追憶//依呂葉の場合(2/3)


 依呂葉はまぶたの裏にたった今目にした未来を描いた。

 見えたものはただ一つ。たくさんの人間たちだ。

 依呂葉たちと同じく綺麗な服に身を包んだ老若男女が屋敷に溢れていた。おそらく、依呂葉たちの両親が現在いる大広間から出てきたのだろう。しかしそのどれもが既に事切れていた。体から大量の赤色を漏らし、何かから逃げるように、苦しみをその体で表すように伸ばされた腕が空を掴んでいる……そんな死体が、視界いっぱいに広がっていた。


 依呂葉の「予言」は絶対だ。遠くの未来を見れば見るほどその正確性は落ちていくが、2時間後の未来を外したことは今まで1度としてなかった。つまり、今から2時間以内に、この屋敷は血に染まることになる。

 その原因は依呂葉には分からなかった。今日この屋敷には警護のための破虹師が多数配置されている。その中には「日本最強」と言われる亜門も含まれているというのは依呂葉も車中で聞き及んでいた。どんなに凶悪な殺人犯がこの屋敷に潜んでいようとも、あれほどの被害を出せるとは思えない。……なら何があんなことを……


「慧央、逃げよう」

「逃げるって、何で?」

「なんでも……ここにいたら危ないから……」


 あまりの衝撃にすぐ天恵の使用をやめてしまったため、視界に依呂葉自身や慧央が映り込んでいたかまでは確認できなかった。否、映っていたとしても、判別はできなかっただろう。だからこの惨劇に双子が巻き込まれるかどうかははっきりしないが、「未来を見た依呂葉自身が今すぐに行動を起こす」ことによって、未来の結果を少しだけ反らすことは可能だ。

 依呂葉が観測した未来では、依呂葉はその「現在」を観測することはできない。──この小さなズレが普段は依呂葉の未来予知の確度を下げる要因となっているが、今日に限ってはそれに縋るしかないと考えた。


 あまりにも必死な依呂葉を見て、慧央は黒い目を細める。


「……どんな未来が見えたんだよ?」

「言わない」

「何でだ。僕はお前のお兄ちゃんだぞ」

「私がお姉ちゃんだし……とにかく言えないけど分かるでしょ? 私の予知は絶対なの。ここにいたら多分私も慧央も死ぬから。はやくパパとママを探していっしょに逃げよう」

「ちょ……っ」


 依呂葉は慧央の腕を掴んで立ち上がるが、そのまま足を進めることは出来なかった。ソファから正面玄関までの直線上に、誰かがいる。


「あら……」


 歳は依呂葉たちより少し上に見えたが、まだ10歳を迎えるかどうかという頃に思われる。漆黒のボブカットと同じく漆黒の瞳。加えて身に纏うのは依呂葉たちとは対照的に闇のように深い色をしたドレスだ。全身が黒に覆われ、顔や手のひらなど僅かに覗く白い肌が怖いくらいに際立つ、美しい少女。

 髪をささやかに留める赤いピンはそれほど高級そうなものには見えなかったが、この少女が身につけるとまるで体の奥を流れる血液のような、痛烈な色に見えてくる。


 先程まで屋敷内をくまなく探しても人っ子一人いなかったこの場所に、この少女は音もなく現れた。それに疑問を抱くことすら放棄してしまいそうになるほど完成された美を目の前にして、依呂葉は全身の毛が逆立つのを感じる。


