蠢く者たち
2100.7.17.
《同日》
東京のどこかにある薄暗い地下室で、2人の男女が向かい合っている。と言っても、男の方は檻の中で身体中に枷をはめられており、女にしては長身な会話相手に見下ろされるがままになっている。
埃が積もっていくような静寂を、妙に艶かしい雰囲気を漂わせる女が破った。
「ねえ、アンタ……いつまでそうして腐ってる気なの?」
「……るっせぇなクソアマ! 分かってんだろが!」
たった一言で、男はまるで親の仇にでも会ったかのように沸き立ち、自らを縛る枷を軋ませる。人を殺さんばかりに尖った目を女に突き刺すが、当の女は余裕の微笑みを崩さない。男の手首や足首は痛々しく黒ずんでおり、もう長いことこうして捕らえられているということは容易に想像がつく。女はもう何年もこうして男をおちょくり続けているのだった。
「
ウェーブを描く金髪を揺らし、女はしゃがみこむ。男に目線を合わせて、愉悦の笑みをまざまざと見せつけるためだろう。……男を屈服させることを何よりの喜びとする女は、今まさにこの瞬間、最高の法悦を味わっている。
怒田と呼ばれた男もそれは分かっている。自分たちは「そういう存在」なのだから。自らの欲が満たされるためなら何でもするし、それさえ満たされれば、命だって惜しくない。
「ねえ、助けて欲しい?」
ほとんど息だけの言葉が、怒田の鼓膜を震わせた。女の艶かしい唇がぴくぴくと震え、堪えきれないという様子で高らかな哄笑を上げる。
「アタシなら、アンタを縛ってる
女が取り出したのは1枚のビラだ。同日の昼間、慧央たちが会場ミーティングを行っていた──公開演説会を宣伝するものである。会場の変更は内密に行われているので、記されている場所は以前のものとなっているが。
「……それが何だってんだ」
「分かんない? フフ、やっぱり《憤怒》の虹化体だけあって単細胞なのね、アンタ」
「男なら見境のない《色欲》には言われたくねェよ。……で、何だ? この7年間
女はそれには答えず、ビラの中央を指さした。ちょうど、笑顔の環の写真がレイアウトされている部分だ。
「これ、気にならない? 地下から出てきた
「…………同性を石ころって呼ぶお前の性格がやべえことしか分からねェな」
「石ころは石ころでしょう? 気になるのはこれよ! これ。この
映っている環は、確かに首飾りをしていた。白い石のようなものに紐を通しただけの、簡素な作りのネックレスだ。
普段は服の下に隠しているようで慧央たちの目に触れる機会は少なかったのだが、実は環が唯一、地下から持ち出してきたものになる。
──7年間練り上げ、《地下街の悪夢》のきっかけにもなった虹晶は置いてきたのに、これだけは持ち出してきて、なおかつ現在進行形で隠しているのだ。
とはいえ普通の人間にはただの地味なネックレスにしか見えないそれを、女は「気になる」と言った。それに従うように、憤怒も片眉を上げる。
「……確かにこれは……とんでもねぇシロモノだな。写真なのにえげつねぇ怨念を感じる。これがあればルティも……」
「でしょう? こんなにいい負感情の塊、なかなかお目にかかれないわぁ。……アタシ、これ取ってきてあげるわ。この
憤怒は嫌そうな顔をした。よほど色欲に借りを作るのが嫌なのだろう。だがしかし、憤怒もまた大罪虹化体の1人である。このまま永遠に色欲にしてやられるくらいならば、さっさとこの檻を抜けるほうがいい……
しばらく視線をさまよわせたあと、「さっさとしろや」と言う情けない姿に、色欲は再び笑い声を上げた。
──慧央と依呂葉の戦う理由となった《千葉大災害》から10年の時を経て、大罪虹化体が再び動き出したのだ。
*・*・*
《色欲》の虹化体──ロルリラは夜の街をブラついていた。憤怒との約束を果たすため……では断じてなく、これは彼女の日課である。色欲の虹化体たる彼女の趣味は、そのまんま男を漁ることなのだ。
通常、虹化体は憎悪や破壊衝動といったかなり原始的な負感情を元に行動する。したがって行うことといえば目につくものを喰らい、壊すという単純なものに限られるため、破虹師による討伐が可能となっているのだ。
