7月20日(3/3)


 倒れた蘭堂を黒腕の1本で抱えつつ、俺は1度後ろへ下がった。蘭堂はまだ息がありそうだが、共に戦うのは無理である。──何より、俺のこんな姿は見られたくない。

 蘭堂の体を床に静かに横たえて環の方に向き直った時、足をぐいと掴まれた。心臓が冷える。


「……お前」

「待つ……っス」


 蘭堂は顔を青白く染めながら、声を出すのも苦しそうな体でありながら、それでも俺を引き留めようとしていた。

 奴には俺の姿が見えていないのだろうか。──こんな、全身から虹素を撒き散らす化け物の姿の俺が。


「見るな。……いや、見逃してくれ。すぐ俺はここから消えるから。だから環を殺すまでは……」

「はは……慧央さんは慧央さんでしょ。実はオレ、依呂葉さんのファンクラブ会員なんスよ。つまり慧央さんのことはもうずっと前からリスペクトしてたんス。……そんな人が命日とか言いだしたら、オレはここで寝てられねえっスよ」

「……っ、俺は虹化体だ。バレてしまった以上もうこの世にはいられない」


 ここで環を何としても殺し、大罪虹化体のアジトへ単身乗り込んで全員殺す。……全部道連れにして、それで俺の復讐は終わりだ。

 「虹化体を一匹残らず滅ぼす」という依呂葉の夢は叶えられそうにないが、土台無理なことであったのだ。この世に虹がある限り、虹化体が消えることはない。ならばせめて、依呂葉を脅かす大罪虹化体だけでも道連れにして消えることが、俺ひとりに出来る精一杯だろう。


「第一お前その傷じゃ戦えないだろ。……俺が死んだら依呂葉を頼む。依呂葉は俺と違って普通の人間だから」


 蘭堂は黙った。出血のために話すのが苦痛になったのか、何かを考えているのかは分からない。しかししばらくすると、その赤い目を細めて俯く。


「……ホントは嫌なんスけど、背に腹は変えられねえっスね」


 蘭堂は、まるでそれがごく自然なことであるかのように、すくりと立ち上がった。その体には傷一つなく、つい数秒前までその顔に覗かせていた死相もきれいさっぱりと消えている。


「は? お前」


 今の一瞬で、あの怪我を治すなんて……俺でも無理なんだが?


「細かいことは後っス! 見ての通りオレ、ちょっとばかし頑丈なんで……慧央さんの役に立てると思うっスよ! ……慧央さんが人間とか人間じゃないとか、そんなの関係ないっス」


「もー☆ 何またお喋りしてるのさ☆」


 痺れを切らした環が、ムチを俺と蘭堂の間に叩き込んだ。ステージの床にはぽっかりと穴が開き、はめ込まれていた板が宙を舞う。──それが再び落ちるより速く、俺は環に肉薄した。


「そうこなくっちゃ☆ ちょうどこの体も慣らしたかったし」


 蘭堂の言葉に揺らされかけた心を断ち切るように、意識を環だけに向ける。

 蘭堂とは何故だか・・・・初めて会った気はしないが、俺の記憶上は間違いなく、ついさっき控え室で会っただけの関係のはずだ。

 破虹師をしているのに、俺という異物をなぜ受け入れようとするのか。そして、負った重症を虹化体以上の速度で消してしまった理由はなんなのか。理解できない点しかないが、蘭堂が人間である以上、この戦いに巻き込むことは絶対に出来ない。この場で唯一確信できることはそれだ。


 脳裏にちらつくのは、あの日の依呂葉の姿である。《憤怒》の虹化体の前になすすべなく敗れ、心臓の鼓動を永遠に止めてしまった依呂葉。……たとえそれが依呂葉でなくても、もう二度と見たくない光景である。


 俺は展開していた黒腕を固く握り締め、環の細い体を殴りつけた。

 骨の髄にまで響くような手応えを感じたが、虹化体である環にとってそれはまやかしであることは分かっている。環は不意を突かれたふりをして、俺の背後へとムチを回そうとしていた。環は地下で7年間一人で生きてきた。一体一の戦闘はやったことがないのか、ほぼ素人の俺でもその挙動は読みやすい。


