りに落ちる。目が覚める頃には昼も過ぎていて、せっかく授業のない休みの日も、こうして終わってしまう。


 また同じ夢を見ていた。


 あの黄金に輝くコンサートホールは、ウィーンの有名な協会だ。写真や映像でしかまだ見たことがない目の眩むような精巧な内装の下、大勢の客の前でコントラバスを弾いていた。

 なぜかいつも同じ場面で、夢の中ではあがることなく完璧な演奏が出来ていた。

 繰り返し夢を見るのは、他のパートからアンサンブルに誘われずに、コンテストに出なかったことをずっと引きずっているからだ。

 ジャズに興味を持ったのは吹奏楽で演奏したスタンダードナンバーからだったが、きっかけとなったクラシックやオーケストラへの興味は薄れつつあった。それよりも今熱を上げているのはジャズだった。

 …今行くならニューオーリンズの方や。本場のジャズに、触れたい。


 ぐずぐずと布団に寝転がったまま、半分しか覚醒していない頭で昨日の演奏を振り返る。

 致命的なミスこそなかったが、やはり昨夜も弾き始めでもたついてしまった。


 いつも本番になると、緊張で手が震えた。

 音合わせの時は問題がなく、悪い癖が付いてしまっているのは明らかだった。どれだけ練習を重ねても、それだけは治らない。

 歯痒い気持ちで手のひらを見ると、新聞紙のインクが擦れて黒くなっている。抱えたまま寝てしまったはずの花の包みは無意識のうちに端によけていたようで、潰さずに無事だった。


 寝ている間に顔を触ったらしい。洗面所で鏡を見ると、頬にも汚れがついていた。ついでに顔も洗い、Tシャツの襟で拭いながら居間に戻る。


 分かってんねんけどなあ、とつぶやきながらすかすかの冷蔵庫を開ける。

 冷蔵庫にはペットボトルの水と茶とビールが数本、コントラバスの弓に塗る松脂が、用途に分けて3つ。

 よく冷えた水で喉の渇きを潤してから、花を挿す物がないことに気づく。数日前に空にしてそのままのワインの空き瓶が目に付いて、ゆすいでから蛇口に挿すようにして水を注いだ。


 水を溜めながら瓶をどこに置こうかと部屋を見渡してみたが、物が少なく、がらんとしていると感じる。家具は白か黒かでさえば良くこだわりはなく、かろうじて個性と言えるのは立てかけたベースくらいだった。

 出掛けることもなく恋人もおらず、酒を飲みながら一人でベースを弾いて、寂しいと言われればそれまでの生活だった。


 水をどのくらい入れていいものか分からなかったので、とりあえずたくさん注いだら当たり前だが重くなった。

 眠っている間に少ししおれてしまった花を掴む。部屋の隅に場所を決めて、花を挿した瓶を立ててみる。するとたったそれだけのことなのに、殺風景な部屋が、見違えるように色を付けた。

 音楽以外に心を動かされたのは、久しぶりのことだった。

 夕日に照らされる名前のわからないささやかなたった三輪の花を、日がすっかり暮れてしまうまで、しばらく窓の前に座って見ていた。



 心を打たれたのはその一瞬だけで、日常になってしまうと何も思わなかった。

 花はなくした興味を感じ取ったかのように元気がなくなり、三日と経たずに枯れてしまった。こんなに持たんもんなんか、とあっけなく思いながらごみと一緒に捨ててからは、花のこともその出来事もすっかり忘れていた。


 二週間後、いつもと同じようにバイト帰りに商店街を歩いていると、肩を叩かれた。振り返るまで忘れていた、花の香りや色が、夕日がいっぺんに駆け抜けた。


 また会うたな兄ちゃん。


 おっちゃんは俺に向かってにっこりと笑った。

 それが、すべてのはじまりだった。


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