しかし、大罪虹化体の根幹をなす感情はそれと比べると複雑である。色欲の虹化体の欲を満たすためには、必ずしも破壊活動は必要ない。だからこそ彼らはこの10年間、世間から身を隠すことができたとも言えるが……実際のところは、10年間大罪虹化体による被害がなかったのではなく、10年間、大罪虹化体による破壊活動がなかったというだけだ。
彼らはこうして人の姿を取り、人間社会に紛れ込みながら、各々の欲を満たし続けている。
今日は土曜日である。ロルリラにとっても
(怒田との約束はあるけど……それはそれ、これはこれよね。第一もう日時と場所は分かってるし、てか実際果たす義理もないし。怒田を縛ってるあの枷は、近いうちに取れちゃうもの。あんなのアタシじゃなくても分かるのに、それでもアタシに頭下げるなんて……怒田はホントに馬鹿! 最高の絵面だったわ)
心中で先程のやり取りを思い出しほくそ笑んでいたロルリラは、突然足を止めた。視線の先では、ラフな格好をした2人組がフラフラと歩いている。随分と酔っているようだが、ロルリラが気にしたのはそこではない。
「破虹師……?」
鼻をスンと鳴らす。2人組からは微かに蜺素の匂いが漂っていたのである。蜺素……虹化体を唯一害することの出来る物質であり、虹化体であるロルリラが最も恐れ嫌うものだ。その
「おかしいわね。ここ、東京本部からも千葉支部からも離れてるから、普段この時間帯に破虹師は居ないはずなのに……」
ロルリラも馬鹿ではない。破虹師の前に身を晒すことは、そのまま自分が捕捉されるリスクを高めることになる。……勿論、ロルリラは破虹師ごときに負けるつもりはさらさらないものの、無用な危険を冒して男漁りが出来なくなるのは避けたいのだ。だからこうして、足を運ぶ駅はなるべく破虹師の目につかない場所を選んでいた。
異変に眉をひそめつつ観察していると、2人組は手を大きく挙げ、片方は駅に、もう片方はタクシーを使うつもりなのか停留場へと別れる。
そう思った時には、ロルリラの体はふわりと動いていた。
「ねえ、お兄さん……いえ、ダーリン♥」
タクシーを止まらせようと手を上げた男の前に、するりと割り込む。日本人離れしたプロポーションと、深い海のような青い瞳は、深夜の闇にもよく映えた。突然のことに動揺し動けなくなる男にその完璧な肢体を密着させると、ぱちこん! と大袈裟にウインクする。
「な、なんだお前!」
「アタシと」
ゆるゆると伏し目がちに開かれた瞳は、血のように赤く染まっていて──
「──遊んでくださる?」
その言葉に男が返答することはなかった。
なぜなら、ロルリラの赤い瞳と視線を合わせてしまった男は──流れる血の一滴に至るまで、凍りついたように動きを止めてしまうからである。
途端に重みを増した男をしっかりと抱え上げると、ロルリラは顔を上気させ、妖しく微笑んだ。
「ウフフ……今夜の獲物はちょっと、刺激的ね」
色欲の虹化体は、目を合わせた
*・*・*
「ふぅ〜〜ん?」
「もう……もうっ、いいだろ……! この化け物! 二度と近付くな!」
そこからほど近くのホテルのある一室のドアが、勢いよく閉められた。衣服の散乱した室内の最奥部、大きなベッドの上で、ロルリラがつまらなそうに口を尖らせている。男を散々食らった結果逃げられてしまい、大きな部屋に1人残されてしまったのだ。
「ほんと破虹師って脳みそまで筋肉つまってるのかしら? 大変よねぇ……アタシたちにはかないっこなんかないのに……でも……」
いいこと聞いちゃったわ♪ と紙をつまみ上げる。──それは、本日行われた公開演説会会場ミーティングの際に用いられた資料であった。
ロルリラがたまたま足を伸ばしたこの場所は奇しくも変更先の会場からほど近い場所であり、酔っ払っていた破虹師2人組はその出席者だったのである。
「場所をナイショで変えるとか……一体人間たちが何を考えてるかは知らないけど、何かあるのね。危ない! あのままだったら違う会場にたどり着いてたわ」
大袈裟にリップ音を立てて書類にキスをすると、ロルリラは目を細めて笑う。
「っていうか、んー……興味、出てきちゃった♥」
*・*・*
2100.7.18.
