7月20日(1/3)


 2020.7.20.

《公開演説会当日》


「──というわけで、本日はよろしくお願いします」


 プツリと一方的な通信を切り、ため息をついた。演説会開始時刻は午後1時、もう間もなくである。

 整理券を求めてやってきてしまった市民への事情説明を終え、代わりに会場に詰め込む破虹師への通達も終えた。依呂葉と山田さんもその中にいるだろう。少しずつ破虹師たちの声──市民に擬態したほどよいざわつきも聞こえ始め、俺の意識は背後へと向けられた。


「環、昨日はよく眠れたか」


 鈍色の手錠をはめた環が、俺を見て不敵に笑っている。首元の何やら見慣れぬ首飾りが気にはなったが、それを問う前に環が口を開いた。


「おかげさまで☆ 今日は好き勝手させてもらうからね」

「……勝手にしろ。何かした途端、俺はお前を殺してもいいことになっているからな」

「キャハ☆ 怖〜い☆」

「もう少ししたら控え室を出てステージに向かう。やり残したことはないか」


 環は素直に首を縦に振る。俺は目を細めた。

 そうしていられるのも今のうちだ。

 この会場は隅から隅まで、環を殺すための檻なのだから。


 もうまもなく環を連れて俺はステージへと向かい、奴を破虹師たちの眼前に差し出す。作戦に穴はない。唯一心配があるとすれば……環の顔が、あまりにも余裕に満ちているということ。

 緊張から水に手を伸ばそうとした時、控え室の戸がノックされた。声を上げようとする環を抑え、俺は蜺刃を展開して扉に寄る。俺の計画を邪魔するような輩であれば、その場で拘束せねばならないからだ。


「こんちゃーっス! 蘭堂っス」


 そんな俺をよそに部屋に足を踏み入れてきたのは、戦闘服を纏った│見知らぬ《・・・・》男だった。藤色の髪を乱雑に括り、蜺刃を構える俺を見ても怯えぬ様を見るに、相当に図太い男と見える。

 蘭堂。千賀から聞いたことがある名前だ、とまず思った。


「何の用だ。ここは関係者以外立ち入り禁止となっているんだが」

「やだなあ、千賀さんから聞いてないっスか? オレも今日はステージ上で警備させてもらうことになってるんスよ」

「させてもらうことになってるって……それを決めるのは俺だし、許可を出した記憶もない。能力に信頼ができない以上、認めることはできないに決まってるだろ」


 俺は3年破虹軍にいるが、こいつとは1度も話したことがなかった。また亜門さんや弓手の時のように│記憶を消されている《・・・・・・・・・》可能性も考えたが、記憶刺激装置を利用してもこいつのことは欠片も思い出せていない。だからやはり面識はないのだろう。

 だが、ここまで言っても蘭堂はけろりとしている。


「ちなみに千賀さんは千葉支部の支部長代理代理で、立場上は北斗七星よりも上っス」

「いや、それはあのフクロウのお守りであって」

「問答無用〜! 大丈夫っス……慧央さんの邪魔はしないっスから」


 そう言って蘭堂は俺の肩を軽く叩き、横を通り過ぎて環に接近しようとする。その所作に妙な違和感を感じて腕を掴んだ瞬間、視界の端の時計が12時50分を指した。蘭堂の笑みが深まる。


「ん、時間っスか? 早く行きましょー! オレこんな歴史的瞬間に立ち会えてホント感動してるっス! ……ほら、環ちゃんを連行する時、オレと慧央さんで両側から押さえてる方がより確実でしょ?」


*・*・*


 結局流されてしまい、蘭堂と2人で環を壇上まで連行することになった。と言いつつ何故か蘭堂は環と一定の距離を保ち、動きを取り押さえようという意思を全く見せてこない。まあ直前で壇上から締め出してしまえばいいし……などと言い訳を始める自分が酷く情けなく思える。蘭堂を推薦してきた千賀に対して負い目があるから、無下にするのをためらっているのかもしれないが。

