幕開け


 2100.7.11

《大掃除・翌日》


 亜門は激怒した。必ず、奴にこの事を問いたださねばならぬと決意した。……身に纏う戦闘服が怒気に揺らめき、口はすっと引き結ばれていながらも、左目は人を刺すがごとき黄金の光にぎらつく。握りしめる新聞は、もう半ばからちぎれてしまいそうだった。

 罵詈雑言を喚き立てているわけではない。周りの人間に手を上げている訳でもない。それでも亜門の行く手からは人が自然と引き、仕事始めの朝に似つかわしくない静けさが周囲に満ちている。


 コツコツと床を叩くソールの音は、とある大きな扉の前で止まった。「総帥室」と書かれたプレートの、あえてその上からノックする。


「失礼します、総帥。……亜門です」


 厳かな声は真夏の空気にもよく響いた。中に居るであろう弓手は数秒の間を取った後、「歓迎するよ」と言った。


*・*・*


 総帥室の内部は、実の所驚くほど簡素なものだった。見るからに高そうな家具や装飾というのはほとんどない。さすがによく見てみればその作りの良さというものは分かるが、日本を取りまとめる治安組織の長の部屋としては、恐らく誰もが驚くほどの「普通」さだと言えよう。

 ただ、その中央のデスクに佇む男は、全くもって普通ではない。知性を滲ませる緑色の瞳を、ただ真っ直ぐ亜門に向けている。


「随分険しい顔をしているけど、どうしたの?」

「総帥。この紙面の内容に……嘘はありませんか」


 亜門は握りしめていた新聞を広げた。今朝配られていた号外だった。環と慧央の話が大きく示されている。弓手はそれを見て、ゆっくりと頷く。


「もちろん。慧央くんは十分すぎるほどその能力と忠誠心を示した。だから──」

「私に断りもなく、ですか。北斗七星筆頭の私に何一つ断りなく、相友兄を北斗七星に加えると……このような決断をなされたのですか」


「そうだよ」


 にこやかな弓手の言葉に、亜門からは重い圧が迸る。飾られている観葉植物の葉は擦れ、窓はぐらぐらと揺れ、弓手が手に取ったブラックコーヒーの液面も激しく波たった。

 そしてそれを、一気に飲み下す。


「亜門くんなら分かってくれると思っていたよ」

「何を……総帥、北斗七星関連の規則が改定されたことはご存知でしょうか。いえ、総帥御自身がこれを」

「だから何だと言うのかな。亜門くん。きみの強い意志というのは、破虹師の先輩として大変尊敬しているのだけど……」


 弓手はカップを机に下ろすと、席を立った。デスクの前で直立不動の体勢を取る赤い男の眼前に立つと、15センチは上にあるその顔を見上げる。


「きみの『弱きは罪だ』という主義には賛同しかねるよ。大方、慧央くんはまだ弱いから認めない……とでも思っているんだろうけど」

「ええ、そうです。あのような者が我々と肩を並べて戦う……そんなこと、有り得ない。山田の件だって私は反対していました」

「ならきみは自分が強いとでも言うつもりかい?」


 亜門は言葉に詰まった。弓手の瞳がきらめく。白く長い指が、机に立てられた「総帥」というプレートを、ゆっくりと叩いた。


「…………っ」


 それを見て、亜門は拳を強く握りしめる。歴戦の証か浅黒くなった肌は白く白く血が抜けて、やがてぶつりと皮膚まで裂けた。ボタボタと床に赤いシミが生まれるのを、お互い気にも止めない。


「……いえ、そのような、ことは」

「そう。亜門くん。きみは『弱きは罪だ』と言って若い子たちをいじめているようだけど、それは傲慢というものだよ。きみはただ、人より少しだけ、ものを壊すのが得意なだけ」


 弓手の声は魔性だ、と亜門は思う。暗くつややかで、鼓膜をすり抜けてくるように頭を犯す。しかし、それでいて、外からも雁字搦めに縛られてしまうような見えない重さというものがあった。

