追憶//依呂葉の場合(3/3)


 約束を結んだ双子は二手に別れた。屋敷を出たところから見て右側を慧央、左側を依呂葉が探索することにしたのだ。「後でね!」と片割れに手を振る自分を、依呂葉は殴ってやりたかった。


 ──そのやり取りを最後に、慧央と依呂葉は離れ離れになってしまうからだ。

 数年後奇跡的に再会した慧央は、依呂葉との約束を含めた様々な記憶を失い、まさに抜け殻という言葉がふさわしい人間になってしまった。

 あの日あの場所で慧央が何を見たのか。それを知る人間はこの世に居ない。


 幼い依呂葉は屋敷の周りをくまなく探した。途中で大広間に向かうと思われる親族と出会い、綺麗なワンピースを泥まみれにする自分を見て嫌な顔をされたが、依呂葉は曖昧な顔をして誤魔化した。


 ──あの時、大広間には行くなとしっかり伝えていれば、もしかするとその命は救えていたかもしれない。結局は自分と行方不明となった慧央を除いて誰もその場から生還しなかったのだから、考えても無駄なのかもしれないが。


 事態が大きく動いたのは、空が燃えるような茜色に染まってからだった。屋敷の方向……慧央がいるはずの場所で、大きな気が盛り上がるのを感じたのだ。家が壊れたり、木々が吹き飛んだりはしていない。見えない衝撃波が依呂葉の居るところまで届いて、全身にじっとりとまとわりついた。

 今考えればそれは親族一同を食い尽くした大罪虹化体が発した虹素だったのだろうと依呂葉は思う。しかし当時の依呂葉はそれが何か分からず、一瞬動きを止めただけで探索を再開した。


 それから程なくして、人々の声が聞こえ始めた。屋敷から勢いよく飛び出してきた人々の顔には一様に恐怖と血が張り付いている。依呂葉の体は強ばった。予知した未来が、現実になろうとしている。

 不安を感じて両親に連絡を取ろうとしたが、首から提げていたはずの携帯は留め具を残してなくなっていた。無茶な探索の中でストラップを壊してしまっていたらしい。依呂葉の大きな瞳に、ふつふつと涙が溜まってくる。


「依呂葉! こっち!」


 立ち尽くす依呂葉の耳に、らしくなく張り上げた声が届いた。反射的に足が動く。目の前にいたのは父親だった。普段研究者として部屋にこもっているせいで体力なんてほとんど無い父親が、息を切らせて自分を呼んでいる。……それだけで、屋敷で何が起こっているのかを察するのは簡単だった。

 一も二もなく依呂葉はその胸に飛び込み、大声で泣きわめいた。


「もう大丈夫だ。……よかった。電話が繋がらないから心配したよ」

「パパ! やっぱりみんな死んじゃうの?!」

「……天恵を使ったのか。大丈夫。パパがいるからそんなことさせないよ。今ママも戦ってる。ママは強い破虹師だからね……」


 痛いほど抱きしめられる依呂葉は、父親の肩越しに屋敷を見ていた。未だ大量に出てくる人間たちに混じって、人間「だったもの」が押し出されてくるのも見える。

 その雪崩が止んだと思ったら、扉を破るほどの勢いで黒いものが飛び出してきた。ボタボタと虹素を滴らせ、その額に捻くれた大きな角を持つ……大罪虹化体。その巨体に巣食う欲を満たすため、さらなる獲物を求めている。


 依呂葉が予知で見た赤い光景……あれは人によるものではなく、虹化体によって引き起こされた「災害」なのだと、この時初めて認識した。


 ヒュっと息を呑んだ依呂葉を、父親はもう一度強く抱き締める。


「……早くここから出よう。門まで走るよ」

「慧央は?」

「慧央とは……きっとどこかで会える。ママと合流してるかもしれない」


 それってどういうこと? と聞き返す間も与えられなかった。父親は依呂葉を手早く背負い直すと脇目も振らず走り出す。

 その頃には大罪虹化体の誕生によって高まった負の感情と虹素濃度により、辺りには虹化体も大量に発生していた。


 普段は虹化体が発生したという警報が鳴れば、全員一目散に屋内に逃げ込む。その間に派遣されてきた破虹師が虹化体を討伐し、終わればまたケラケラと外遊びに戻る。今日は長かったね〜とか、破虹師の人が歩いてるところ見た! とか、数分の話題をさらって、もう忘れる。慣れきった日常だ。それほどまでに現代人にとって虹化体とは近しい存在のはずだったが──実の所、依呂葉が虹化体の黒くおぞましい造形を間近で見たのは今日が初めてだった。


