閉ざされた真実


 亜門さんが俺へと視線を向けていたのは一瞬だった。未だ様子を窺うように蠢く《嫉妬》へと向き直ると、蜺刃を構える。

 俺はごくりと喉を鳴らした。思えば俺は……いや、俺たち一般の破虹師は、亜門さんが虹化体と戦っているところを見たことがないのかもしれなかった。亜門さんは通常の蜺刃ではない黒い鎧を身に纏っている。おそらく依呂葉と同じ特注製のものなのだろうが……俺はその姿を、これまで一度も見たことがなかった。


(で、でもいくら亜門さんが最強だからって、大罪虹化体は一対一で人間が敵う相手じゃない)


 虹が生まれてからの87年間、大罪虹化体を個人で討伐した記録はただのひとつもない。……あの日、依呂葉だって殺されたのだ。俺は大罪虹化体に勝つために、人ならざる力だって手に入れたのだから。

 ただ、亜門さんの顔に焦りはなかった。構える刃は少しも揺らぐことなく敵へ向けられ、重々しい殺気がどろどろと地を這う──


 限界まで張り詰めた空気は、唐突に弾けた。両者が同時に動き出したのだ。

 亜門さんが嫉妬に肉薄する。爆風が辺りの窓を軋ませ、道路は衝撃でひび割れる。それにビビっているのは俺だけで、亜門さんと嫉妬はただお互いだけを見ている。亜門さんは蜺刃を一際強く握り直すと、水平に深く一閃。俺の太刀筋ですら裂ける肉だ。その一撃は比類ない密度で嫉妬を割り開いた。しかし嫉妬は恐ろしい速さで瞬時に切り口を繋げる。同時に4本ある腕を亜門さんに向かわせようとして……


「甘い」


 亜門さんの腕が一瞬見えなくなり、嫉妬の腕は爆音とともに四散した。

 はっきり言って、何をしたのか全く分からなかった。4本の腕は全て正確な立方体に細かく刻まれ、地面にグチャグチャと積み上がっては崩れていく。嫉妬の張り叫ぶような悲鳴にも顔色1つ変えない亜門さんは、嫉妬の息の根を止めるべく再び刃を繰り出す。


「なんだ、これ」


 夢でも見ているような気分だった。

 依呂葉と憤怒の戦いは、互角だった。……いや、憤怒には遊ばれていたのかもしれない。集中力を極限まで駆使して戦っていた依呂葉の一瞬の揺らぎを、憤怒は逃さず捉え、その首を落とした。

 だが亜門さんはどうか?

 戦闘を開始してから今までを見ても、亜門さんの体には傷1つ付いていない。嫉妬の虹化体は回復速度こそ異常に速いものの、亜門さんの猛攻に耐えるので精一杯だ。


 これなら、やれるんじゃないか?

 ……大罪虹化体に負け続けてきた歴史は、今日塗り変わるのではないか?


 俺は体の痛みも忘れ、目の前の戦闘に見入っていた。そして、待ちわびていた。何年もの間人類の希望・最後の砦として崇められてきた亜門左門という男が、巨悪を打ち砕いていく瞬間を。


「……ふんっ!」


 亜門さんが振り下ろした一刀が、コツンと硬質な音に弾かれた。核だ。両者目の色が変わる。嫉妬の嘶きは悲壮さを帯び、亜門さんからも気迫の籠った声が漏れ出す。引き絞られた亜門さんの腕は、蜺刃と一体化してひとつの大きな刀に見えた。それが狂いのない軌道を描いて嫉妬に吸い込まれ──


「〜〜〜ギャ、おっ、フまッ」

「……ッ!」


 ──る寸前に、ピタリと止まった。嫉妬が先程までとは様子の異なる声を上げ、何やら体がマグマのようにボコボコと沸き立っている。亜門さんはそれを見て距離を取ったのだ。


 何故だ? 

 確かに不可解な点はあれど、今、│やれた《・・・》はずだ。亜門さんほどの実力があれば、多少の予定外はねじ伏せられたはず、なのに。


「……ァ、すび、ば、セン」

「手短に済ませろ」

「あ〜……あ、あ……ンンッ、戻りましたね」


 嫉妬の声は段々と明瞭に聞き取れるようになってきて、なんと亜門さんはそれに応じる。嫉妬の体の揺らぎはどんどん激しさを増し、やがて限界に達したのか、辺りにヘドロを撒き散らしながら爆発した。