 窓のない廊下は真夏の昼間でも薄暗く、廊下に俺たちの足音と手錠の擦れる音だけが染みていくのがなんとも不気味だった。


「そーいえば環ちゃん、その首元のペンダントって何すか? 地上では見かけないデザインっスよね」

「これ? これはね……へへ、形見なんだよね☆ 友達の」


 静寂を唐突に破った蘭堂に、環は意外にも上機嫌に返した。俺と会話をする時には必ず皮肉を混ぜてくるのだが、今日はさすがに機嫌がいいのかもしれない。

 なんせ、環にとっては7年越しの野望が実現する日なのだ。そんなことをさせるつもりは全くないが、もし俺が同じ立場であれば多少浮つくのは容易に想像できる。

 環は胸をぴんと張り、首から下がるペンダントを蘭堂に見せつけた。


「なんか友達が飼ってた犬の骨らしいんだ。ボクが9歳になった日に友達がくれて」

「へぇ〜……なんでまた、そんな大切なものを」

「さあ? まあその子も7年前に軍に殺されちゃったけどね☆ キャハハ☆ ……地下暮らしの人間って骨が弱くてさ、死んだ後の骨もロクに残らないんだ。だからこうやって形に残しておくのはすごく難しくて、特別な贈り物って感じがあるね〜」

「蘭堂、玉置……それ以上無駄口を叩くな」

「ぶー! 良いじゃん! これが最後になるかもしれないんだしぃ☆」


 「最後」というワードに俺と蘭堂は多少たじろいだものの、それきり揃って口を閉じ、元の静けさが戻った。

 俺は環を挟んで隣を歩く蘭堂の顔を盗み見る。何を考えているのか分かりにくい飄々とした男で、目につくのは俺と同じ赤い瞳。

 実は、俺の赤い目は生まれつきではない。元は依呂葉と同じ黒い目をしていたのだが、記憶喪失……つまり《千葉大災害》を経てこのように赤くなった。世世さんには事件のショックで虹彩の色素が抜けたのだと診断を受けたが、実際のところは不明だ。

 現在の日本は虹のおかげで本来生物学的にありえない色素が人体に発現するのも珍しくない。弓手の髪は深い森のような緑色をしているし、蘭堂や千賀の髪色は紫だ。

 それでも、赤というのは特別な色だと俺は思っている。生まれてこの方、赤色の髪や目を持つ人間を見たことは驚く程に少ない。……それこそ、天恵を発動させている人間の目が赤くなるのを目にする時くらいだ。


 だからこそ、同じ赤の色素をもつ蘭堂のことが気になった。

 こいつは何を考えて今この場にいる? いや……もっと言うならこいつを差し向けた千賀のほうだ。千賀の考えが全く読めない。この言いようの無い気持ち悪さを例えるなら、目的地の逆方向へ進んでいることにうっすら気付きながらも、何となく歩くのをやめられない時のような……


「ぼーっとしてるんスか? 慧央さん。もう着いたっスよ〜」

「あ、ああ」


 蘭堂の声に意識を引き戻される。目の前にはステージへと続くドアが見え、俺の耳にももう外のざわめきが届き始めていた。


「……じゃあ、玉置。手錠を外すがくれぐれも」

「分かってるよーん☆ ボクの演説、しっかり聞いててよね。──みんなを震え上がらせて見せるからさ☆」

「おお! いいっスね〜」


 手錠の鍵を外し、事情を知らない蘭堂の足を思い切り踏みつけながら、3人でステージへと出た。悔しいが俺と蘭堂は後方で待機するしかない。

 破虹師2人という枷を取り去られた環は、羽が生えているかのような軽い足取りで、さながら天に昇っていくように、演台に立つ。

 目の前にいる人間の群れは全員、ただの1人の漏れもなく、私服に身を包んだ破虹師たちだ。それを知らないのは環たった1人だけ。この会場は何から何まで自分を殺すために誂られたものだと知らないままでマイクを握ると、天使のような、陽の光に溶けてしまいそうなほほえみを浮かべた。


「あ、あ……っと、ヨシ! マイクOK☆ 初めまして、地上人のみなさん! ボクは玉置環──みなさんの嫌いな嫌いな、嫌〜〜いな地下民です☆」


 しかし、その天使のような小さい体から発せられるのは、鉄臭く毒に満ちた言葉であった。

 金属のように軋む声を拾ったマイクがその歪みを増幅して会場に浴びせると、歴戦の破虹師たちもその顔色を変える。──公開演説会の幕開けに、俺はぎりりと緊張の糸を張りつめさせた。


*・*・*


 2020.7.20.

