ひとりぼっちの悪魔


 2100.7.8

《翌朝》


「お目覚めか、慧央」


 女性の手によってざああっとカーテンが開く。ぎらつく太陽が窓越しに刺さってきて、微睡んでいた俺は強制的に覚醒させられた。目に入ってくるのは、まあ見慣れた軍の医務室の風景。自分の足でやってきた記憶は、ないが。


 ……どうやら、過去の世界で朝を迎えてしまったらしい。


 気まずくて女性……│世世よよさんから目をそらすように体を見下ろす。体の至る所に包帯が巻かれていた。

 │昨晩7月7日軍の中庭で発見された俺は、医務室に運ばれて、そこで傷の手当てを受けた後、一晩ぐーすか寝ていたということになるらしい。


 いや、マジ、マジか……

 頭を抱えたくなる。

 虹素は虹化体の出ずる源であると同時に、奇跡を起こす物質だ。それは生まれた頃から嫌というほど知っている。それだとしても、タイムスリップまでしてしまうなんて……!


 壁の日めくりカレンダーが7月8日を声高に叫んでいる。

 昨晩大罪虹化体が街で暴れた……なんていう大惨事があったことを思わせる雰囲気が、目の前の女性には全くない。

 

 身の回りのもの全てが、ここが過去の世界だということを訴えてきて、逃げられない。


「……ああ、ありがとな│世世よよさん」

「フン。……まあ何はともあれ包帯を剥がすぞ」

「げ」


 恐ろしい宣言に腰が浮いたのも束の間、世世さんの腕が研究者らしからぬ俊敏さで閃く。


「本来なら! 今日も! お前には……討伐依頼を! やってもらうのだがな!」

「イデデデデデデデデデ」


 ビリッ! と皮膚まで剥がす勢いで、包帯が1枚ずつ剥かれていく。昨晩唖然としてしまったほど大量にあった青アザは、包帯の下できれいさっぱり治っている。

 さすがは虹素、トンデモ治癒能力だ──なんて現実逃避でもしてないと、やってられない。


世世よよさん……そんなに乱暴にすることないだろ!」


 ギブギブ、と腕をタップして、世世さんを見上げる。

 長い白髪をシニヨンに結い上げ、わがままボディをセーターと白衣に包む世世さん。

 彼女の正体は、軍内でたった一人虹素関連の研究を行うマッド……げふん、スーパーウーマンであり、かつ! 家族を失った俺と依呂葉を拾って育ててくれた人なのだ。


 虹化体の出現予測から、破虹師たちの位置情報管理、さらには医療関係までを全てとりまとめる、本当にすごい人なのだが、少しだけ性格が悪いのが玉に瑕と言えよう。


「手間賃だ」

「申し訳ございませんでした」

「謝るくらいなら……」


 何か言いたげな顔をしたが、すぐにそれは溜息へと変わる。そして、耳の赤いイヤリングをじゃらりと鳴らしながら、俺の頬を撫でた。


「……で、何があった」


 何が。

 つまり、──俺があそこで倒れていた理由、だろう。

 世世さんが俺の頬を撫でる時、それは俺をあやす時だ。悪夢を見がちだった幼い頃、俺はこれをされないと眠れないほどだったのだから。

 今でもこれをされると、嘘をつこうとか、取り繕おうという感情がスっと消えてしまう。


 そこで俺は素直に、昨晩……8月25日のことを思い出そうとした。


 依呂葉と山田さんと一緒に討伐依頼をこなして、憤怒が現れて、その後訳の分からない幼女に──


 だめだ、意味不明である。

 冷静になると余計に、事の意味不明さが理解された。


「お前は│昨日7月7日、東京の端っこの虹化体討伐依頼を1人でこなした。そうだな? いや、そこまではワタシも確認した。お前の端末から発信される位置情報でな。だが……一応何人か応援を寄越したつもりなのだが、誰もお前と会えずに、今朝! お前を除く全員は帰ってきた」

「今朝」

「そうだ」


 オウム返ししか出来ない俺に、世世さんの眉がどんどんつり上がっていくのが分かる。


「つまりお前が昨晩のうちに単独で軍まで戻ってきて、しかもあの柵……地下街の入口に入り込んでいたというこの事態は、訳の分からんことなのだ。まるでワープでもしたみたいだ、と言わせてもらう」