(このまま叩き落としてもいいが、1つ試しておきたいことがある……)


 黒腕で攻撃をしているおかげで余っていた右手に握っていた蜺刃を動かすことなく、俺はあえてそのままムチの刺突に身を任せた。

 俺の胴体ほどの太さを持つ黒い暴力が、俺の中の核を求めて無数に突き刺さる。


「……」


 蘭堂の声が聞こえた気がした。俺に攻撃が通ったことに気分を良くした環の顔が歪む。

 しかし俺は冷静に体から飛び出ているムチを掴むと、強く念じた。──こちらに従え、と。


 刹那、環のムチは抵抗するように激しく波打ったかと思うと、落ち着いた時にはそれら全てが五指を象る黒腕へと変わっていた。

 支配権を塗り替えたのだ。虹素はより強い《欲望》に従う。俺と環では、虹素の支配力は俺に分があるらしい。


「えっ、そんなのあり?」


 驚愕に目を見開く環に、俺の黒腕が音もなく襲いかかっていく。虚を突くことができたのもあり、環は抵抗らしい抵抗もしないままに黒腕の指でぶちぶちと潰され続ける。


 頭、胸、腹、手、足。すべてを潰し、最早環は再起不能である。しかし、──そのどこにも、虹化体の命の根源であるはずの核がない。

 冷たい違和感に目を見張った直後、背後から大きな虹素の波を感じた。目の前の環にもう一度黒腕による手刀を落としながら目をやると、そこには蘭堂へとムチを浴びせる……もう1人のがいた。

 堪らず振り向いて確認するも、今しがたまで俺に攻撃を加えられていた環は確かにここにいる。


(増え……分身?!)


 蘭堂は自前の蜺刃で応戦しているものの、相手は大罪虹化体だ。環の攻撃は緩むことを知らず、決壊するのは時間の問題である。俺は黒腕で蘭堂をその場から引っ張りあげると、1度2人の環から距離をとった。蘭堂は恐怖からか肩で大きく息をしている。


「どういうことっスか?! あ、あれは」

「《虚飾》か。……俺と戦っていた環には核がなかった。多分奴は核のない分身体を自由に生み出す力を持っている」


 先日、俺は分断した後にも動き続ける虹化体と交戦した。しかしそいつには核が2つあり、たまたま俺が切断した切れ端にも核が残った結果、自律して動く虹化体が増えたように見えたのだ。

 核のない虹化体なんて本来ならばありえない。

 それはただの虹素の塊に過ぎず、目に見える形をとることも、ましてや相手に狙いを定めた攻撃なんてできるはずもないのだ。……しかし環は、それを可能にした。


「オレが奇襲を受けたのは慧央さんが環さんをメタメタにした直後っス。この分だと、核が壊れそうになった時に身代わりとして新しいを用意して、どういう訳か核を移動させていることも考えられるっスね……」


 蘭堂の言葉に返事が出来ないでいると、傷を回復させた2人の環は同時に声を上げる。


「あ〜〜〜痛い☆」

「虹化体の体でも痛いんだ☆」

「それより慧央くん、今のグワッてやつどうやったの〜? ボクの可愛いムチをぜーんぶ奪ってくれちゃってさ〜☆」

「あんまりにも怖いから思わず増えておいて・・・・・・よかったよ〜☆」

「ん〜でもふたつの体を動かすの、慣れないから難しいや☆」


 全く同じ顔、全く同じ声。

 環1人でも不協和音たりえた存在が重なり合うことで、その不快さを波のように増幅していた。2人は手を取り合ってダンスを始める。その動きは鏡合わせのように寸分の狂いもなく、戦場においてはどこまでも不釣り合いであった。