《同時刻》


 外は日の照りつける真夏であっても、破虹軍の中は常に黒く冷たい。軍の内装が黒で統一されているのは、その材料が蜺素だからというだけでなく、暗さによる精神の鎮静効果も見込んでのことらしい。……淡いブラウンのお下げを揺らす少女、こころはそう聞き及んでいた。

 こころは一介の事務員であり、公開演説会当日の今日も会場での警備などには駆り出されていない。否……そうならないように、自ら取り計らったのである。

 事務課長の死後、こころは精神を病んだ副課長の代わりに事務課を実質任されるようになっていた。そのこころの指示により、彼女以外の事務課職員は今会場外にて市民の統制を行っている。つまり事務課はもぬけの殻であり、こころは心置きなく自身の作業・・に集中することが出来るようになったというわけだ。──暗い事務課長室で、こころは自身のパソコンに目を走らせていた。


(早く、早くしなければ。いつ人が来るかも分からない。今を逃せばアレ・・に触れられる機会はもう……)


 こころの作業。それは軍の情報を│盗み出す《・・・・》ことである。

 彼女は破虹軍東京本部に事務員として赴任してきて以来、職員として働きながらも内部情報を外部に流出させる……言わばスパイ活動を行っていたのだ。

 こころが慧央や依呂葉たちに対して常に一歩引いて接しているのは、自分はスパイであり、破虹師たちを欺いているのだという罪悪感があるからにほかならない。こころに味方はいない。手早く仕事を終え、お父さん・・・・に少しでも認められたら、それが唯一の救いとなるのだ。こころはその為だけに生かされていると言っても過言ではなかった。そのために、やりたくもない犯罪行為に手を染めているのだ。


(えっと……確か、前に潜った時にはここに隠し扉があって……)


 こころが狙う情報は多岐に渡る。日々の破虹師の勤怠情報から討伐記録、また会議の議事録などを引き抜いてきては週に一度父へ送信するのが彼女の日課となっていた。

 だが、それはカモフラージュである。優秀な破虹軍……特に総帥の手にかかれば、こころが定期的にそのような行為をしているなんてお見通しのはず。それでもお咎めがないのは、こころが盗み出している情報は総帥にとっては瑣末なものに過ぎないということなのだから。こころの真の狙いは、その先──軍の威信を揺るがすような機密情報だ。


 こころはキーボードを叩き、事務課の運用するデータベースの奥の奥まで入り込んでいく。無数のウインドウが現れては消え、パスワードを解除する行為を繰り返していると、やがて1つの黒いウインドウが出現した。こころは下がっていた眼鏡を上げ直す。

 普段自室でパソコンを打つ彼女がわざわざ事務課長室で作業している理由は、ここにあった。


(このウインドウを切り抜けるには、課長室だけに巡るネットワーク回線を利用している必要がある……だから私は今日、1人になる必要があった)


 課の全権を握っているとはいえ、役職上こころは課長ではない。次期課長選出までのあいだ課を取り持つピンチヒッターのような役回りをしている。副課長をさしおいて課長級のセキュリティを突破するなどということは「不審」なので、これまで避けていた。

 こころが軍に赴任してからの1年と少しの間、隅々まで軍のデータベースを洗った中で、ここまで厳重に守られ、そして開示することの出来なかった情報というのは──これしかない。これが最後の1ピースなのだ。


(課長権限でようやく閲覧が可能になる情報……とは、一体何だろう。お父さんが知りたがっている軍の機密が、ここにあるはず……)


 頬を汗が伝うを感じながら、こころはさらにキーボードを叩いた。自室で何度試そうともビクともしなかったセキュリティは、あっけないほど簡単に道を開いた。

 刹那、パソコンの画面上に無数のファイルが出現する。興奮に湧く心を抑えて、とても全ては目で追いきれない文字の羅列を懸命に拾い読んだ。蜺素、延命、白天使計画……


 白天使計画・・・・・

 こころは小さく震える。そのワードには聞き覚えがあるからだ。しかしそれは軍ではなく教会・・が主導していた計画のはずで、その内容を総帥が……軍が知っているはずはない……


「予想より早くここまで来たね、こころちゃん」


 耳元で声がした。誰だという疑問の前に人に見られたという恐怖がこころの全身を縛り、ノートパソコンを乱暴に閉じると椅子から立ち上がる。

 その時足元を這うコードを思い切り踏みつけ、足首をひねった。完全に制御を失った体は傾き、もうダメだと目をつぶったところで……ふわりと、優しくも力強く抱きとめられる。