 虹化体は破虹師が倒してくれる。

 他に怖いことは何もない。空にかかっている虹は人類に実りをもたらしただけ。今の世界はハッピーだ。……依呂葉は今日までそれを信じて疑っていなかった。しかし現実には、この黒い化け物は人の肉を食いちぎり、醜い叫びを上げ、……自分たちは必死に逃げることしか出来ない。

 依呂葉にも父親にも、戦いの心得はない。2人は時に物陰に隠れ、時に転がる死体を盾にしながら、絶対的な捕食者から逃げ続けた。


 ──しかし、運命は2人を許さない。

 疲労からもはや顔を青くしている父親と依呂葉の目の前に、角を伸ばした大罪虹化体が現れた。

 必死に逃げる2人を嘲笑うかのように、2人の進路である前方から悠然と迫ってくる。

 大罪虹化体は虹化体と比べ、扱うことの出来る虹素の量と範囲が段違いに多い。どこへ行こうとも、作り上げられた触手で絡め取られ……その視界に入ったが最後、破虹師でもない2人が生き残る道は絶たれたにも等しい。それを依呂葉以上に理解していた父親は、笑った。


「……依呂葉、逃げて」

「なんで」

「パパはやっぱり慧央を探しに行ってくるよ。だから依呂葉は先に行ってて。門まではあと真っ直ぐだ。パパがこいつを引き付けておくから、その隙に」


 そんなこと出来るわけないでしょ、と叫ぶことすら出来なかった。自分を背負って走っていた父親は傍目から見てもボロボロだったし、何より虹化体の気を引けるような武器や能力なんて持っていない。

 父親が何を目的としているのかは、あの時の依呂葉でも分かった。


「ごめんね、暫く1人にさせちゃうけど」


 いやだと言う前に、依呂葉はその背から下ろされていた。最後に頭をグシグシと撫でられて、ポンと突き飛ばされる。


「屋敷からなるべく離れて進むんだ」


 幸か不幸か、大罪虹化体は離れる依呂葉より父親に興味を持ったらしかった。依呂葉は泣きながら走る。背後で何が起きているかを想像したら足が止まりそうで、ぎゅっと目をつぶってただ足を動かした。


 恐怖と興奮で依呂葉の足はもつれて何度も転び、門に着く頃には全身傷だらけになった。捻った足首は赤黒く腫れ、何らかの脳内物質がドバドバと出ている今も尚鈍い痛みを訴えている。心臓は口から飛び出すんじゃないかというほど大きく弾み、それでも酸素は足りずに視界がクラクラと回る。


 依呂葉の頭には早く逃げなければという思いしかなかった。視界に広がる地獄絵図。これは全部悪い夢か何かだ。覚めるなら早く覚めて欲しい。そして怖い思いをしたと両親に泣きついて、また慧央に子供っぽいとバカにされる……そんな生活に戻りたい。早く逃げなければ。ここから。

 

 鉄の味がする唾を1度飲み下し、依呂葉は目の前の外門に手をかけた。ガシャン、と軋む音がして、それだけだった。


「なんで」


 開かない。外側から鍵が掛かっているようだ。今の依呂葉になら分かる。虹化体の発生源である屋敷全体を封鎖することで、被害を最小限に抑えるというのは日常的に行われる虹化体災害の制圧方法の1つだ。──その中にいる人達の命を犠牲にして。

 だがあの時の依呂葉には絶望でしかなかった。父親を犠牲にここまで走ってきて、最後にこんな仕打ちを受けたら、もう、立っていられなくなる。

 依呂葉はへなへなとその場に崩れ落ちた。足は思い出したように痛み出し、ずっと走り続けてきた疲労が幼い体にのしかかる。


「────!!」


 大罪虹化体はもうすぐ後ろまで迫っていた。むせ返るような血の匂いがする。一体何人の人間を食べてきたのだろうか。

 依呂葉は腕を使って後ろを振り返る。数多の虹化体と人間を飲み込んだその体はぶよぶよと膨張し、依呂葉にその影を落とし込むほど接近していた。真っ赤な夕焼けが、虹化体の影で黒く濁る。

 もう、逃げることは出来ない。


「はは……」


 弱い。自分は弱い。いくら未来を見る力があっても、目の前の虹化体一体すら倒すことが出来ないのだから。そのせいで何人もの人間の死を見逃し、父親に繋がれて辛うじて生き残った自分の命も──こうして散らしてしまうのか?


