こころの奥

前書き

第3章1話「幕開け」の前に、3章プロローグを挿入させていただきました。読まなくても本編上不都合はありませんが、良ければお楽しみください。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 2100.7.14.

《同日》


「こころちゃーん!!」


 夕刻。今日の仕事を終えた破虹師たちでごった返す破虹軍ロビーに、依呂葉が現れた。傍らには困った顔で腕を掴まれるアギトもいる。周りの破虹師たちをものともしない大声に、その大半が依呂葉のファンクラブ会員である野郎どもは……自然と、嫌らしさを感じさせない動きで道を開けた。

 それを正面から見ていたこころは、今日もすごいなあとため息をこぼす。本当に花道が似合う少女だ。……自分とは違って。


「依呂葉さん、お疲れ様です」


 浮かんできた暗い考えを振り払い、こころは笑顔を作った。窓口までやってきた依呂葉はそれにえへへと微笑み返すと、虹化体の討伐書類を差し出す。その数4体。依呂葉たちがファミレスで食事をした後、また討伐数を稼いだというところか。


「わ、今日はオフだったんじゃないんですか?」

「まあね〜お兄ちゃんとちょっと街に出てたの。そしたら居たから……」

「そんな散歩のついでみたいに……」


 依呂葉とこころは、男所帯の破虹軍には珍しい同年代・同性の友人である。互いの休日が合えば一緒に食事に出かけたりすることもあり、唯一……依呂葉にとっても、こころにとっても、戦いを知らぬ少女のような一時を過ごせる相手同士なのであった。

 しかし、ここは現実だ。2人の前には仕事という壁が立ちはだかっている。一瞬は仕事を忘れたやり取りを交わすものの、こころの目はすみやかに冷静さを取り戻し、依呂葉の隣にいる少年を捉えた。


「で、お隣は噛原かみはらさんですか?」

「ん? アギトくんの苗字、噛原っていうの? ていうか知り合い?」

「そうです……は、恥ずかしいことに、僕、もう何度か行き倒れて軍の人達に介抱されてて……」


 依呂葉は唖然とし、こころは苦笑いをした。

 この街には何人か……変わった・・・・人間がおり、定期的に腹を空かせて倒れているアギトもその1人とされている。

 依呂葉は今回初めてアギトを連れ帰ってきたが、アギトが倒れて軍にやって来る度にその処理を行っているこころにとって、もうアギトの来訪は慣れたものなのだ。手元にある「来訪者名簿」にアギトの名前とその理由を記し、ふうとため息をつく。


「……はい、これでいいでしょう。アギトさん、そんなに毎度毎度、倒れるまでお腹を空かせるのはやめたらどうでしょう。ご家族も心配していらっしゃるでしょうし……」

「うう、すみません……どうにもお腹が減ってしまって……じゃあ、僕はこれで失礼します。依呂葉さん、ご、ご飯ありがとうございました!」


 大袈裟にお辞儀をした後に、アギトは回れ右して軍を後にした。まるで小動物のような挙動だが、胃袋は怪物級……なんともちぐはぐな少年だ。

 討伐証明の対応と、アギトという珍客。それをなんとかこなしたこころは自分の気が抜けるのを感じ、同時にひとつ大きな欠伸を噛み殺す。しまった、と思う頃には、依呂葉はそれに目ざとく気付いていた。


「ん、こころちゃん寝不足?」

「あ……は、はい。最近業務が忙しくて」

「ふうん? ……最近、受付にいつもこころちゃんがいる気がするけど、そんなに人手が足りてなかったりするの?」


 依呂葉さんは鋭いな、とこころは呻く。自分のことを他人に知られるのは、あまりこころの得意とするところではない。

 依呂葉は人の心を掴むのがうまい。彼女が軍で熱狂的人気を誇っているのは、容姿端麗であるという理由のほかに、誰に対しても壁を作らず、心に手を差し伸べることが出来るという点が大きいのである。