 思わず怒りが吹き出しかけて、己を自制する。

 環の目的は元々、俺の殺害ではない。ここで俺が我を失っていいことは何もないのだ。考えなければならないのは、無限に分身を増やしていく環をどう攻略するか──


「慧央さん」

「お前は黙ってろ」


 俺は黒腕を展開し、2人の環を同時に潰して見せた。

 蝶のようにステージを待っていた環は、ハエを潰すようにステージに叩きつけられた。周囲には沈黙が降り、どう見ても戦いは終わったように見える。

 しかし、黒腕の上空に黒いモヤがチラついたかと思うと──一瞬にして、3人目の環が形作られた。


「なるほどね〜☆ 増やし方のコツ、分かっちゃったよ〜!」


 環はムチでステージを破壊しながら、俺たちの目の前に降り立つ。2回も死の苦しみを味わったとは思えぬほど、いやむしろ殺される度にその目の光は爛々と増していくように見えた。先程までは猛毒として避けていた日光をその背に浴び、裂けるように笑う。


「これならボクは誰にも負けない。……この世界を支配だってできる! 太陽と虹に覆われる地上を……ボクだけのものに☆」

「ふざけたことを……!」


 俺と環の視線が交錯して、戦場は一気に動いた。

 黒腕とムチを構え、互いの命を刈りとる必殺の一撃を重ね合わせていく。攻撃をかわすのは最小限の動きで、その間も相手から目を離さない。多少体の肉がはげ落ちようとも、虹化体である俺たちにとっては関係がない。互いに何度もその身から血を迸らせながら、人の身ならば致命傷であった攻撃を浴びながら、死闘を続けた。


「そ〜いえばさ、慧央くんってボクの未来を知ってたんだよね☆」


 分身を増やしては俺に潰される環は、入れ代わり立ち代わりそう話しかけてくる。


「お前は7月14日に、本来なら……大量の民間人を殺すはずだった。だがそれは俺が防いだ。そしてこの馬鹿げた戦いもすぐ終わらせる」

「ケケ☆ そっかあ。──実はさ、今さっき言ったのウソなんだよ☆ 地上をボクのものにしたいってヤツ」


 俺の心臓目掛けて飛んできたムチを黒腕で掴み、塗り替えた。環の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、その頭部を殴り飛ばす。


「口塞ぐのは卑怯でしょ〜☆」

「お前の口車にはもう乗らない!」


 背後に現れた分身のムチと蜺刃を合わせた。がくんと重い手応えが全身に伝わってくる。体を急に反転させた瞬間を突かれ、パワー勝負にやや押し負けてしまった。

 俺は環との鍔迫り合いに負けて後退すると、ステージの奥の壁に叩きつけられる。その衝撃で目の前のムチに刃が通り、くるくるとはためくそれは虹素へと還っていったが、俺は完全に動きを封じられてしまった。


「地上人を皆殺しにしたかったのはホント☆ でもね、ボク、本当は──ただ、この青空を一目見たかったんだよ」


 一瞬だけ遠い目をした環の首を、容赦なく飛ばした。


「キミたち地上人に分かる? ……地上を目指して地下から脱出した仲間がさ、誰一人帰ってこないときの気持ち☆」


 その隣に現れた環を、2本の黒腕で握ってちぎった。

 どうやら環が同時に操作できる分身は2体までのようだ。操作が難しい、と先程言っていたのは嘘ではないらしい。


「ボクたちもバカじゃないから分かるよ。地上人は虹素に適応した。蜺素製剤も打ってる。……そもそも虹素が怖くて地下に逃げたボクの先祖は、それっきり地上のことなんて見ようともしなかったんだよね。だからそんなボクたちが地上に出て生き残れるなんて思ってなかったよ」


 即死させた瞬間に環が2人増えた。片方は蜺刃で心臓を突き刺し、もう片方は地面に叩きつけた。


「……でも悔しいじゃん☆ ボクは生まれた時から地下にいた。選択肢なんてなかった! だから生まれながらに地上にいる地上人が憎くて殺そうとしたんだ。──でも、地上に来てみたら、虹素は苦しいし、太陽は熱いし、何もかもがうるさい」


