暗中模索
体の感覚が鈍い。
気持ち悪いくらいに人肌の湯に、ぷかぷかと浮いているような心地だった。手も足も動かせない。
ここはどこだろう。
その思考すら、死んだようにのっぺりとした感覚にどろどろ溶けだしていく。……俺、さっきまで何してたんだっけか。
春を思わせる爽やかな微風が前髪をかきあげると、──
「起きてください、慧央」
*・*・*
ぱた、と何かが眉間に落ちてきた。やけにごつごつした所に寝転んでいた俺は、身を起こして、額を拭う。
ぬめりのある感触から想像はついたが、血だった。はっとする。そうだ。俺は今大掃除に潜入し、そこで崩落に巻き込まれて……
「蘭堂……っ」
今度は後頭部に落ちてきて、堪らず上を見上げた。電灯の薄ぼんやりした光が、歪な円形の穴から漏れてきている。俺は本当に、地下道のさらに地下に落ちてきてしまったらしい。この血は……蘭堂の物だろうか?声が聞こえないから、なんとか逃げられたのだろうか。
地下道は最低限ではあったものの、地面が舗装され、電灯もあった。しかし、地下道のさらに地下であるここは、地盤は掘ったまま石がごろごろしているし、明かりもない。……公式な目的で作られた場所とはとても思えなかった。
事実。調査資料にも、こんな場所の存在をほのめかすようなものはひとつも無かったのだから。──俺は今、未知の未来へ続く道へと足を踏み入れてしまったのだろう。
「行くしか、ないよな」
立ち上がると、意外と体がスムーズに動くことに驚いた。これだけの高さから瓦礫の上に落下したというのに、怪我ひとつないようだ。戦闘服には血がべっとりと付いているが……蘭堂のものということにしておこう。今考えることじゃない。
地下の虹素濃度は地上の半分以下だ。ほとんどない。だから俺の虹化体としての能力はほぼ封じられている。この状況下で、怪我を感知させられるほどの力を発揮するのは不可能だからな。
と歩き出した時、どこからか異音が聞こえるのに気づいた。
シューッという、まるで何か気体が漏れているような音だ。辺りに目を走らせるものの、ガス管のようなものは当然無いし、異臭も視覚的な異常もない。
嫌な予感に右腕を振り上げてみると、肘からワイヤーが垂れ下がっているのが見えた。
「……あー」
ビンゴである。本来これは首の後ろから肘まで繋がっていなければならないはずのものだが、落下の衝撃で切れてしまったのか。
ここから虹素が漏れだしていたのだ。
戦闘服に詰まっている虹素は、俺たち破虹師の身体能力を人外じみたものへと強化してくれる源である。機械の燃料のように、使えば使うだけ消費してしまう。そして、尽きてしまえば戦闘服はただの黒い服に成り果てるのだ。
右腕のワイヤーが切れてしまった今、俺の右腕は一般人と何ら変わらない程度の力しかなくなってしまったということになる。それだけじゃない……
かぶりを振る。考え事は後でも出来るからな。
前方の暗闇をきっと睨むと、俺は一歩踏み出した。
*・*・*
「……どーこまで続くんだこれは」
走り出してしばらくが経った。先の崩落はあちこちで起きていたようで、俺が落下してきた場所のように瓦礫が積もっている箇所がいくつもあった。真っ赤な血溜まりの中で絶命する破虹師も、数名確認した。先程のミーティングで見た顔たちが、物言わぬ骸となっている横を、通り抜けてきたのだ。……打ちどころが悪かったのだろう。俺のように人外の体を持っていなければ、いくら戦闘服に守られているといえど、落下の衝撃に耐えられない者がほとんどだったということである。
だが、と眉をひそめる。
こんなことが有り得るのか?先月の大掃除ではヒビひとつなかった地下道が、よりにもよって今日、こんなにも広範囲にわたって崩れるなんて。
大掃除が1週間早まった。そして、地下の崩落。この2つの一致は、偶然で片付けていいものでは無いように思える。
(しかし……それと地下街の悪夢は、恐らく関係ない。俺が今するべきは、その
そう心に決め、足を早めようとして、……やめた。
今まで一本道だった砂利道が、とうとうここへ来て二股に別れていたからだ。どちらへ進むか。選択しなければならない。
(俺って今虹化体なんだよな?)
