光と影
きっかり10分後、俺たちは現場に到着した。……この景色にも覚えがある。7週間前に受けた討伐依頼と全く同じ案件を受けているのだろう。
……ここが過去の世界だ、というのは、残念ながらもう否定できないし、多分もう俺の中に否定したい気持ちもなくなった。俺以外が
俺には小学校中〜高学年くらいの記憶がすっぽりとない。物心着いた頃を1度目の記憶の始まりだとしたら、2度目の記憶の始まりは、なんと驚くことに中学の頃だ。
その頃の俺は、毎日が混乱と恐怖の連続だった。
何せ、身の回りのものを何一つ知らないのだ。
勉強なんて当然分からないし、急に成長したように思える自分や周りの同級生たち、そしてついていけない話題の数々。それら全部を「そういうものだ」と受け入れてこなければ、……俺はここまで生きることすら出来ていなかったかもしれない。不合理を受け入れる訓練は、もう十分なほど積んできたというものなのだ。
「依呂葉」
「んー?」
となりで準備運動を始めている依呂葉に、声をかける。既に篭手とブーツを象った特殊な蜺刃──人呼んで《虹殺し《レインボーブレイカー》》を装着して、戦う気満々であるが……
「今日のところは、俺に任せてくれないか?」
「え? お兄ちゃんに?」
依呂葉は驚いた顔をした。それもそうだ。
タイムスリップをする前、戦闘はほぼ全て依呂葉や山田さんに丸投げしていたのだから。投げようという意思があった訳ではないのだが、俺と依呂葉の実力は大きく開いているため、俺が動くとむしろ足手まといになるからだ。言い訳だな。
これまではそれでもよかった。依呂葉はストレスを発散できるし、俺は依呂葉の様子を間近で見られる。……万が一依呂葉に危機が迫ったとしたら、俺が身代わりになろう。
なれる、と当時は思っていたのだ。愚かにも。
「……っ」
それから間もなくして、空気がピリつくような嫌なものを感じた。俺の敏感な虹素センサーが唸っている。虹化体が来るのだろう。
依呂葉に目配せをすると、いつになく真剣な顔をしている俺を面白がったのか、意外なほどあっさりと戦う権利を譲ってくれた。……俺の記憶にある7月8日では、こんなことは起きなかった。いつものように依呂葉が矢面に立ってあっという間に虹化体を倒し、俺は後ろでサポートという名の虹晶回収に奔走していた。
不思議な感慨を感じつつも、すぐに蜺刃を展開する。昨日、それを握りしめてただただ立ち尽くしていた記憶が思い出される。歯を食いしばった。
それと同時に目の前の空気が揺らぎ、黒く重苦しいモヤが地面に垂れこめる。
やがてそれは粘度と質量を増し、黒く大きな化け物を象った。虹化体だ。
だが、何かが違う、と感じた。
普段よく見る「生まれたて」の個体と違って、地に体をつけた今この瞬間から、目を背けたくなるほどのプレッシャーを放っている。
依呂葉もそれにすぐ気付き、声を上げた。
「お兄ちゃん、こいつちょっと強いよ! 何人か人を食ってる」
「分かってる。……行けるから、今日は手を出すなよ」
「でも、お兄ちゃんこれまでそんなこと」
「頼む、今日だけでいいから」
虹化体は周囲の感情の悪化とともに現れる存在ではあるが、たとえその環境悪化の波が過ぎても、直ちに消え失せるものではない。
限りなく存在感が薄くなり、人間に手出しも出来なくなるのだが、虹化体はずっとそこに「在りつづける」。
核を砕かれない限り、虹化体は決して死なないのだ。
こいつはまさに、前回、もしかしたらもっと前の顕現時にもどうにか破虹師を退け、こうして今日再び姿を現した個体なのだろう。
でも俺は、虹化体になってしまった俺ならば、こいつを殺せるはずだ。そうでなくてはならない。
依呂葉を殺した《憤怒》を倒すためには、こんな小物に手間取っている暇はないからだ!
「お兄ちゃん、来るよ!」
考えに耽っていたのを、依呂葉の心配そうな声によって遮られる。
見れば、虹化体が腕のような突起をたわませ、こちらの心臓めがけて突き出すところであった。俺は刃を構えると同時に、大地を踏みしめる足に力を込めて、虹化体の力を振るおうと——
(待て。依呂葉の前でそんなことしたら、俺が虹化体であることをバラす事になるな!?)