 環の抵抗の手が緩んできたのが分かった。疲弊したのか、つまらない自分語りに満足したのかは分からないが。

 2人増えた分身を、それぞれ黒腕で拘束する。何度殺してもキリがない。こいつを完全に消滅させる策を練らねば。


 地面に縫い付けられた環は、星の輝く金色の瞳から大粒の涙を流していた。


「死んで、こんな姿になって、何回も何回も殺されて。てか慧央くん容赦無さすぎでしょ☆ チョー痛いんですけど☆ ……それでも、空が青くて、空に7色の虹がある美しい地上は……憎めないんだよね。バカみたいなんだけど」


「何をふざけたこと言ってるんだ、お前」


 これだけの事をしておいて。あれだけのこと地下街の悪夢を企てていて。その上で一人で勝手に満足しているなんて。

 そんなお前の身勝手のせいで、俺の未来は……依呂葉を守り抜くという目標は奪われたのか。


「もう飽きた。痛いし。ボクのこと殺してよ。来世は地上人に生まれたいね」

「…………っ!!」


 あまりの怒りに環を踏み潰そうとした俺の体を、蘭堂が引き止めた。


「離せ! もう……俺は」

「慧央さん、落ち着いて下さいっス! このまま環ちゃんを殺し続けても、消滅させることはできないっスよ」

「じゃあどうすればいいんだ! こんな……こんな」


 俺も環も、今や同じ大罪虹化体である。

 俺の背負う罪は未だ判明しないが、──俺も環も、自らの欲を満たすために生きていることには変わりない。

 そして、今ここで倒れる環の姿こそ、全てをやり抜いた……もしくは、その半ばで倒れる俺の姿だ。タイムリミットはもうすぐそこまで迫っている。これだけ人目に付く場所で戦ってしまえば、軍から追われることになるのはもう避けようがない。それまでに《憤怒》を討たなければ。


「……慧央さんに必要なのは仲間っスよ! アンタはひとりじゃない」

「仲間なんて出来るわけないだろ! 俺は虹化体だ。お前ら人間の敵なんだぞ」

「実はオレにいい考えがあるっス。環ちゃんを殺すための」


 蘭堂は俺の言葉を聞くつもりはないらしい。苛立って蘭堂の方に体を向けると、そのまま子供に言うことをきかせるかのように肩を押さえてくる。


「人間のお前に大罪虹化体を倒すことは出来ない」

「慧央さんにクイズっス。環ちゃんの分身は何で出来てるっスか?」

「何って。虹素か? そんなことを答えさせて何にな──」

「せーいかいっス! じゃあもう1つ質問! 慧央さんが出してるその腕の材料は?」


 能天気すぎる蘭堂への苛立ちが高まっていく中、その質問だけは脳にストンと落ちてきた。

 そうか。……環が異様とも思える速度で分身を作っていたのは……


「近くに俺がいるせいで、虹素濃度が高まっていたから……」

「そゆことっス! だから慧央さんは今すぐにその腕をしまってください」


 大罪虹化体は、大罪虹化体にしか倒すことが出来ない。……そう思っていた俺の頭からは、俺「だからこそ」環を倒すことが出来ないという選択肢はすっぽりと抜け落ちていた。蘭堂に示された新たな選択肢は、俺の環に対する強い怒りすら消し飛ばしてしまう。


「だーいじょうぶっスよ! オレ頑丈ですしそれしか方法ないっスよね」

「……」


 環を見てみれば、もう俺が拘束するまでもなく気力を失って見える。黒腕を消すと、環は目玉だけをゆっくりこちらに向けた。


「……友達ごっこ?」

「オレと慧央さんの仲を《ごっこ》って言うのは許さないっスよ。じゃ、慧央さんはそっちの環ちゃんをよろしくお願いするっス。2人同時に息の根を止めれば、この状態では分身も作れないはずっス。多分。……これでダメならもうお手上げっスよ」


 蘭堂の言う通り環の片方と相対した俺から、環はようやく目を逸らした。


「そんなことされたら死ぬよ。……増えるのってチョー疲れるし☆ もう指一本も動かしたくない。虹素ね。夢の物質って言うくらいなら、こういうとこも解決してくれればいいのに」


