悪夢(上)
「右! ……そこを、左、じゃなくてまっすぐ!」
「一度に何個も言うな!」
「ボクだってこの辺まで来たの何年ぶりって感じなの〜☆」
環を背負って走りはじめて、どれほどが経っただろうか。時間の感覚はとうになかった。景色は代わり映えのない、掘りっぱなしのあなぐらだ。俺が1人で走っていた時と比べると分岐は増えたようだが、……もう、いくつの角を曲がってきたのかは覚えていない。
「……チィッ!」
背後に気配を感じ、黒腕を薙ぐ。1匹群れからはみ出していた虹化体がそのなかにずぼっと戻った。それを虹素の動きだけで確認すると、意識を前方に集中する。
さっきからこの繰り返しだ。
こいつらはいつだって俺たちの命を刈り取れる。俺のとよく似た黒い腕をこちらに伸ばしてくるだけで、哀れで小さな俺たちの心臓を破るのにはこと足りてしまうのだから。それを振るうだけの知能がないだけで、な。
この極限状態からくる精神的疲労と肉体的疲労は、とうに俺の限界を超えている。息は荒いし、心臓は痛いぐらい跳ねている。現在進行形で漏れ出している虹素ももうすぐ尽きるだろう。この足を動かすのはただ一つ……依呂葉への執念だけと言ってよかった。
実際、不思議なくらいだ。俺の地の体力では、数分も走り続けたら倒れてしまうくらいだと言うのに。環を背負った状況ならなおさらすぐダメになりそうなものだが。
「えーとね、次はここを右!」
「ここは真っ直ぐと言ってたが?」
「あーごめんごめん☆ そう! まっすぐ!」
眉をひそめつつ、環の言葉に従った。左右に広がる闇を見送って十字路を抜ける。その中に光る無数の赤い目を見て、さらに空気が淀んだ気がした。
それと背中から聞こえる楽しげな声のアンバランスさが、頭痛を加速させているような気がする。
「あのねー、今……こいつらをかき集めてんの」
「かき集める?」
「そう。落とし穴がある所に向かってるんだけど、なるべくこの地底にいる虹化体をまとめて落としたいじゃん?」
「……なるほどな。いや、別にアンタを疑ってるわけじゃないんだが」
「分かってるよ☆ って、あっ」
環が急に声を荒らげ、斜め前方を指さした。見ればそこには、地底に似つかわしくない花が一輪壁から生えている。日がなくても育つ地下作物の1つだろうか。初めて見た。真横を通ると、白い花弁が一枚散る。
「慧央くん、ここからちょーっとボクの言うこと本気で聞いてね」
「今までも聞いてただろ」
「そうじゃなくて、……そうだね、あと10秒したら思いっきり左に寄って! 壁にボクを擦ってもいいから」
「はあ?」
「それいくよ! 3、2、1!」
訳も分からぬまま左に跳んだ。その時に気づいたのは、今まで俺が走っていた通路の中央に、何か……重いものを引きずったような跡があるということで──
その時、前方の暗闇から何かが現れた。地面を2度3度跳ね、瓦礫を撒き散らしながら、雪崩のようにこちらへやってくる。
「────っ!?」
「キャハ☆」
目を剥き、体は硬直した。それはどう見ても人の手によって整形された、巨大な車輪だったのだから。通路を壊さんばかりの勢いで駆け抜けてゆき、俺の鼻先を掠める。……びったりと壁に張り付いている、俺の鼻先をだ。あと1歩でも前に出ていたら、哀れな俺の首は綺麗に吹っ飛んでいただろう。
車輪は虹化体の群れに突っ込んでいき、僅かではあるがその勢いが弱まった。……だが、それだけだ。現実の事物は、虹化体に意味をほとんど成さない。
惚けていた俺は、復活した虹化体の声と環の蹴りによって再び走り出す。
「ここはね、侵入者があったとき用の非常通路なんだ。だから道が入り組んでるし、こんな風に罠もある。ただ、対人間用だから、通るのはけっこうキツイかも☆」
「んで、この奥に落とし穴があるんだな」
「うん。あわよくばこの罠で虹化体が死ねばいいなーとか思ってたけど、そう上手くは行かないもんだね……っておお! 今度は赤い花だ!」
環が指さす先には、言う通り赤い花が1輪生えている。どうやら花の色で罠への対策法を知らせているようだ。……まあ、侵入者に追われているとすれば、自分たちまで罠にかかっていたら世話ないからな。
「赤は上だよ!」
「上!? 天井!? いや、俺はいいけどアンタらはどうやって」
「いいからジャンプジャンプ☆」
言われるがままに跳ぶと、ベストと言えるタイミングで……逆に言うと、あと数ミリ秒ズレていたら危なかったタイミングで、足元から大量の岩が突き出てきた。その先端は戦闘服の赤光を反射するほど鋭利だ。重力に従ってその岩の側面に降り立つと、バランスを崩さぬように飛び移っていく。