《翌日》
俺は不貞腐れながら夜道を歩いていた。今日のシフトが遅番かつパトロールだったためだ。昨日会場ミーティングであれだけの大役をこなし疲れ果てていたところに、この仕打ち。しかも今日は日曜日。破虹軍に情という言葉がないのがよーく分かった。
自慢ではないが俺は虹化体を察知する能力だけは高い。正確に言うと虹化体が湧きそうな負感情を察知しているのだが、……今夜はこれ以上ないくらいに空気が澄みきっているのが分かる。
こんな夜に虹化体が出るなんて、万に一つもありえない。のに、俺は今、わざわざ睡眠時間を割いて働かされているのだ。機嫌が悪くても許していただきたいと思う。
(まあ確かにちょっと……空気が綺麗すぎて怖いってのはあるが……それに越したことはないしな……)
少し郊外とはいえ、この辺りにだって人間は住んでいる。人がいる以上、何かしらの意思や感情の痕跡を消すことは出来ない。その中に負の感情が全く含まれていないなんて、そっちの方が不自然というものだ。
考えようによっては、夜に散歩しているだけで給料が入るということなのだから、文句を言える立場にはないのかもしれないがな。
しばらく歩いていると、端末に着信が入った。相手は山田さんだ。仕事中だけど、いいか……とそれに応じてみると、声の様子が明らかにおかしい。
『慧央くぅーん! 今何してるのぉ〜……』
「山田さん、アンタもまだ未成年でしょ……誰に飲まされたんですか?」
『んー、外にいるの? そっか、今日遅番なのかぁ〜……今日さあ、ヒック……マホナミ10期の再放送があってぇ〜……』
あ、これ酒じゃないなと思った時にはもう遅く、山田さんは泣きながらマホナミ……《魔法少女ナミナミナミナ》というアニメの
『やっぱさぁ、僕……ナミナのことが好きなんだ……あんなに小さく可憐なのに、でっかい敵にも怯まず立ち向かって……最後には必殺技の《リグリング・シャドウ・バスター》で全てを闇に葬る……本当に凄いんだよ……』
闇に葬るのが正義の味方なのか? とは思うが、グズる山田さんはそんなこと毛ほども気にしていないらしい。
『だけどさ、それが……でっかくなっちゃったら……意味ないじゃん! 10期ってことはナミナは16歳だよ! そんな子が敵と戦っててもそんなの……そんなの……ワクワクしないんだよ……』
「その話は何度も聞きました! ……山田さんがロリコンなのはよく分かりましたから、なら昔のシリーズだけを見るようにしたらいいじゃないですか」
『そんなの僕がナミナにキャラ萌えしてるみたいじゃないか〜〜〜!! 僕はマホナミのストーリーが好きなんだよー!!』
よく言う、と言いそうになるのを堪え、俺は相槌を返した。こうなった山田さんは、ひとしきり喚いてスッキリするまで何をしてもグズりをやめてくれないのだ。
『ナミナは僕の希望なんだ……現実に屈した人間をかっとばすように、爽快な夢を与えてくれる……その為にはロリの肉体が必要なんだよ慧央くんっ! 16歳の女の子が戦ってるなんてそんなのただ可哀想なだけじゃないか!』
「分かりました。俺もそう思います」
『だよね?! はぁ……うっ……もうダメだ耐えられないっっ僕は4期を見るよ。精神を回復させないと』
ガチャ、といきなり通話が切れた。大きなため息をつく。山田さんは普段は大人しいし思慮深くもあるのだが、どうもタガが外れると感情のコントロールが出来なくなるきらいがあるな。
当たりを見回してみると、もう俺の担当する区域のかなり外れの方まで来ていた。山田さんとの通話に相当気を取られていたらしい。引き返すか……と回れ右をした所で、嫌な雰囲気が鼻をかすめる。
「これは……虹化体の……」
気付けば辺りには急速に悪い空気が渦巻き始め、蜺刃を展開するころにはもう濃密な“気配”に押しつぶされそうになっていた。
「こんな……急すぎる! しかも、強い……」
通常虹化体は、自然に生まれた虹素と負感情の濃淡によって生まれるものだ。こんなにも急に形を成すなんてありえない。まるで「自発的に虹化体がこの場所を選んだ」みたいじゃないか……