 いや。そんなの、許せない。


 依呂葉は歯を食いしばった。でも、食いしばった所で何も出来なかった。私に力が。力があれば。虹化体を全部殺せるくらいの力があれば、みんな死なずに済んだのに。力が。力があれば…………


 切り裂くような嘶きを発する大罪虹化体を、依呂葉は真っ直ぐ睨み続ける。その大きな腕が勢いよく依呂葉に降り注いでも、依呂葉は瞬きすらしなかった。力のない自分の愚かさを一身に引き受けて、せめて目の前の大罪虹化体を呪いながら死のうと思ったのだ──


 だから依呂葉は目撃することが出来た。

 目の前の黒い塊が、正確無比な斬撃によって切り刻まれていく、その瞬間を。


 その度に傷を塞いで依呂葉を喰らおうとする大罪虹化体は、それ以上の攻撃に晒され、身動きが取れなくなっていた。


「あ……」


 その膠着状態は、またしても鋭い攻撃によって弾けた。依呂葉に覆い被さる大罪虹化体の腹部に、小さな穴があく。そこからが生えてくると、大罪虹化体はうるさい声で喚いた。手は意にも介さず、虹化体を文字通り割り開いた・・・・・。虹化体は、動かなくなった。


 真っ二つになった虹化体の向こうから現れたのは、筋骨隆々の大男だ。浅黒い肌と短く逆立った黒髪。両の瞳・・・は猛禽類を思わせる金色で、依呂葉を射殺さんばかりに睨みつけている。


「……生きていたか」

「……な、あ、あなた、は」


 日本最強の破虹師、亜門左門その人だった。

 全身に纏う黒い鎧のような蜺刃で大罪虹化体を単身破った男は、生きていた依呂葉をその手で抱き上げる。大きな体は虹化体から飛び散った虹素と、死人の血液を掻い潜ったせいでべっとりと汚れていた。しかしそんなことはどうでもよかった。

 先程まで耳を塞いでも聞こえていた虹化体の嘶きたちは、気付けばひとつも聞こえなくなっている。──《千葉大災害》は、今この時をもって完全に終結した。


「ここにいた虹化体は全て我々が始末した」

「え、じゃ、じゃあみんな助かったの……?」


 燃える夕日の中で、依呂葉は問うた。

 誰よりも黒く汚れた男は、表情ひとつ変えずに答える。


「お前以外はもう誰も生きてはいない。……今日ここに来ていた相友の人間は、全員が虹化体に殺害された」


 その言葉を聞いた依呂葉の耳は、腐りおちるような痛みを発した。


「相友依呂葉。お前の父親と母親の遺体はこちらで確認した。双子の兄の遺体は未だ捜索中だが、つまりお前にはもう身寄りがない。これからどうす──」

「嫌だ!」


 依呂葉は弾かれたように手を伸ばした。その手は亜門の顔面を抉った。右目を貫くような裂傷を作り、血が吹き出す。誤って人に怪我をさせてしまった、ということが気に出来なくなるほど、依呂葉の心はぐちゃぐちゃになっていた。


 《予言》の天恵が現実になった。変えようと足掻いたが、未来は変わらずやってきてしまった。

 虹化体を殺す力のない、自分のせいだ。憎い。自分が憎い。理不尽を叩きつけてきた虹化体が憎い。全てが憎い。


「すまない。私の力が及ばなかった。……そんな顔を、させたくはなかった」

「おじさんくらい強くなったら、この世の虹化体を全部殺せる? パパとママと……もしかしたら慧央も殺したかもしれない虹化体を全部殺せるようになる?」


 亜門は血が流れる目を庇おうともせず、目を閉じた。

 亜門ほどの男ならば、依呂葉の手など余裕を持って回避出来たはずなのに、しなかったのだから、そういう事なのだろうが……表情のない男の目から血が流れ落ちる様は、まるで泣いているように見える。


「私は弱い。……弱きは、罪だ。私のような人間を目指してはいけない」


*・*・*


 2100.7.21.