「慧央さん、行けるっスか?」

「……ああ」


 蘭堂とタイミングを合わせ、環の心臓を同時に貫く。

 金色の目から生気が失せ、──環は完全に沈黙した。


*・*・*


「オレの言う通りっスー!」


 核を砕かれた環が塵となって消え、復活してこないことを確認すると、蘭堂は異常とも思えるテンションで喜び狂った。しばらく跳ね回ると満足したのか、慧央の近くに寄ってきては座り込む。

 一方、慧央は何もない床を見つめて放心していた。

 虹化体となって以来、以前にもまして……慧央の脳内からは他人と協力するという選択肢が抜け落ちていた。それを目の前に叩きつけられた事への動揺が隠せないのだ。


「慧央さん分かりましたか? アンタ1人じゃできることも出来ないんスよ。オレとアンタの2人がいたから、環ちゃんを倒すことが出来たんス。だから1人で何でもやろうとするのはやめてくださいっス。オレは、オレ……だけは、ずっとアンタの味方なんで」

「……お前は俺のなんなんだ? さっき会ったばかりだろうに」

「……今ならいいか。これなら分かるっスか?」


 蘭堂が深呼吸をすると、その輪郭が揺らいだ。蘭堂に目をやった慧央はそのまま、真っ赤な目を大きく見開く。


「……やっぱり元の体・・・の方が落ち着くな」


 蘭堂だった・・・人間は、その見た目を大きく変化させていた。

 褪せた紫の髪の色は濃くなり、雑に切られた短髪をヘアバンドでまとめている。特徴的だった赤い瞳は、髪と同じく深い紫に落ち着いた。そして、どこから出したのか、しっかりと顔を隠すマスクまで付けている。

 慧央にはその容貌に見覚えがあった。あり過ぎるくらいだ。声のトーンと慧央を見つめる視線も、くすぐったくなるほど慣れたものだ。

 今慧央の前にいる男は、間違いなく、千賀だった。破虹軍千葉支部に所属しているはずの、慧央とは中一のときからの腐れ縁の男。


「お前、どこから」

「簡単な話だ。蘭堂はオレの天恵・・を使って作った仮の姿。変装と言ってもいい。千葉支部に籍を置く俺がなんとか、お前に近付こうと思って用意した空っぽの器だ」

「天恵…………いや、その前に、じゃあミーティングの時蘭堂を推薦したのは」

「無論、自薦だ。お前は目を離すとすぐ死のうとするからな。幼馴染としてそれは看過できない」


 慧央は恐れるように二三歩後ずさった。控えめに言って、千賀のストーキング具合は異常だ。

 慧央が破虹師になってから千賀からのコンタクトはかなり減っていたのだが、……同じ建物の中で慧央を直接観察していたのならそれもうなずける話である。


 それ以上に、慧央はどこか後ろめたくなった。


「……俺はもう人間じゃない。こんなに広く知れ渡ってしまった。お前すら巻き込んだ。……もう俺には関わるな。俺はこれから大罪虹化体のアジトに赴き、できる限りの破壊をして、死ぬ」

「出来るわけないだろ。環とすら互角だった癖に。……知ってるか? 大罪虹化体の実力は、その歴とほぼ比例する。つまり大罪虹化体となってまだ日の浅い・・・・お前は、環にこそ力が通用したかもしれないがその他の個体には到底敵わないんだ。……そもそもどうして、大罪虹化体を殺したいと思ってる?」


 千賀に聞かれて、慧央は言葉を詰まらせた。

 これ以上千賀に関わって欲しくないあまりに、タイムスリップや依呂葉のことを打ち明けるのを躊躇っているのだ。逃げようとする慧央の体を、千賀は両腕で掴んだ。


「いまさっき証明した。オレはお前の役に立つ。お前の為になら死んだって構わない。……だからオレを置いてもうどこかに行かないでくれ。中学の時みたいに」

「俺はもう目の前で人が死ぬのを見たくないんだ。……俺一人で敵わないのなら、それでもいい。俺を守るんじゃなくて依呂葉を守ってやってくれ。お前くらいの執念があれば、依呂葉を幸せにしてやれるはずだ。依呂葉のファンクラブ会員なんだろ」