 しかし、こころの事情は……依呂葉が相手とはいえど、軽々しく口にしていいものではなかった。

 遠慮がちな彼女は顔を覗き込んでくる依呂葉を直接拒否することも出来ず、かといって……先日慧央と会話をした時のように、根負けして話すことも、今回ばかりはできない。

 何も出来ないで黙ってしまったこころに、依呂葉はふわりと笑いかけた。


「……まあ、言いたくないこともあるよね。でも私たち、友達だからね! こころちゃんに悩みがあるなら、力になってあげたいんだよ。……それまで待ってるから」

「ごめん、なさい……」

「またすぐ謝る! ……じゃ、私はもう行くね! また明日〜」


 またも手を振って離れていく依呂葉を見送って、こころは今度こそ一息つく。手元の時計を見れば、既にシフト交代の時間を過ぎていた。これは疲れるわけだ、と思いながら、端末の電源──せめてもの現実逃避・・・・・・・・・として、窓口に立っている間は切ることにしている──を入れると、こころは顔をゆがめた。


「不在着信が、こんなに……」


 こころを事務課の職員としてではない・・・・用事で呼び立てる着信だ。数分前から鬼のような勢いで同じ番号から5件かかって来ており、いずれもこころの応答がないのを確認すると切れている。これは相当だと思いつつ、こころはシフト通りに窓口を後にした。あくまでも、周囲の人間に異変を悟られないように……


*・*・*


「失礼します……課長」


 こころは事務課の最奥部、課長室に足を踏み入れていた。端末にかかってきていた番号はここの固定電話のものだと分かっている。……もうここ最近は毎日のことだからだ。

 ノックも返事も待たなかった彼女は、絶えず耳に入る殴打音に眉をひそめ、足元に散らばる紙くずを踏まぬように課長室を進む。元は課長の承認を待っていただろう重要書類たちだ。それが正しく処理されなくなったのはいつからだろうか。……いつからか、課長の代わりにこころが書類に判を押すようになっていた。


「課長、起きておられますか。……ダメか」


 ようやく辿り着いたデスクで、こころはそう声をかける。紙束はすでに床にぶちまけられ、デスクに残っているのは僅かなゴミと、大量のペットボトルのみだ。いずれもかつては水が入っていたものだが、ずさんな扱いによりベコベコに凹んでいる。

 しかしこころはその異様な惨状には関心すら向けていなかった。彼女がその瞳で見つめるのは、デスクの中央でうつ伏せ、細かく震えている──何か。


 元は深い海の色を宿していたのだろう長髪は、長らく風呂にも入っていないのか脂でぎとぎとと光っていて、虫すら集っている。まともな食事を取っていないない四肢は痩せこけ、骨が浮き、皮膚は黄ばんで乾燥していた。そこに鋼鉄の拘束具が痛々しくくい込み、滲んだ血は乾燥して赤茶けている。

 彼女……と言っていいのかも怪しいこの人間は、間違いなく、かつてはこころも尊敬していた事務課長そのものであった。先日行われた公開演説会実行委員会の会議に彼女は欠席したが、それは病欠などではなく──この惨状で、人前に出られるわけもなかったからという理由だったのだ。

 こころは漂う悪臭に嘔吐きそうになるのを堪えて、また一歩踏み出す。


「課長、副課長から何度も着信が入っていました。どうされました? もうが切れてしまいましたか」

「……ぃあ゛ぅ!!」


 課長は呻いて顔を上げ、黄ばんだ口から唾を飛ばして叫ぶ。目は血走り、今にもこころに掴みかからんとする様子だが、腕は拘束具にてデスクに括り付けられている。歯をガチガチと鳴らすだけで、それ以上こころへ近づくことは出来ない。