虹化体。虹素を操って人間を害する化け物のことだ。
地下街の虹素濃度はとても薄いため、虹化体としての能力はほぼ封じられているのだが、今現在俺の右腕からは虹素が漏れだしている。──これが使えるとしたら。
目をつぶり、辺りの気配を探る。黒腕で空気を掻き分けていくイメージだ。すると、俺を中心として、ぼんやりと虹素が漂っているのが知覚できた。虹素自体に形はないが、イメージ上はその名の通り虹色の
どうやらワイヤーから漏れ出す虹素はそこまで多くなかったらしい。思ったより量が少なかった。この分なら、戦闘服から虹素が枯渇してしまうまでにはまだ少し猶予があるだろう。
その虹素たちに向けて、強く願った。
──もっと多くの音を、聞かせろ。
それからは一瞬だった。
俺の願いに呼応するように虹素たちは波打ち、バラバラの方向へ拡散しようとしていたものが、びしりと整列する。俺の体をぐるぐると取り囲むと、やがてその渦は速度を増し、粒子が判別できないほどの質を持った大いなるうねりになる。息を飲んだ。虹素はこうやって、人の欲望を叶えていくのか。
うねりがじくじくと俺の体に染み込んできたところで、思わず目を開けてしまう。
「……とんでもないな」
まず聞こえたのは、足の裏で軋り合う小さな砂利の音だ。
石が崩れたり、擦れる音じゃない。直径1ミリほどの砂利が
続いて、これは……どこだろうか。ここからの距離的に俺が落ちてきた場所くらいだろうか。そこで、穴の空いた天井から血が滴る水音がする。血が瓦礫のほんの表層を削り取り、それがまた瓦礫の上に落ちて、もろく崩れさるのが分かった。
──ここが無人の地下街でなければ気が狂ってしまうほどの精緻な音声情報が、俺の脳に伝わってきている。
もちろん今消費した虹素の分の力を使い切ってしまえば聴力は元に戻るから、これは一時的な力に過ぎないのだが。
(人間が虹化体の存在を容認しているのは、こういう訳だな。願うだけでなんでも出来るんだから)
虹が出来て以来、人類は虹化体を避けて一度地下に潜り、虹化体と戦う術を身につけて地上に舞い戻った。
つまり、地下街──虹化体もいないが、虹素のない世界と、地上──虹素はあるものの虹化体に虐げられる世界のうち、後者をとったということになる。
もし仮に地下街の住民がまだ生きていたとしたら、地上の民のことをどう思うのだろうか。自らを血の詰まった肉袋とすら思っていない残虐な獣と、隣り合わせで生活している俺たちのことを……
「……あ……!」
無駄な思索は、耳を掠める
念の為蜺刃を握り、足音を消してさらに奥へと進んだ。身体強化が切れている右腕には蜺刃は少し重かったので、支えるように左腕を添える。道が狭くなってきているのか、俺の心臓の音が壁に反響しているようにうるさく聞こえた。
なんだか妙だ。
先程までは地下の崩落により空いた穴から、上層の光が差し込んでいた。そのため光源がなくてもあるていどの視界は確保出来ていたのだが、……ここは、不自然なくらいにそれがない。虹素漏れによりちらつきはじめた戦闘服の赤い光が、ぼうっと辺りを照らすだけで──
「うっ!?」
その時、殴られたような痛みが脳を襲った。刹那踏ん張った足元から聞こえる砂利たちの大合唱に目が眩む。顔をしかめる余裕もない。辺りを見回すが、当然何者かに攻撃された様子はなかった。真っ暗。人の気配は、まだ先。
だが、なんやかんや破虹師を3年やっている俺の理性は、この痛みの正体に気づきつつあった。
虹化体が現れる予兆である。しかも強力な。いや、これは、数か?とんでもなく大量の虹化体……?
口元が震えた。
(地下街の悪夢、尻尾を出したか……!こんな地下にいたのなら、誰も気づけないのも無理はない)
波のように襲ってくる痛みに催した吐き気を飲み下しながら、一旦下がろうとした俺は、気付く。
この奥には誰かがいる。彼または彼女がこの大量の虹化体の群れに巻き込まれでもしたら、ただじゃ済まないだろう。
思考している間に、痛みと不快感はかなり弱まった。それと反比例して、虹化体が現れてくるのをひしひしと感じている。足の裏に奴らの胎動を感じるのだ。
俺はもう一度強く刃を握り、更なる闇へとこの身を投げ込んでいく。
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