 ──あのあと、どうなったんだっけ。

 結局水端ちゃんを見つけるという勝負はうやむやになってしまったな。私は水端ちゃんを見つけることが出来なかったし、慧央はあの日のことを覚えていないから。


 あの後私は軍に引き取られて、破虹師のみんなに育ててもらった。亜門さんに弟子入りしようとして何度も突っぱねられて、その繰り返しで戦う術も覚えた。

 でもまだ足りない。

 私はまだ・・、大罪虹化体を殺していない。あの角の生えた《憤怒》の虹化体を殺し、全世界の虹化体を皆殺しにするまでは、死ねない。




 ……依呂葉の耳に、ドンドンと何かを叩く音が遠くから聞こえた。

 夢と現をさまよっていた意識が、ふわふわと持ち上がってくる。目を開けると、溜まっていた涙がつーっと顔を伝って落ちた。

 背中が痛いと思えば、依呂葉が寝転がっていたのはベッドではなく冷たい床の上だった。それでも全身には嫌な汗をじっとりかいている。当然だ。最悪な夢を見たのだから。10年前の七夕の記憶は、今の依呂葉を構成する最も根幹の、重く痛烈な記憶だ。


 そういえば、テレビでつい今しがた弓手総帥による公開演説会の記者会見を見て──慧央の正体を知ってしまったのだ。そのショックで気を失い、椅子から転げ落ちて今まで気絶していたのか、と状況を把握する。


 は?

 依呂葉は混乱した。

 お兄ちゃんが、慧央が、大罪虹化体……?

 そんな素振りは、一度だって見せたことがなかったのに。嘘だ。嘘に決まっている。

 そして、総帥はその慧央をもう討伐した、とも言っていた。


 再び遠のきかける意識を、ドンドンともう一度鳴らされたノック音がつなぎ止めた。来客である。脳みそがミキサーに掛けられたように乱れていても、人にその様子を見せてはならない。依呂葉はにぱっといつもの笑顔を作ると、無理やり跳ね起きて玄関に向かった。


「はーい、どちら……って、こころちゃんか」


 ドアを開けると、そこには栗色のお下げを垂らす少女、綾間こころが申し訳なさそうに立っていた。


「朝から本当にごめんなさい。……依呂葉さん、話は聞いてますか?」

「話、って何?」

「あの……亜門さんが、破虹師を辞めたっていう」


 夢の中で静かなる怒りを燃やしていたのが記憶に新しい亜門が、破虹師を辞めた。俄に信じ難い事だったが、気絶する前の記憶をたどってみれば……総帥がそんなことを言っていた気もする。慧央のことで頭がいっぱいだったが、総帥は記者会見で爆弾発言しかしていなかったのだなと思う。


「うん。びっくりしちゃった。あの亜門さんに限ってそんな……」

「……はい、私も、驚きました」


 こころの態度がいつにもましてビクビクしていることに、依呂葉は気付いていた。なにか含みのある言葉だったが、あえて掘り返すのはやめておくことにする。


「で、なんの用で来たの?」


 依呂葉の問いに、こころは微かに俯きつつ答えた。


「……亜門さんが抜けたことで、北斗七星筆頭の座が開きました。会議の結果、後任を是非依呂葉さんにお願いしたいと思っています」


 北斗七星筆頭。

 亜門が慧央の北斗七星入りを防ぐために作ったような役職ではあるが、その後任を任されたことに依呂葉は全身の毛が逆立った。

 日本最強の名を、そして戦いの師の名を継げということである。あまりにも急だった。脳裏に焼き付くのは、亜門が角の生えた大罪虹化体──おそらく《憤怒》の虹化体を粉微塵にする、あの姿だ。


「……いいよ。やる。日本中の虹化体は私が殺すよ。そういうことだよね」


 大変な夢を見て、大変な任を任された。

 依呂葉の頭はもういっぱいだった。

 そもそも、依呂葉の感情になんて大した価値は無いのだ。依呂葉は10年前に生き残ってしまったあの日から、人生の全てをかけて虹化体を殺し、あの日守れなかった人たちへの贖罪をしていくだけの存在なのだから。


「はい。……依呂葉さん、これからもよろしくお願いします」

「うん。大丈夫。今日からまた、たくさん、頑張らなきゃね」


 依呂葉はへにゃりと笑った。


 慧央が、お兄ちゃんが私から勝手に離れるわけがない。

 全部嘘だ。……自分は強くなった。

 自分はあの日大罪虹化体を消し飛ばして見せた亜門と同じ立場に立つことができた。だからもう自分に悲劇なんて起こるはずがないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る