 思わず両腕で覆った顔を、再び月光の元に晒して……見えた姿に、目を見張る。


「お前……いや、│あんた《・・・》は」


 まず目に付くのはピンク色のツインテール。そしてその上に伸びるうさ耳カチューシャだ。まだ全身にへばりついているヘドロを叩き落としながら現れたのは、目にも眩しいセーラー服の白。


「慧央さん、またお会いしましたね」


 毒々しささえ感じるピンクの瞳を細めて笑うこの女は、紛れもなく、……俺が数日前に公開演説会について助言を貰った宇佐美さんに違いなかったのだ。


「まっ、待ってくれ。あんたどこから来たんだ。ついさっきまでここには《嫉妬》が」

「ええ、だから私が《嫉妬》の虹化体なんですよ♪ 昼間はアイス屋のアルバイト、夜は探偵……時々、大罪虹化体をしています♪」


 嫉妬。

 憤怒と同じく、七つの大罪の一つに数えられる悪しき感情だ。……つまり、俺の……いや、全人類の敵である。今すぐにでも喉笛を掻き斬り、血の海に沈めるべき存在ということだ……


 数秒ほど沈黙してみたが、宇佐美さんも、亜門さんも、「冗談だ」なんて言ってくれなかった。これは真実なのだろう。目の前が絶望にぼやける。

 ──この人、あの時なんて言ってた? その口から俺に、大罪虹化体はこの街で人に紛れて暮らしているとか、身を隠すためのアジトがあるとか……そんなことを、いけしゃあしゃあと……


「じゃあ、あの探偵事務所が、お前の……お前らのアジトなんだな」

「あは、それはどうでしょうね。私からは何も申し上げられません。……今来られても困ってしまいますし。それより亜門さん──」

「どういうことだよ!」


 宇佐美さんは俺とは取り合う気が無い様子だ。亜門さんと何やら話をはじめ、俺への興味なんて欠片もないらしい。先日会った時と人格が違うようにすら見える。不気味で仕方なかった。

 ……そもそも変だ。何故亜門さんは、敵と話なんかしている?


「で、ですね。とうとう……が……」

「そうか。……協力感謝する。あとはこちらの領分だ」


 そして最後には、亜門さんは嫉妬を逃がした。

 ウサギのようにピョコピョコ駆けていく宇佐美さんの後ろ姿を、ただ黙って見送り、すっかり姿が見えなくなってようやく、俺の方を向いたのだ。


「……あんた、今、何したか分かってんのか」

「嫉妬の虹化体を、│撃退・・した」

「破虹師が虹化体を見逃したんだよ! それだけじゃない。あんた、分かってて逃がしたんだろ。あんたならあのまま倒せた。アレはまた暴れて人を殺すに決まってる……! そうだろ」


 軋む体を押して立ち上がるが、亜門さんの目線は絶望的なまでに高かった。とても敵う相手ではない。それは分かっているが、感情を抑えられなかった。

 戦う力──俺と依呂葉が文字通り命に替えても欲しいそれを持っていながら、何故、こんなことを……

 人類最強・虹化体に対する特効薬とも呼べる亜門さんが、大罪虹化体と通じていただなんて。


「大罪虹化体は代替わりをする。それはお前も知っているだろう。アレが死ねばやがて、別の《嫉妬》が現れる」

「だから破虹師が必要なんだろ。無限に湧く虹化体を、殺し続けるために。……戦いに身を捧げ、命を散らすのが、俺たち破虹師の役目なんだから。それを1番知ってるのはアンタじゃなかったのか」

「その新しい《嫉妬》が私の手に負えるとは限らない。……が、今の《嫉妬》なら対応が可能だ。だから泳がせているだけのこと」


 話している間、亜門さんはどこか上の空だった。視線は鋭く俺を貫いているようでいて、その本心は篭っていないような。

 もっともらしいことを言って、この場を逃れようとしているような……。


「弱きは罪なんじゃないのか。俺は確かに弱いけど、アンタなら、いや、アンタだけは、強い道を生きていると、今の今までそう思っていた。……この件は報告しておきます」


 もう体の傷はおおかた塞がっていた。なんと言っても……俺だって滅されるべき虹化体の1人だからだ。俺は亜門さんに背を向け、破虹軍へと歩みを進める。

 亜門さんより弱く、人間でもない俺に、この件についてどうこう言う権利は本来なら無い。俺が何を言おうとも、亜門さんがいくら大罪虹化体と通じていようとも、その手で守った人間の数は俺とは比べるのもおこがましいほどの差がある。そしてこの世界ではそれが全てだ。

 だからって、依呂葉の近くに大罪虹化体の影が落ちている状況は看過できなかった。


 つまり……依呂葉を守るためには亜門さんも倒さなければいけない、ということになるな。


 頭の冷静な部分がそう囁きかけて来たところで、背後の気配が動く。亜門さんは、音もなく俺の真後ろぴったりにつけていた。


「弱きは罪。それは真実だ。だがそれは……この私自身を戒める言葉でもある」

「……!」

「私は弱い。本当に弱くて仕方がない。友人たちも、その子供でさえも、守りきることが出来ないのだから」


 何を、と振り返ろうとした瞬間、側頭部に衝撃を感じた。殴られたと思う頃には体の自由は効かなくなっていて、冷えたアスファルトへと倒れ込み……


 あれ、なんで俺こんな所にいるんだっけ……


*・*・*


 2100.7.19.