 こころは恐怖に跳ねる心臓を抑えて、懐から注射器を取り出した。これは弓手総帥に直接手配してもらった代物で、強力な鎮静作用があるというが……


「……少し、我慢してくださいね」

「っあ゛ぁっ!」


 それを一気に打ち込むと、獣のような体は大きくビクンと跳ねて、ぐったりと倒れ込んだ。荒い息を1分ほど繰り返した後、ゆっくりと顔を上げる。

 その目には確かに、薄ぼんやりながらも理性が戻っていた。おや、とこころは思う。いつもより、意識が鮮明そうだったからだ。


「はァ……あや、ま」

「はい。おはようございます、課長。今日はお元気そうですね」

「また、私は……こんな、姿を……」


 動かせない腕をガタガタと蠢かせ、課長は深いため息をつく。そんな姿を見ていられなくて、こころは目を逸らした。


「もう、分かっているのだろう、綾間」

「何が、ですか」

「……っ、逃げるんだ。ここから。……破虹軍から! あの男と関わっては、いけない。大体、この注射器の中身だって、鎮静剤などではなく──」


 課長が何かを口にしようとした瞬間、プス、という軽い音が響いた。課長の喉から割れるような悲鳴が響き、ごぽりと血を吐き出す。


「え──?!」

「は……お見通し、と……言うわけか」


 それきり課長の体は弛緩し、倒れ──二度と、動くことはなかった。


「か、ちょう……? そんな……そんな」


 こころの顔が恐怖に染まる。人が死ぬ時の顔は、もう見慣れていた。死んだ破虹師や運悪く体を残して虹化体に殺されてしまった市民の身柄の確認は、事務課の仕事である。……そして、それ以外の場所でも、こころの周りでは、これまでに多くの人間が死んできた。

 だから否応なしに分かってしまうのだ。課長はもう、生きていない。そして何者かに殺されたということが。その犯人とはつまり──


 こころの四肢は震え、がくりと床に膝を着く。両腕で全身を抱き、恐怖を鎮めるために意味の無い呻きを繰り返した。


「課長、ごめんなさい。私は……逃げるわけにはいきません。私には、やることがあるから……むしろこれは、チャンス。そう、チャンスだから。……そうだ、早くお父さんに、報告をしないと。定期報告を、待っていられない……」


*・*・*


 床にくずおれ震える少女をモニター越しに確認するの、男はその電源を切った。事務課の課長室には、男の手による監視カメラが仕掛けられていたのだ。手に持っていたスイッチからはもう興味を失ったようで、ポイと床に投げ捨ててしまう。先程これを使い、男は事務課長を毒殺した。

 人を1人殺めたというのに、男の顔に変化はない。楽しげにアリを潰す幼子の方がまだ可愛げがある。この男にとっては、人の命など部屋の隅にたまるホコリよりも興味をそそられぬ存在なのだ。男は椅子からゆるりと立ち上がると、光源に乏しい部屋をゆっくりと歩き出す。


「あの女……事務課長はもうダメだとは思ってたけど、あそこにはあの子がいた。ぼくのプランでは副課長を巻き添え・・・・にするのが理想だったけれど、……これは予想外の収穫かもしれないね。手間が省けた。一石二鳥じゃないか。ねえ、きみもそう思うかい」


 男が立ち止まったのは、ぼうっと光を放つひとつの大きな水槽の前である。中に収められているのは、白く穢れなき──少女の体。瞼は緩く閉じられ、10年間伸ばされ続けた黒髪は長く水の中をたゆたっている。

 厚いガラスの壁に手を触れさせ、男はいつもの様に頭に乗せたサングラスを下ろす。


 破虹軍のどこか。

 地図には記されていないこの部屋で眠る少女と見つめ合うこの男は、破虹軍総帥・弓手嚆矢ゆんでこうしその人であった。

 その顔には、普段の作られた・・・・ものとはうって変わり、柔らかく少年めいた微笑みが浮かんでいる。


 間違いなくこの部屋こそが、総帥たる彼の誰にも触れさせることの無い聖域なのであった。


 ひとしきり少女を鑑賞した後、弓手はサングラスを戻して我に返る。……少女が目覚めることはないというのは、天恵を使わずとも・・・・・・・・分かっていたからだ。まずはやることをやらなくてはならない。手元の端末に目を落とすと、数日後に行われる大きな会議の予定が細かく記された資料が映し出されているのを確認する。

 ──公開演説会会場ミーティング。

 環を破虹軍の総力をあげて討伐するための、作戦会議だ。


「……確か、面白い人達も来るって言ってたかな。ほんと、きみは何度ぼくの計画を乱してくれたら気が済むんだい……?」

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