ちらりと背後を見てみれば、虹化体たちは鋭い岩峰を舐めとるように変形して進んで来ていた。これに関しては効果すらないらしい。……地下民は、虹化体を意識しないようにしているように見える。環はぱちぱちと拍手をした。
「お見事☆ さすが破虹師……すばらしい身のこなしだね」
「俺なんて下っ端もいいとこだぜ。……これから下っ端じゃ、なくなりたいんだけどな」
「ふうん? まあどうでもいいけど。……そうだね。罠2つ越えたし、そろそろ落とし穴があるかも☆」
落とし穴という言葉に、限界寸前の体が震えた。
「……ああ」
「ここの角曲がったらもうすぐだよ! 曲がったらすぐ伏せて」
「花はないように見えるが」
「いいから!」
珍しく焦った環の声に驚き、すぐ体勢を変えようとした。しかし、通路からこちらに何かが迫り来るのが見えて、血の気が引く。罠だ。上部にロープのようなものが括りつけてあり、振り子のように俺たちを打ちとばそうとしているのだ。
なるほど下部に少しだけ隙間があるにはあるが、初動の遅れた俺が地に這い蹲るのと、加速するこの罠が到達するのでは、後者の方が早いだろう。それに、環を背負った俺では少々高さオーバーだ。
避けられない。
「クソっ!」
悟ると同時に、環を左方……今までの進行方向へと投げ飛ばした。黒腕を1本呼び寄せ、振り子の中心を叩くと、押し返されそうなほど密度のある……こちらからの衝撃を全てを吸い尽くすかのような質量が、腕を操作する俺にまで伝わってきた。ビリビリと痺れる体を無視し、速度が緩んだ一瞬をついて地面に伏せる。振り子は黒腕など意にも介さずに対面する壁まですっ飛ぶと、轟音と共に黒腕を木っ端微塵に破砕した。ゲル状の虹素が飛び散る。
そのまま壁に刺さったようで、振り子がこちらへと帰ってくることが無かったのは……唯一の幸いだろうか?
「慧央くん!」
「ボサっと立ってんな! 早く落とし穴へ──」
じくじくと回復する黒腕を待つのも惜しい。顔についた虹素を拭うと、立ち上がって環を追おうとする。が、環の顔は依然として青いままだった。
「来てる! 虹化体が!」
「……あ」
それが一瞬何かの影に包まれたかと思うと……黒い圧に押しつぶされた。不自然な間の後、粘度の高い海を乱暴に叩きつけたような衝撃が襲う。そんなのあの環が耐えられるわけないと咄嗟に踏み出した足は、
いや……これは、逆だ。
「嘘だろ」
身動きが取れないのは──俺の方だ。
振り子に苦戦している間に、虹化体の群れに追いつかれ、そして飲まれた。
微かに聞こえる環の声が遠くなっていく。環が逃げたからなのか、俺の耳が遠くなっているのか。
虹化体の隙間から覗く地底街の風景には、もう明かりはない。
「クソ、クソ、クソ!」
──ここまで来て、死ねるか!
──俺は地下街の悪夢をこの目で見たんだ!
──これでやっと……やっと依呂葉と肩を並べて、復讐ができるようになるかもしれないのに!
腕をめちゃくちゃに動かそうとするが、左腕はまだしも動力の切れた右腕は全く動いてくれない。脚は底無しの沼に吸い込まれていくだけ。右腰にある蜺刃があれば脱出は可能だと思うが、そこまでに絶望的な距離がある。
さらに悪いことに、塊の中で動き回る俺を、こいつらは……敵とみなしたらしい。全身に黒い触手が絡みついた。
「や、やめ……やめろ」
ギリギリと締め上げられる。鬱血した四肢の先端部は灼けつく痛みを発し、圧迫される腹部の中で、臓器がぷちぷちと潰れていくのが分かる。せりあがる血塊を吐き出そうにも、首をも圧迫されている今、その行き場はどこにもなかった。
「あ……が──あああああああっ!!」
右腕がもげた。肩から外れた。
「────っ!!」
左脚が千切れた。大腿骨をへし折られたようだ。
「あ……あ……」
左腕と右脚が、同時に折れた。関節から綺麗に外されている。
「…………」
声が出なくなった。──強烈な水音が腹部から響いたことだけが、分かる。体が軽く、バランスが取れない。頭から虹化体の内部にずぶずぶと沈んでいき、その中でされるがままになる。
やがて何かにぶつかった。重い目を開くとそこには……へし折られた大腿骨が綺麗に見える、俺の胴体があった。
「…………っ」
腹からチョンパ、というところだろうか。こんな所で俺の腰とご対面したくはなかった。
こんなの……殺されたも同然だ。手も足も動かせない。リミットを超えたのか痛みすら感じなくなった。ここから生きて出るのは、もう無理だ。
俺を含んだ《地下街の悪夢》は、このままもぬけの殻の地下街をゆうゆうと進み、じっくりと地上へにじり寄って、そして虹の元でのほほんと暮らす……虹化体という危機に鈍くなった地上民を食らうのだ。
これがこの世の現実なのだ、とでも言うように。
俺もその一員になるのだろうか。