「それは蘭堂という男がかつてそうしていたからだ。もちろん依呂葉ちゃんだって大切だが……オレにはお前しかないんだよ。──分かってくれないのなら、また記憶を消すしか・・・・・・・なくなる」



 ──慧央と千賀が言い争う様を、会場の奥の方から見ている者がいた。


 ここで起きたことは、男が秘密裏に飛ばしていた小型ドローンにより全て把握している。男が熱心に視線を注ぐのは、慧央だ。

 そろそろ頃合かな……と、手に持った大型の弓型蜺刃──数少ない遠距離型の蜺刃に矢をつがえる。


「記憶?」

「お前は覚えてないだろうが、オレは……お前が破虹師になった頃からお前に関わってきた。山田と寮の相部屋になったのは丁度1年前だろう。その前。お前が軍に来てからの最初の1年間、誰と相部屋だったか覚えてるか?」

「……あ」

「オレだ。蘭堂だ。……その時もこんな話をした。お前に傷ついて欲しくなくて、何度も破虹師を辞めるよう説得した。だがお前は『依呂葉ちゃんのために破虹師を続ける』と言って聞く耳を持たなかった。だから記憶を消して、また別のアプローチでお前に近付くことを繰り返してきた。……お前が折れるまで続けるつもりだった。何度だってな」


 衝撃の事実を告げる千賀を他所に、男は弓を大きく引き絞り、放った。男にしてはやや長めの髪が、その風圧でぱらぱらと靡く。

 蜺素の矢じりのついた矢は空気を裂きながら、慧央の心臓を目がけて飛んでいく。


「……だがもう諦めることにした。お前は心底馬鹿だ。戦うのを辞めさせることは出来ない。それならせめてオレも一緒に──ッ!」


 千賀はその飛来に気付いた。慧央への言葉を切ると、その体をずらす。何が何だか分からない慧央の前で──千賀の体に、長く重い矢が突き刺さった。


「……は?」


 ドッ、という重い音は、矢がその内臓の奥の奥まで深く刺さったことを示していた。千賀の体から力が抜け、慧央の眼前に倒れる。傷口から鮮血が溢れ、その瞳からは光が急速に失われていく。蘭堂の体と異なり、千賀の体は本体そのものだ。もう先程のように傷を治すことは出来ない。──確実に致命傷だというのは慧央にも分かった。


「ち、千賀?」

「早く逃げろ。あいつだ。あの男に決まってる。……お前、もう、虹化体ってことは……知れてるんだから。逃げろ。はは、オレがいて良かった。お前を守って死ねる」

「ふざけるな! クソ、なんで」


 慧央は怒りから黒腕を噴出させながら、矢の飛んできた観客席を見渡した。その犯人は逃げも隠れもせず、矢を放った姿勢のままそこに佇んでいた。


「ああ、外してしまったよ。……まさか部下を撃ってしまうことになるなんて、ぼくの腕も鈍ってしまったかな」


 緑色の髪を無造作に伸ばし、大きなサングラスを頭に乗せた男。──破虹軍総帥・弓手嚆矢は、弓にもう一本の矢をつがえながらそう言った。


「弓手……!」

「ふふ、もう総帥とは呼んでくれないのかな、慧央くん。もしかして思い出したかい? ……まあいいけど。きみは虹化体だ。それはもう多くの破虹師たちの知るところにあるし、ぼくは総帥としてきみを討伐しなくてはならない」


 弓手の口は滑らかに言葉を紡いだ。まるでこの日を長年待ち望んでいたような様子に、慧央の顔が歪む。


「とても残念だ。本当に……きみには期待していたからね」


 弓手は顔に悲痛さを滲ませ、思ってもいないことをうそぶきながら、もう一度矢を放った。

 それを防ぐために伸ばされた黒腕の全てを貫き、尚も衰えない勢いのまま、矢は慧央の眉間真っ直ぐに突き刺さる。

 慧央は為す術なく意識を失った。


 弓手はそれを見て薄く微笑み、端末を取り出す。


「──こちら弓手。大罪虹化体の討伐が完了したよ。あとの処理はぼくがやっておくから、そちらは市民のケアに回って欲しい。できるよね? こころちゃん」


*・*・*


 2100.7.21.