——した寸前でそれに思い当たり、慌てて横に飛んだ。質量と弾力を兼ね備えた虹化体の腕が地面に突き刺さり、轟音と共に、いままさに俺の立っていたアスファルトにヒビが入った。飛び散る破片。それはなんとかふらつかずに着地した俺の頬を切りつけ、一筋の血を流す。
それを拭いながら、背筋がぞわぞわと震えるのを感じた。
(うわー! で、でかい口叩いちまった)
俺本来の実力では、1人で生まれたての虹化体を倒すのが精々だ。いや、これが出来ない輩もまあそこそこいるので、俺だけを責めるのはやめて欲しいというものだが、今回コイツを倒そうとした時に俺では力不足だというのは、どうにも否めない。
が、引くわけにも行かなかった。──ここを乗り切れぬようでは未来がないというのは、悲しいことに事実だからだ。
「お兄ちゃんやっぱり」
「平気だ黙っててくれ」
もはやムキになった俺は、依呂葉の方を振り返ることもせず、虹化体との距離を詰めた。それに反応して飛んできた右腕に向かって、刀を水平に叩き込む。重い感触とともに腕は綺麗に両断され、宙を舞った。
それを目で追いそうになって、留まる。
通常、虹化体の核はひとつしかない。核の入っていない虹化体の肉体は、動くことも出来ず、やがて霞となって消えるのを待つだけなのだ。未だ本体の方が動いている以上、すでに千切れた腕には核が入ってないため、注意を払うだけ時間のロスである。
ただ、それを利用しないという選択肢も、ない。
俺は身を屈めてその影の中に身を置き、奴の死角に一瞬入った後、あらぬ方向へと這い出して、黒い土手っ腹を掻き切った。ぬるい感触と、体にまとわりつく重い飛沫。うまく意表はつけた。
しかし、それだけだ。
かなり広範囲を斬ったつもりだったが、虹化体は狼狽えない。核にはかすりもしていないようだ。
「ギ──!!」
舌打ちする。
並の虹化体ならここで騒ぎ散らして隙をくれるのだがな。人を食った、というのも頷ける賢さだが、にしても、普通の虹化体からすると異常とも思える能力の高さだ。
と頭をひねる俺を嘲笑うように、奴は一瞬体を震わせると、眼前にある傷口からぼろりと黒い花のようなものを綻ばせた。細い産毛のようなものが鼻をくすぐる。
「……なん!?」
否、花なんて優雅なものじゃない。
その花弁一つ一つが、意志を持ったように蠢きはじめたのだ。何かを──そう、相対する俺を探すように。
触手だ。
刀を持ってノコノコ近づいてきた俺を、できた傷口から伸ばした無数の触手で、絡め取ろうというのである!
再び切りつけようとしていたのをやめ、すぐさま地面にころがった。回転する俺を追尾して、何本もの触手が槍のごとく降り注いでくる。それが地面に激突する焦げた音を耳元に聞きながら、なんとか体勢を整え直した。どっと汗をかく。
(近付けもしないとは。な、なんとか攻め手を探さねえと)
虹化体と戦う時に必要なのは、手数だ。未だ核の位置を視覚化出来るような装置は開発されていない。倒すためには、とにかく体を斬りつけて、当たりをつけていくしかない。
そして、武装が近接武器に限られる破虹師にとって、このように接近が難しい虹化体は天敵に等しいと言える。……が、やるしかない。
俺には華のある特殊能力や、目を引くような身体能力は、ない。
あるとすれば、ただただ理不尽に抗って生きる力だけだと思うからだ。
刀を握り直すと、俺はがむしゃらに虹化体に刃を振るう。
触手は切り落とされる度、霞となって消える。それはやがて虹化体の体へと収束していき、再利用されるのだが、そんなことより早く核を見つけてしまえばいい話だ。
脇腹、下肢、頭部。思いつく限りの場所を切りつけた。しかし傷は浅い。一進一退といえば聞こえがいいが、結局は虹化体の牽制に俺は攻めきれないでいるのだ。奴の核はきっと、体の深部にある。そこ以外にもう脅威はないのだから、どうにか、奴の腕を掻い潜って懐に飛び込む策を考えなくては──
「……ガッ!?」
と奴を睨みつけていた俺の、視界がぶれた。
……そう錯覚するような衝撃が、背骨を叩きつけたのだ。
背後からの、敵襲だと!? おかしい。この場には虹化体はコイツしかいないはずだ……!