 亜門がほんの少し腕を振るだけで、弓手の脆い肉体は崩れてしまうだろう。素手で岩をも砕く亜門にとっては、人の肉は雲よりも柔い。

 ただ、今の亜門には……それは出来ない。


「暴力で人は救えない。この言葉……ぼくは人生の標語にしたいとすら思っているんだ。敬愛する前総帥・・・諸星水龍もろほしすいりゅうの言葉さ。きみはよく知っているよね」

「……」

「亜門くん、頭を冷やした方がいいね。あとその手の治療も。きみの行動は、ぼくからするとただの醜い嫉妬にしか見えないよ。何かが・・・上手くいかなくてむしゃくしゃしているのは、きみだけだ……」


 口を閉ざした亜門に、弓手はふわりと笑いかけた。身を翻すと、デスクに戻る。


「返事は?」

「……はい」

「うん、いいね。話はそれだけ? なら、もうそろそろ始業だから、今日も頑張っていこうね。君の鬼神のごとき強さにはいつも助けられているから、……今日の抗議も、なかったことにしてあげるよ」


 バタンと総帥室を締め出された亜門は、耳の奥でざあざあと何かが唸るのを感じていた。清々しいはずの朝の日差しは、今の心には少しばかり白すぎる。

 血まみれになった手のひらを見つめて、細く息を吐いた。


「弓手……嚆矢。私は貴様を認めない。貴様を……諸星を殺した・・・・・・、貴様を、認めるわけにはいかないのだ」


*・*・*


 2100.7.12.

《翌日》


「おはようございます、山田さん」


 地下の爆発事件から2日。俺が目覚めてからは1日。怪我も衰弱も綺麗に治ってしまった俺は、日常に帰ってきていた。始業まであと1時間はあるが、俺はもう戦闘服に着替えている。大きな欠伸をする山田さんを背に、せっせとフライパンを振るっていた。今朝はチャーハンを作っている。


「慧央くん、もう着替えちゃったの?」

「まあ。朝飯の後片付けとかもしなきゃならないんで早すぎるということはないと思いますけど」

「とか言って。北斗七星になったからって張り切ってるのは僕にはバレバレだよ」

「なっ」


 図星を突かれて、手首のスナップが狂った。フライパンの面ががくんと跳ね上がる。卵の絡んだ米は華麗に宙を舞い、慌てて回収に向かったものの──


「……あちゃ〜……」


 パラパラになりかけ、つまりまだベチョベチョしている米たちは、全て床に落ちてしまった。もったいない。非常にもったいないが、さすがにこれを食べる気にはならない。


「食堂でいいすか」

「もちろんいいよ、こっちこそなんかごめんね?」


 朝の食堂はそれなりに混んでいる。山田さんが着替えるのを待って食堂に向かい、さらに席を確保するまでには20分ほどもかかってしまった。うどんをズルズルとすすりながら、山田さんが話しかけてくる。


「ねえ、昨日の号外見たよ。なんで北斗七星なんかになっちゃったんだい?」

「それは……」

「慧央くん、地下に降りるちょっと前から、『北斗七星になりたい』って思ってたよね。僕はやめておいた方がいいと思うよ。北斗七星になって良かったことなんて、僕にとってはひとつくらいしかないんだから」


 一旦食べる手を止め、山田さんを見た。


「まあ……慧央くんの望みが叶ってるところを見ると……地下探索は慧央くんの目的のためになったってことかい? それが亜門さんには出来なくて、慧央くんだけに出来たこと……? なんか、爆発があったらしいって聞いたんだけど」

「い、一度にいくつも質問しないでください……それに、山田さんなら聞かなくても分かるでしょう」


 俺の頭は3つの質問に同時に答えられるほど優れてはいない。だが、俺の言葉に山田さんは首を傾げるばかりだ。


「そのはずなんだけどね。僕の天恵は《均衡》──平たく言うと、周りの人の空気を読んで馴染む力だ。だから僕は影が薄いし、自動ドアにも2分の1の確率で弾かれてしまう……」

「そして、空気が読めるゆえに、人の考えも手に取るようにわかってしまう……と」

「うん。でもね、前も言ったかもしれないんだけど、何故か慧央くんの考えだけは……ちょっと読みにくいんだ。というか、昨日からは特にそうかも……」


 山田さんの目が俺を捉える。奥の奥まで見透かしてくるように、どこか焦点の合っていない目で。異様な雰囲気にごくりと唾を飲み込むが、山田さんは何も言うことなく目をつぶった。