《翌朝》


 医務室の天井を拝むのも3度目だった。


 朝の日差しが窓から入ってきて、この破虹軍では珍しく白を基調とした内装の医務室は、より純白に染まっている。

 起きた瞬間から頭が激痛を発しており、さらにこの目を刺激する景色もあって、何かを考えるのも億劫だ。なぜ俺はここにいるのだろうか……と思っていると、またも見計らったように病室のドアが開いた。

 現れたのは、純白の白衣をたなびかせる世世さんだ。


 あの日──会議の日以来、虹素中毒のために面会謝絶で隔離病棟に入っていたはずだが、何とか調子が戻っているようでほっとした。


「またか? 慧央。お前は何度税金を無駄遣いすれば気が済むのだ」

「こっちが聞きたいんだが……世世さん。アンタこそ体は……」


 そう聞くと、世世さんは一瞬呆けた顔をして、咳払いする。


「……お前に心配される日が来るとはな。ワタシを誰だと思っている? あんなに厳重に……人を遠ざけるように病室に閉じ込めるような指示をしたのは弓手だ。ワタシに死なれるのが余程困るらしいな」

「となると、体は」

「まだ体内の虹素濃度は基準値を上回っているが、これはいつものことだ。病室に機材を持ち込んで仕事自体はしているし……あ、昨晩お前から│通信・・が入った時は焦ったぞ」


 頭の痛みも忘れて、大きくため息をついた。この人は昔からこうだ。命尽きるまで研究室で何かを作っているんだろうなと予感させるような、強烈なまでの信念がある。

 俺しかり依呂葉しかり、命を投げ打ってまで何かをする人間は、それに値するほどの強い願いがある。……はずなのだが、俺は世世さんのそれを全く知らなかった。

 7年一緒に暮らしてきて、その一端さえも掴むことが出来なかったのだ。底知れない人である。


「はあ、あれがあったから間に合ったようなものの、お前、道に倒れてたそうじゃないか。あのまま車にでも轢かれていたら即死は免れなかった。夜勤の破虹師に感謝するんだな」

「ちょ……ちょっと待て。│道に倒れてた《・・・・・・》ってどういうことだよ。俺そんな事した記憶ないんだが……」


 あまりの頭の痛みに流していたが、世世さんはさっきから俺が世世さんに直電しただの、倒れていただの……│訳の分からない《・・・・・・・》ことを言っている。


「お前、昨晩パトロール中に何を見たんだ」

「昨晩? 知らん。家で寝てたんじゃないのか」

「パトロール中にワタシに連絡をした記憶はあるのか?」

「わざわざ世世さんに直電なんかしねえよ」

「じゃあ記憶を辿れ。昨日の行動を全て言ってみろ」


 何で? と思ったが、世世さんのすみれ色の瞳は鋭く、逆らえない。俺は痛む頭を堪え、昨日起きてからの行動をさらうことにした。


「朝起きて、メシ食って、メシ食って、メシ食って」

「なんでメシが3回もあるんだ」

「は? 朝・昼・夜だろ。昨日は│遅番・・だったんだから」

「……そうか」


 そこで気付いた。俺は昨日遅番だったにも関わらず、夕飯を食ったあとの記憶がまったくなかったのだ。


 記憶が、欠落している?