押し出されるように俺のいたいけな体は宙を舞い、くるりと回転する。
「……な……」
天地が反転した視界の中心では──俺がさっき
状況を理解するまでに数瞬の時を要した。
なぜ、虹素に還元されていくはずの腕が自律しているのか?
それはつまり、
虹化体に核はひとつだ。
しかし、
こいつは過去に同族を喰らい、その核を己に取り込んだというのだ。だからこそこんなにも知能が高いのだろう──
そして、戦闘においてこの思考時間は、絶望的なまでに、大きな隙であった。
(やべえ!)
いくら身体アシスト機能に優れた戦闘服といえど、使用者が俺では、空中機動には限界がある。ようやっと状況を把握し、強ばる体を叱咤して刀を天に振り下ろす俺を、──虹化体は、悠々とその腕で掴みあげ、空中で逆さ吊りにしてしまった。
かぁっと頭に血が登り、視界が爆ぜる。今にも飛び出してきそうな依呂葉の顔が目の端に見えた。
「手ぇ出すなよ依呂葉! 俺は1人でコイツを倒せないと……っ!」
お前を守ることなんてできない。
叫ぶように言った言葉が、依呂葉に届いたのかはわからない。依呂葉にしてみたら、俺の気が触れたように見えるかもしれなかった。だが、それでも、どうにか……
「グルルル……」
虹化体の赤い目がこちらを嘲るようだった。結局お前はどこまでも無力で、何を為すこともできないのだと、伝えてくる。
だが、ここで諦めていたら、これまでと何も変わらないだろ。
「……何かできることは……」
一度、無理やり落ち着いてみる。
現在進行形で頭に血が登り冷静な思考は奪われつつあるが、それでは奴の思うつぼだ。気張れ。
なぜ俺は今窮地に立たされているのか。
それは……
(虹化体の力……つまり、黒腕を使うことが出来ないからだ)
そして、俺の勝機があるとしたら、そこしかない。
揺れる視界の中で、深呼吸をする。
「依呂葉」
「慧央!?」
「1分でいい。目をつぶっててくれないか」
情けなかった。
こんな願いを聞き届けるやつがあるだろうか。
だが俺にはこれ以上の案は思いつかない。依呂葉の目の前で腕を生やすのは論外だし、閑静な住宅街の中に、俺へと目を向けた依呂葉の意識を反らせそうなものはそうそうない。そして、それができるような頭脳も、俺にはない。
「頼む……ッ!」
その言葉を言い終わるかどうかのうちに、痺れを切らした虹化体は、俺を地面に突き落とした。空気の層が全身に叩きつけ、迫り来る衝撃に備えて体がこわばる。
(はは……)
だが、俺の肉体がバラバラになることは、なかった。
(やってやる──ッ!)