虹化体としての強すぎる生命力ゆえか、もはや肺の上半分くらいしか残っていない俺の体にもまだ意識がある。呼吸も血液循環も出来なくなったこの体が堕ちて行くのを見届けるだけの運命というわけだ。
辛うじて生きている脳みそには、「因果」という言葉が巡っている。
全ては繋がっているのだ。
俺が今こうして死にかけているのも、その原因となった依呂葉の死も、《憤怒》の虹化体が依呂葉を殺したのも……もしかすると、そのもっと前の出来事も、全ては繋がっている。大いなる流れがある。それが世界のルールだから守らねばならないと身を委ねて溶けていくのは、心地がいい。
それから唯一逸脱できたと感じた瞬間は、タイムスリップをしてここに来た時だった。あの時は世界を超越した実感が間違いなくあった。白く無機質に塗りつぶされた空。運命も因果もクソもない、理不尽な力の奔流を感じたのだ……
だから俺にも出来ると思った。依呂葉が死ぬという運命を変えることが、もしかしたら……出来てしまうのかも……って……
自嘲に口を開くも、嗚咽は出てこなかった。当然だ。漏らす息ももう吸えていない。意識がちらちらとブラックアウトを始める。何かが、終わる。
「それでいいのですか?」
とうとう幻聴まで聞こえてきたらしい。若い女の声だった。この虹化体団子の中に、そんなものは存在しえない。
「慧央、もう諦めてしまうのですか?
「私が手を貸すのは簡単でしょう。先程のように、傷一つなく貴方を治して差し上げます。それが契約……いえ、《約束》でしたので」
「ただ、それも貴方の心持ち次第です。貴方の心に灯る火が消えゆくならば、私は貴方の中から去らねばならない」
「聞いていますか、慧央?」
黙れ! と開けた口からは、当然声は出ない。しかし、ちょうどそのタイミングで、虹化体が大きく揺れた。開いた口に何かが飛び込んでくる。何だこれは、若干柔らかい……
(って、これ俺の切り離された体──!)
咄嗟に吐こうとして、止まった。
俺、今……ものを掴めている……よな?
手も足もなくても、俺には虫歯ひとつ無い健康なこの顎がある。
「ふふ、そうです。貴方には因果を乗り越える力があります。私が見込んだ、最初で最後の殿方ですから──」
意味のわからない声は無視して、俺は必死に身体をたぐった。千切れた足から飛び出る骨に頬を切りつけられ、体部から垂れる内臓を食いちぎって視界を塞がれつつも、俺は見つけた。──蜺刃だ。
そのスイッチを入れると、歯でつかみ直し、思いっきり振る。地下民の努力の結晶をぺろりと平らげてきた虹化体は、地上の叡智の結晶にはなすすべが無い。泣きたくなるほど簡単に、その肉は裂けた。
耳をもがれそうな程の音量で虹化体は響き合い、俺は──ぺっと外に吐き出される。回る視界と、脳が揺れるほどの衝撃。
「…………っ」
口に感じる砂利の痛みに、柄ではないが笑みが込み上げてくる。手足をもがれ、口で刃をくわえた。虫より惨めな格好をしている自覚はある。ただ、それでも俺は……またひとつ理不尽を乗り越えたのだ。
そう。この世界では《欲望》が重要になる。虹素は人の願いを叶える魔法の物質である。
ならば俺は、理不尽に願わなければならないだろう。
息を
簡単に出来てしまった。多分血肉は虹素で置きかわってしまったのだろうが、四肢はこうも簡単に復活してしまったのだ……
「環は……その前にここは一体……」
奴らは俺を自らの後方に吐き出したようだ。俺にはもう目もくれず、奥へ進んでいく。……もしかしてここ、さっき入った横道の奥なのか? 落とし穴へ続くという? この暗闇の中で虹化体が追うものといえば、俺か環かしかないからな。
きっと俺は今のでかなり、体組成が虹化体に近づいてしまった。……虹化体の優先順位として、俺より環が優先された結果と考えるのが良さそうだ。
環を追うのは当然として、問題はどうやって虹化体の群れに先回りするかというところだ。1度入ってみて分かったが、あれに囚われたが最後、死ぬまで出られないだろう。虹化体が通路をびっちり覆っている以上、どうにか分かれ道を駆使して奴らより前に出る他ない。
俺はゆっくりと目を閉じた。すると、まぶたの裏にはぼんやりとした虹素のもやがかかる。近くに、目がくらむほどの塊がひとつと、……そこから少し離れたところに、ささやかな気配が、ひとつ……
環だ。俺と長く一緒にいたことで虹素が体に付着したのだろう。地下民の体には間違いなく有害だが、今は感謝しないといけないな。
そうと決まれば急げ。俺は黒腕を2本生み出すと、自らをそこに乗せ……全速力で駆けさせた。
「ここは……左だ」
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