「もうすぐ式典が始まるそうですよ。慧央さん、依呂葉さん。……ここにいてよろしいのですか?」

「な、なんで僕たちの名前を」


 棘ひとつ無い艶やかな声は、慧央の言葉にカラカラと揺れる。


「ふふ、すぐに分かりますよ。……どうか、今この場所でわたくしを見たことは内緒にしてくださいね」


 少女の瞳が赤く瞬いた。その光を見慣れていた双子は天恵か? と身構えたが、見てわかるような変化は何もない。

 少女は軽く会釈すると、正面玄関からゆっくりと屋敷を出た。少女との会話は時間にして3分ほどだったが、その圧倒的な雰囲気にあてられ、双子はどっと疲労を感じる。


「誰だ、今の」

「この家の人だとは思うけど……ってそんな場合じゃない。早く逃げないと」

「依呂葉」

「何?」

「……落ち着きなよ」


 相変わらず腕を引っ張る依呂葉を、慧央がたしなめた。

 慧央は未来が見えないくせに! とムキになった依呂葉はその顔にパンチをお見舞いしてやろうと思ったが、向き直った片割れの顔は思いのほか真剣でその気が失せる。


「僕は天恵が使えないから、依呂葉が何を見て不安がってるのかは分からないけど……未来は絶対じゃないだろ」

「でも」

「……確かに、これまで依呂葉の予言は外れたことがなかった。でもそれと今回も当たるかってのは別。危険があるなら尚更パパやママと一緒にいた方がいい」


 依呂葉の予言に根拠がないように、慧央の言葉にも根拠はない。しかし、依呂葉の心はほんの少しだけ落ち着いた。

 過去は変えられないが、確実な未来はない。……あれは何かの見間違いかもしれないのだ。

 仮に依呂葉や慧央、そして父と母が助かったとしても……それ以外がみんな肉塊に変わってしまうような未来が本当に来るのなら、地獄と言うのも生ぬるいほどの地獄だ。そんな未来がもう避けられないものだなんて、信じなくていいならその方が楽に決まっている。


 思案する依呂葉をよそに、慧央の携帯が鳴った。


「あ、ちょうど電話だ。《予言》の天恵、使わなくても良かったな」

「……」

『2人ともいい子にしてたかい? 放ったらかしてしまってごめんね』

「いや、大丈夫。僕も依呂葉もずっと屋敷にいたよ」

『それはよかった』


 相手は予想通り両親であり、内容は「式典開始時刻が迫っているからこちらに来なさい」というものだった。

 しかし、電話の向こうの父親の声は晴れない。


『でも、どうやら水端様がさっきから姿を消しているみたいでね。見つかるまでは始められそうにないんだよ。2人とも見なかった? 黒い髪に黒い目をして、黒いドレスを着た……10歳くらいの女の子』

「あ……!」


 双子は思わず顔を見合せた。それは間違いなく今しがた会った少女だと直感したからだ。あの独特のオーラも、次期当主……地位のある人物だと言われれば納得出来る。当主と呼ばれる人間が自分たちとそう歳の変わらない少女だというのには驚いたが……


「……! な、なんで」


 しかし、それを父親に告げようとしても双子の口は動かなかった。2人して携帯の前でパカッと口を開いた状態で固まってしまう。

 呼吸をすることも、困惑に狼狽える言葉を発することも出来たが、「今ここでその少女と話をした」という一言だけが、口に石でも詰められてしまったかのように出て来ない。


 双子の脳裏に浮かんだのは、「内緒にしてくださいね」と笑った少女の顔と、赤く瞬いた瞳。やはり何かしらの天恵を掛けられていたらしい。


『どうしたの? まあ顔も見たことないだろうし、それはないか。パパとママは親戚の人たちへの挨拶がやっと終わったし、そろそろこっちに来ても大丈夫だよ。美味しいご飯もある』

「いや、パパ。私と慧央は水端ちゃんを探すよ! 多分外にいるんじゃない? この屋敷の中には誰もいなかったから」


 依呂葉は咄嗟に反論した。咄嗟の割には良い言い訳をしたと自画自賛する。


「依呂葉、何言ってんだよ。パパの言うこと聞け」

「でも! あの……私と慧央はその子の……居場所、分かるから」

『え? もしかして会ったの?』

「とにかく分かるから。何かあったらまた電話する!」


 水端とこの場所で出会ったことは口に出来ないため、依呂葉なりに上手く言葉を選んだ。……ああ言えば、心配性の父と母は水端を探す自分たち双子を探しに来るだろうという打算もあった。……あの大広間から両親を逃がすためだ。

 依呂葉は勢いよく電話を切ると、不満げな慧央に向かって真剣な顔で言った。


「……多分私があの時未来を見てなかったら、このままパパとママの所に行ってたでしょ。少しでも行動を変えていけば、少しでもいい未来が来るかもしれない」

「……」


 慧央は眉を八の字に下げ、大きくため息をつく。


「……依呂葉は本当に子供だ。じゃあここで決着をつけようよ。僕が先に水端ちゃんを見つけたら僕がお兄ちゃんで、依呂葉が先に見つけたら依呂葉がお姉ちゃん」

「分かった。約束」


 双子はお互いの小指を結び、ゆびきりげんまん、と呪文を口にした。


 それに胸がちくんと痛む。確か、慧央との約束はそれきり……果たされることは無かったはずだ。

 依呂葉の意識がふわりと浮き上がる。これは夢だ。10年前の自身のトラウマをほじくりかえす、いやらしい夢。

 これから幼い自分の身に降りかかる悲劇のことは、10年経った今でもよく覚えている。……だが、眠りから覚めるには、いささか記憶の深いところまで潜ってしまっていると依呂葉は自覚した。

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