「どうやらまた、お前の海馬が痛めつけられたようだな」

「また、って」

「忘れたわけじゃないだろう。お前は《千葉大災害》の日から数年分、記憶を飛ばしている。その原因はおそらく、目の前で家族が殺されるのを見たショック……心因性のものだろうが……」


 世世さんはしばらく考え込むと、足元の棚から黒いヘルメットを取りだした。俺の顔が条件反射的に歪む。


「それ……」

「ああ。記憶刺激装置・改……名付けて《ペペロンチーノ改》」

「ツッこまないぞ」

「何をだ?」


 不思議そう(彼女は自身の壊滅的なネーミングセンスについて自覚がない)な世世さんをよそに、俺はそのヘルメットとの因縁を思い出していた。

 ──あれは被った人間の海馬に直接刺激を与え、思い出せなくなっている記憶を無理やり引きずり出す……法ギリギリアウトのシロモノだ。

 記憶を失ったばかりの俺はよくあれの餌食になっており、毎回酷い苦痛に襲われたものである。その結果思い出せたものは何もなかったのだから、苦手に思うのも無理はないだろう。


「前は上手くいかなかったが、ペペロンチーノ改はペペロンチーノより改良されている。今度こそ上手くいくはずだ。被れ」


 ずっしりと重いヘルメットを手渡され、ごくりと唾を飲んだ。こんなの使いたくない。使いたくないが、確かに、俺が世世さんに直に通信を入れていたことが事実だとしたら、そうするに至るほど追い詰められていたということだ。それが何なのかは、忘れてはいけなかったもののような気がする。


 俺は息を止めてヘルメットを被ると、途端に耳元でガシャガシャと駆動音が聞こえるのに任せ──意識を深く沈めた。




「どうだ? 目覚めたか?」


 世世さんの声に揺り起こされると、同時にヘルメットが抜き取られ、軽くなった頭がひんやりした空気に触れる。もう夜だ。壁の時計は深夜3時を指している。ほぼ丸一日、このヘルメットに寝かされていたらしい。

 海馬を弄られて酷い不快感に襲われる体を叱咤して、俺は口を開く。


思い出した・・・・・

「何、本当か」

「昨晩……いや、もう一昨日なのか? その日のことも、そして……もう1つ・・・・……」


 俺は拳を握る。

 記憶が消されていた理由も、そして、その他色んなことも、全部分かってしまった。この世界は、どうしようもなく、クソだ。あまりにもクソすぎてむしろ冷静になる。


「慧央、落ち着け」

「世世さん、アンタ……俺が七夕の夜に軍で倒れていた……タイムスリップをしてきた時……俺の戦闘服を取り替えたんだよな?」

「ああ。お前は全身痣だらけで、さすがに痛々しくて見ていられなくてな。戦闘服の損傷も激しかったから、サンプルを取るのに少し手間取った」


 世世さんの言葉に、顔が苦くなるのを抑えられない。

 考えてもみれば、俺がタイムスリップ前……《憤怒》と戦闘した時に負った怪我なんて、胸に穴を空けられたくらいである。全身がボロボロになっていたなんて、それは……おかしい。

 つまり、その日にも俺は記憶を飛ばされていたのだ。記憶を取り戻して初めて気付いた。


「相変わらず、空白の3年のことは思い出せないが……」

「御託はいい。何を思い出したのか教えろ」


「……2つの記憶を取り戻した結果、弓手総帥は……いや、弓手は、滅するべきだと分かった」


 質問に答えた訳ではなかったが、世世さんは暫く俺を見下ろした後に、ニヤリと笑う。


「そうか。奇遇だな。私もあの男は初めて会った日から嫌いだったんだ。……ところで」


 世世さんはカレンダーを指さす。つられてそれに目を向けた俺は、顔を青くした。


「お疲れのところすまないが、多分今日……7月20日は、公開演説会当日だ。そろそろ役員の招集があるんじゃないか」

「やっべ……!」


 ベッドから跳ねるように降りると、武装を確かめ、あっという間に出口に辿り着く。──弓手とか、亜門さんとか、考えるべきことは色々あるが、今の最優先は……環だ。

 世世さんに短く礼を言って、危険なことはするなよという言葉は適当に流し、俺は環を出すために地下牢へと向かう。


*・*・*


 ピシャリと戸が閉まって、その音の余韻が闇に溶けたころ……世世は、先程まで慧央が横たわっていたベッドにばたりと倒れ込んだ。はあはあと荒い息を繰り返し、明らかに「いつものこと」などでは無いくらい体調は芳しくないように見える。

 実の所、世世は仕事こそしていたもののまだベッドから起き上がって動けるような状態ではなかった。だからこそ今日の公開演説会では何の役目も与えられず、病室に缶詰させられる予定なのだから。


「慧央、お前は……ワタシがいなくても、もう……大丈夫なのか?」


 誰かに言われた言葉を呟き、世世は力なく笑う。


「体はもう限界だな。だがワタシは……慧央が生きている限り、ずっと隣に居てやらないといけない。こんなところで死んでたまるか……」


 世世は手持ちの蜺素顆粒を一気に飲み込むと、それでも緩慢な動作で自身の病室へと帰る支度を始めた。……本当なら今日だって近くにいないといけなかったのだがな、と呟く。

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