俺は目を見開くと、虹化体のすぐ近くからもう一本腕を顕現する。虹化体にはリアクションすらする隙を与えてやらない。肘を曲げると、そこを支点に最小の軌道で打ち下ろす。
「──ガ!!」
黒いしぶきが飛び散り、虹化体の体が半分にもげた。そして、その体が
そう。蜺刃では虹化体の体を斬ることしか出来ないが、黒腕──つまり虹素は、まさに虹化体の体と同質の物質であり、それ以上の干渉が可能になるのだ。こんな風に、動きを阻害するような。
背中から接地することなど人生で初めてなのだろう。先程までの凶悪さはどこへやら、奴は醜く地べたで暴れている。俺は体の下敷きになっていた腕を消すと、2本の足でしっかりと立った。頭がくらりと揺れる。案外この力にも、代償とやらがあるのかもしれない。
ただ俺は、この7週間を生き抜ければそれでいい。
息を細く吐きながら、腕を新たに生み出す。先程核があった右腕をぐちゃりと捻り潰した。そのまま、腹部にねじ込む。
そして、内臓を掻き回すような生々しい音と共に、何か、硬質なものを掴んだ。
(あっ、た)
核だ。予想通り、刃の届きにくい体の奥底に、それはあった。
安堵のあまり倒れそうになりながらも、体の外に引き出す。ころころと転がるそれは、俺の足に当たるとその動きをとめた。綺麗なルビー色だ。虹化体の悲鳴が一層真に迫る。俺はそれから目を背けるように、蜺刃をきつく握った。
(きっと俺もいつか)
やめだ。こんな思考は。
俺は息を止めると、赤い球に刃を突き立て、真っ直ぐに割る。
周囲の黒いヘドロが、時をとめたように凍りついた。
*・*・*
討伐は完了した。俺は、7週間前の自分を超えたのである。
目をつぶるよう言われていた依呂葉は、追い詰められていたはずの俺が成した快挙に酷く驚いていたが、勝利を真っ直ぐに喜んでくれた。
「ふふー! お兄ちゃんもやるね!」
「まあな、俺はお前の兄貴だぞ、やるときはやるさ」
だが、鼻歌さえ歌いながら軍へと帰還する依呂葉を見ていると、複雑な気持ちになる。
当然7週間前にも俺は同じ姿を見ているはずだし、見た記憶もあるのだが、やはり、1度喪失を経験しているかどうか──というのは、ものの見方ひとつにしてもガラリと変えてしまうらしい。
前はただ、依呂葉は一族を……両親を殺した「虹化体」を殺せるのが楽しいのだと思っていた。けど、今ならそれだけではない、違う、と断言出来る。
「なあ依呂葉」
「なに?」
振り向く依呂葉の目は、一点の曇りもない黒真珠のようだった。俺を信じて疑わない、どこかで見たような光を宿している。
「お前、もし、もしだぞ……世界から虹化体がみーんな居なくなったらどうするんだ?」
「そんなの……」
依呂葉は言葉を言いかけて、考え始めてしまった。
──この質問はずるいと我ながら思う。だって、世界から虹化体が消えてしまうなんて、そんなことは有り得ないから。
「死んでもいいよ。だって私は、虹化体を殺すために生きてるんだから。それが終わったんなら、……こんな、辛い世の中で生きてる必要は無いよね」
思わず、足を止めた。
「お兄ちゃん?」
「……いや。こう、やりたいこととかないのかよ」
「んー、ないなあ。私が生きてるのは、家族を失う苦しみの連鎖をここで止めるため……なんて言えたらカッコいいんだけど」
それ以降依呂葉は何も答えなくなった。鼻歌を歌うのもやめ、ただ空を見ながら歩く。
その姿に何か意味深なものを感じて、気が気ではなくなる。
(もしかして、依呂葉は俺の正体を知ってしまったんじゃ?)
目をつぶれ、なんて、依呂葉自身が申告しなければいくらでも反故に出来る願いだ。
もし、依呂葉が俺を心配するあまり目を開け、黒にまみれる姿を見てしまっていたのなら……
(……ダメだな。やはり)
俺と依呂葉は、きっと、一緒にいない方がいいのだ。
いや、よく考えなくてもそうだ。
兄と妹。
人と虹化体。
そして、生きているべき存在と、そうでない存在。
俺と依呂葉は、共に過ごすにはあまりに対極であった。……ついさっき、そう決意したばかりなのに、なんで俺はこうも……
「お兄ちゃん、どこまで行くの?」
「グフ!」
不意に襟首を掴まれ、俺は後ろにつんのめった。目の前にあったのは破虹軍の入口である。考え事をするあまり、通り過ぎるところだったらしい。
「ああ、悪い。考え事してて……」
「もー、お兄ちゃんはアホなんだから考えたって仕方ないでしょー? さっきのやつも! ……私とお兄ちゃんの間にさー、隠し事なんて無粋なこと、ないよね?」
尻すぼみに芯が消えていく依呂葉の声に、思わずごめん、の言葉が出かけた。
闇を湛えるという表現が似合うほど深い依呂葉の瞳が、気遣わしげに俺を見上げる。その目が見ていられなくて、俺と同じ高さにある頭を、ぐいと押し下げた。
「当たり前だろ。俺とお前は双子、唯一血を分けたきょうだいじゃねえか」
その後のことは、正直覚えていない。
分かったこと、いや、思い知らされてしまったことは……俺と依呂葉の歩む道は、もうどうしようもないほどきっぱりと分かたれてしまっていたのだ、ということだろう。
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