ハッとした。
俺にはこの現象に覚えがある。タイムスリップをしたあの日だ。あの日、憤怒の虹化体はなんの前触れもなくその場に現れた──
(嘘だよな? 今日大罪虹化体が街に現れるなんて、一周前にはなかったんだから。でも……)
ピキッ、とガラスが弾けるような音が聞こえ、空間に裂け目が入る。そこから真っ黒のヘドロが湧き出し、ボタボタと血のように滴りながら、少しずつその姿を形成していく。
俺は声もなく駆け出していた。これはヤバい。俺一人でやれるかなんて考えている余裕もない。じっとしていたら食い潰されると──己の本能が体をつき動かした。
「──死っ、」
核を潰すしかない。俺は黒腕まで解放しながら、着々と出来上がっていく虹化体の体を切り裂き、引きちぎる。ドチャドチャと生々しい音を立てながらゲル状の体はもげるが、それ以上の速度で再生していき、ここまで細切れに刻んでも核にはかすりもしない。
ヘドロ状の虹素はやがて、血色に裂ける口と2つの穴ぼこのような目を成し、ぴちょんと最後の一滴がその頭頂部に降り注いだかと思うと──頭から生える2本の触手のようなものを、大きく薙ぐ。
「──がっ、〜〜〜〜っ!!」
それは腹部に衝突した、らしい。
余りの衝撃に意識が明滅し、気づけば体は宙に浮いていた。全身がバラバラになるほどの衝撃が全細胞を焼く。それでも吸収しきれなかった暴力が、俺を為す術もなく跳ね回る肉塊へと変えた。
「がはっ! ……ぐ」
幾度となく空を蹴り、地面を見上げるような前後不覚の時間は、背中からブロック塀に激突したことで唐突に終わりを迎える。ブレる視界で敵の姿を捉えた。
「……! あれ、は」
俺の見間違いではなかった。もうすっかり全身を再生した虹化体の頭部には──2本の、触手のような腕が生えている。つまり4本腕の虹化体ということだ。
先日依呂葉に聞いた話が蘇る。
──あれは、《嫉妬》の虹化体だ……!
「クソ……っ クソ!」
俺は今何をされた? 動かない四肢に苛つきながら考える。《嫉妬》は、足元でウロチョロしていた俺を、ただ腕の1本で薙ぎ払っただけだ。情けなくも俺はそれで地を這い、……全身をズタボロにされて動けなくなっている。息をするだけで体が軋み、咳込めば血を吐く。……何だ、このザマは。
俺は自らへの怒りに燃える心を落ち着かせ、端末を手に取った。これを放置していたら、10年前の《千葉大災害》を再現してしまう。でも、こんなの、誰が相手すればいいんだ……!
緩慢な動作で緊急コールを行うと、すぐに世世さんが答えた。
『慧央、どうした。パトロール中だろう』
「……」
『慧央?』
「……出たんだ」
『出た?! ……何が出たんだ』
嫉妬の虹化体が。
と言葉にする寸前、俺の体を大きすぎるプレッシャーが潰した。弾みで端末は手を抜け、離れた場所まで転がってしまう。終わり、の3文字が脳をかすめると同時に、俺の耳は1つの足音を捉えた。
「……全く、信じ難い」
硬質なブーツを履いているらしく、その人物はガシャリガシャリと軋むような音を立てて歩いてくる。もうここまでしっかりと虹化体としての形がある《嫉妬》に対してならば、俺でなくてもそこに居ると分かるはずなのに、……人物は怯えも焦りもせず、悠々と、それが当然であるかのように歩みを止めない。
その度に増す重圧の中で、俺はあるひとつの解を見つけ出す。
(まさか、コイツは……)
トッ、と一層近付いてきた足音が最後にひとつ鳴り、とうとう人物は顔の見える位置で止まった。
浅黒く磨きあげられた肉体。鋭利な印象を与える短髪と、猛禽類のような金の眼。右目を貫く裂傷は本人の強さを曇らせるどころか、戦いへの執念を強める装備にしかなっていない。
「相友兄。やはり、貴様は弱い。……戦う権利など初めからないのだ……」
──人類最強・
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