「えっ」

「あはは、驚かせてしまったかな」


 暖かい腕に包まれながら、こころは声の主を悟った。しかし、その甘くとろけるような声は、子供を抱く母親のようにこころを包み込む。自らが敵の巣に突っ込んだ獲物だということを、忘れさせるように……


「……目の前で人が倒れようとしていると、つい手を差し伸べてしまうんだよ。ぼくは破虹軍総帥だからね」


 とっ、と床に下ろされたが、そのまま立っていることは叶わず、結局こころは放心状態のまま椅子に逆戻りしてしまった。こころにとって招かれざる客──弓手は、そのままこころに覆い被さるようにして閉じたパソコンを開くと、今しがたこころが見ていたデータを物色し始める。


「まあ、動くなら今日かなとは思っていたよ」

「総帥は……演説会のほうに行かなくても、よろしいんですか」

「うーん、リーダーは慧央くんだし……さすがに軍を空っぽにしておくのは良くないかなと思ってね。ほら、きみみたいによからぬ事を企てる輩がいないとも限らないでしょ? いやあ会えてよかった。もしぼくがいない時にこれを見られてたら──いくらこころちゃんが可愛い女の子でも、手を打たなければならなくなる所だった」


 弓手はこころの手のそばに何かを置いた。直方体の金属の箱。そこには1つのボタンのようなものがついている。


「さすがに見覚えはないか。この間……事務課長が不慮の死・・・・を迎えた時に使ったスイッチの改良版だよ。押せばたちまち部屋に毒ガスが充満する」

「……!」


 どこか上の空だった心が、さああと冷めていく。


「分からないかな。きみはぼくの罠にかかったんだ。先代事務課長もここで、きみと同じように、ぼくの秘密を暴こうとしていた。だから少しだけお願い・・・をしたんだ。その結果彼女がどうなったのかは、きみも見た通りだよ」


 こころの脳裏に事務課長の最期が思い出される。理性を失い、目の前にいるこころすらも認識できない獣のようになっていた彼女は、……こころに何かを言おうとして、急に事切れた。


「腕の拘束具の中に毒針を仕込んでいたんだ。当然部屋でのやり取りは全て聞かせてもらっていたし」

「……貴方の目的は何ですか、弓手総帥」


 こころが問うと、弓手はクスリと笑った。


「ぼくとしては、コソコソ軍の情報を嗅ぎ回る不審人物さんの方に質問をしたいのだけど……」

「……っ」

「きみの苗字は綾間だったね。千葉支部の支部長である綾間空良あやまそらよしくんの。君のには支部長クラスの情報を入れることだって可能なはずだ。それなのにどうして、わざわざきみがスパイ活動のようなことをしているんだい?」

「…………」


 こころは押し黙った。敵を目の前にして自らの事情をペラペラと喋る馬鹿はそうはいまい。しかし、この場で起死回生の一手を放てるほど強い人間でもなかったということだ。弓手はひとつため息を吐くと椅子から離れ、机の周りを回り、こころの正面に立った。ノートパソコンをぱたりと閉じる。こころとの間に障害物がなくなったところで1度目を閉じ、ゆっくりと開くと──その瞳は、暗闇にもてらてらと光る真っ赤な色をしていた。


「……あまり表にはしていないんだけど、ぼくも山田くんや依呂葉ちゃんと同じように、天恵が使えるんだ。どんな力だと思う?」

「……」

「分からないよねぇ。たぶんそれを調べようとしてたのかな。きみのご実家……聖虹教会・・・・傘下のテレビ局、だったかな。教会とぼくは古くから敵対しているし、ぼくの弱みが欲しかったのはわかるよ。ぼくからはヒントはあげないけど、強いて言うなら……ぼくの前で妙な芝居はしない方がいいってとこかなあ」


 弓手が喋る間、こころの視線はゆるゆると机へと落ち続けた。それを弓手自身の手で止められ、こころは目の前の恐怖から逃げることすら出来ない。

 私はなんで、こんなことをしているのだろう──こころは幾度となく感じてきた絶望に晒され、ひとしずくの涙をこぼした。

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