 ──翌日。公開演説会が終わり、環の発生による災害の鎮圧も粗方が済んだ頃。弓手は今回の事件に関する記者会見を開いていた。弓手の表情は硬く、これから話される内容の重さを物語っている。それが作られた表情だと知っている人間は、この場にはいない。


「まずは、我々破虹師の力不足により市民の皆様にご迷惑をおかけしましたことを心よりお詫び申し上げます」


「公開演説会に関しましては、地下民の少女を壇上に上げるということで、何度も熟考の末万全の体制で臨んだつもりでありましたが──破虹師、それも北斗七星の中に大罪虹化体が紛れ込んでいたことに気づくことが出来なかったのは、間違いなく軍の過失でした」


 過失、というところでフラッシュの勢いが増した。バチバチと容赦なく弓手を照らす光の中でも、弓手は動揺ひとつ見せず、完璧な所作を保ち続ける。


「しかし、大罪虹化体はぼく自身が討伐しました。長らく個人討伐は不可能と思われていた大罪虹化体ですが、とうとう人類にも勝ち目が出てきたということです」


 会場がどよめく。記者たちの顔色を見て、弓手は彼らが何を言わんとしているのかを察した。ああ、と声を漏らしながら、にこりと微笑む。

 記者たちは、大罪虹化体を討伐したのは亜門だった、と弓手が言うのを期待していたのである。──この国の危機を救うことが出来るのは、日本最強である亜門左門しかいない、と誰もが信じているからだ。


「亜門左門……ですか。確かに軍で最強の戦力は亜門左門に違いありません。総帥であるぼくよりも単純な戦闘力としては高いものを亜門は持っています。伊達に20年以上もこの国最強の名を背負っていたわけではありません。彼のことは私も本当に頼りにしていた」


 笑みをかたどっていた弓手の顔が、無に凍りついた。


「──しかし、彼は昨日付けで破虹師の権利を剥奪されました。ですから討伐には参加していません」


 会場は先程の比ではないほどの狂乱に包まれる。記者は口々に弓手に疑問をぶつけ、亜門の進退を追及した。

 日本最強が、軍から消えた。──それは、最早環の事件が霞んでしまうほどの大事件だったからだ。


「簡単な話です。……彼は長年に渡って不正をしていた。虹化体の討伐数を勝手に│調整・・していたのです。虹化体の討伐数データは国の防衛においてもかなり重要なもの。その改竄はいかなる理由があろうと許されるものではない……それに気付くことが出来なかったのも、軍の責任ではありますが……」


「以後再発防止に努め、都民の健康と財産を守るために邁進してゆきたいと思っております」


 弓手は深深と頭を下げる。


「……公開演説会事件の報告に戻りますが……。皆様もご存知の通り、演説会自体は成功に終わりました。現場に破虹師を大量に待機させていたため、被害も軽微だった。あの場に現れた2体の大罪虹化体は、亜門左門のいない破虹軍でも対処することができました。この点は、きっと今不安を感じておられるだろう都民の皆様に強調させて頂きたい」


「そして何より……地下民の少女の声はぼくの胸にも響きました。……虹は虹化体を生む母であることを、決して忘れてはならないでしょう。今後は街を巡回する破虹師を増員し、虹化体への警戒を強化していく。まずはそこから実行していくべきだと考えています。……この度は都民の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び致します」


 そう言うと、激しくフラッシュを焚き続ける記者陣を置いて弓手は席を立った。その顔は髪に隠れており表情は確認できない。




「う、そ」


 少女が手に持っていた紅茶のカップが机に落ちた。耳障りな音を立てて割れたそれから、赤い液体が漏れていく。


「……お兄ちゃんが、大罪虹化体……?」


 弓手による記者会見を寮のテレビで見ていた依呂葉は言葉を失い、番組が切り替わってしばらくしてもその場から動くことが出来なかった。

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