「……ま、こんな力、ない方がいいんだ。僕はこの人の心を暴く力を弓手総帥に見出されて、北斗七星になったんだけど……もっぱら刑事課に協力して尋問をやらされてるんだ。怪しいやつから自供を得るためにね。気が滅入るよ〜……」

「うちに刑事課なんてあったんすね」

「そこに反応するの? あるよ。窓際部署って言われているけど。だって軍は自衛隊と警察が統合されてできた組織だもの。──今、環さんの身柄はそこにあるし」


 環。その名を聞くと、否が応でも心拍数が上がる。

 俺が地下街から連れ出してきた、テロリストのことだ。まだ地上に来てからは1度も顔を合わせていない。……だが、そうだ……7年前に消えたはずの地下民の生き残り。そんな怪しい・・・奴に聴取を行わないわけがないし、


「ん? 慧央くんなんか動揺してるね。そんなに地下で怖いことがあったのかい?」


 ……それを、山田さんが行っているかもしれなかったのだ。

 山田さんにはウソがバレる。環が……多少事実をねじ曲げて喋っていることはもしかしたらもう……


「そりゃ、死にかけましたからね。虹化体に追われて。もうバックバクのトラウマですよ」

「そうか〜……その原因は慧央くんにも分からなかったんだっけ」

「はい。なので作戦としては失敗ですけど、それはまた優秀な方々に任せようと……」


 嘘だ。俺は原因をもう知っている。環が虹晶を集めて、それを一気に虹化体に戻しただけだ。

 大掃除の間に少しずつ地上から入ってくる虹素と、考えたくはないが、7年前に殺された地下民が発していた悪感情……それらがあれば、不可能ではないと思う。


「や、山田さんはもう環と話しましたか?」

「……いや、まだだね。実は今日やってくれって言われたんだ。向こう刑事課の人から」

「えっ」

「そこでお願いがある。一緒に来て」


 デジャヴを感じる剣幕で頼み込まれ、俺は一も二もなく頷いた。……環の失言を防ぐためには、一緒にいた方がいいだろう。


*・*・*


 軍の見取り図を1度だけ見た事がある。エントランスを入ってすぐの大広間には受付があり、そこから伸びる通路を辿ると各部署にたどり着けるというわけだ。だが施設の大半は破虹師が使うジムや訓練場、さらには世世さんに見せるまでもないくらいの装備の修理を行う修理部などである。技術課なんて謎のパイプや配線の伝う細い通路を何本も越えた先にあった。昨日初めて行ったものの、寮まで歩いて帰れたことは奇跡と言っていい。

 だから俺が知っている課は戦闘課、技術課、事務課、医療課位のもので、……技術課のように孤立した場所にあったりする部署にはめっぽう詳しくないのだ。


「とはいえ、本当に初めて聞いたな。刑事課なんて」

「場所も場所だしね。僕も毎回大変なんだよ」


 俺たちがそこにたどり着く頃には、半ば息を切らしていた。何度も階段を上り下り……増改築の繰り返されてきた軍の建物を象徴するような複雑な経路をたどった挙句、ようやくたどり着いた小部屋。その扉に、A4のコピー用紙にペンで「刑事課」と書かれたものが貼り付けられている。


 山田さんがそれをノックすると、中からくたびれた声がした。ノブがガチャリと回り、スーツを纏う中年男性が出てくる。


「あ〜……山田くん。来てくれたんだね。……隣は? ……って、相友慧央くんじゃないか」

「はい。環さんに聴取をするにあたって、居た方がいいかなって……」


 室内だと言うのに中折棒を被る、くすんだ金髪の男性だった。死んだ魚のよう、という形容詞がぴったりなくらい黒くにごった目が俺をぐるりと見回し、くしゃりと微笑む。


「僕は九十九十つくもつなし。一応……破虹軍刑事課長をやらされてるよ。まあ、立ち話もなんだし入って」

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