 ワープ

 ではなく、

 タイムスリップをしてしまったんだよな。

 あの幼女によれば。


 なんて言えるはずもなく、俺は曖昧に笑って、そのあとは世世さんのされるがままになっていた。世世さんもまた、それ以上は俺を追及してこなかった。


「あ、そうだ世世さん」

「なんだ」

「今、依呂葉は……依呂葉はどこにいる?」


 包帯を取り終えた頃合いで、そう尋ねた。

 ここが本当に過去の世界ならば、一刻も早く彼女に会いたかったから。


 おそらく俺がこの7週間を生き直すことの、最大にして唯一の理由。


「依呂葉なら今呼んでいるところだ」


*・*・*


「お兄ちゃん! 大丈夫!? 倒れてたって聞いたけど」

「依呂葉。廊下は走るなとあれほど」

「ごめんなさーい!」


 服装を整えて少しした頃、荒く医務室の戸が開いた。

 明らかにひと仕事終えたあと、というドロドロの依呂葉が顔を出す。

 慌ただしい姿を叱る世世さんに軽く謝る依呂葉──その姿から、目を離せなくなる。


 その目は芯のある黒い光を宿し、きりりと太い眉も、はねた髪も、腕も足も胸も全部が、はじけるような生命力に溢れていた。


 生きている。生きているのだ。


「えっ、お兄ちゃんなんで泣いてるの? そんなに怖い目にあったの?」

「……よかった」

「えっ?」

「依呂葉。お前が生きていて、本当によかった」


 はらはらと駆け寄ってきた依呂葉を抱き寄せる。体温とハリのある皮膚、さらにその下を脈々と流れる血まではっきりと感じ取れる。全身が神経の塊になったように、依呂葉を知覚できる。


 昨晩から目に焼き付いて離れない、あの虚空を見つめる生首は……ここにはない。まだ、ない。


「お兄ちゃん?」


 少し困ったような声に我に返り、ばっ! と体を離した。


「あ、悪い……でも、俺、嬉しくて」

「ふうん?」


 そうだよな。

 昨日も顔を合わせたはずの俺がこんなことをするのは、変だ。俺にだって七夕の日に遠くの任務につかされてしまった記憶はある。……その時は、何事もなく深夜に帰ってきて、眠い今日を迎えたのだが。


 ここにいる俺はあくまでも7週間前の俺だ。……あまり不自然な態度は見せない方がいいだろう。言えるわけがない。


 依呂葉を助けるためにここに舞い戻ってきたのだ、なんて。


 つまりこれは……


「いや、忘れてくれ」

「うん、ありがとう?」

「……っ」


 そう言って2歩ほど下がった依呂葉と結ばれていた手が解けて、思わず呻きそうになった。脳内にドロリと黒く重いものが垂れ込めてくる。


 つまり。

 つまりだ。


 俺はたった一人で、未来に起こる惨劇を回避する手立てを考え、実行しなければならないのではないのだろうか。

 俺は7週間前の世界に、たった1人取り残されている。


「えへへ、今日は1人で虹化体を殺してきたんだよ。ほんとならお兄ちゃんと一緒にやるはずだったんだけどね……午後からはいけそう?」

「ああ。悪かったな。もうこの通り元気だから」

「よかったー!」


 俺の胸の内を知らない依呂葉は、ぱちぱちと手を叩いた。

 無邪気な笑顔もその行動も、依呂葉が│昨日8月25日まで俺へと向けてきたものと全く変わらない。しかし、俺の方だけは、この一晩で絶望的なほど変わってしまった……


「でも、お兄ちゃん。いくら包帯があってもさ……あの量のキズが全部一晩で治っちゃうのは速いね。前までそんなだったっけ?」

「いやー、どうだろうな。いい包帯使ってたんじゃないか」

「まあ……うん、早い分にはいい事だけどね」


 そう。

 回復が早い……それは、俺がもう人の体を捨ててしまったからにほかならないのだ。


 そういうことだろう。俺の体が丸々過去に戻ってきたというこの事態が本当ならば、俺が1度殺され──虹化体として復活してしまったこともまた、事実なのだろう。


 そしてそれは、俺はもう一生! 依呂葉と同じ道を歩むことが出来ないということも意味する。


 人間──依呂葉が今を生きる理由は、両親を殺した虹化体を皆殺しにすること。


 虹化体──俺が過去を生きる理由は、最愛の│いろはを守り抜くこと、なのだ。


 依呂葉はもう一度俺の手を取ると、勢いよく俺を立たせた。俺が変わってしまったことなんて露も知らないような、晴れやかな顔で。


「さ、行こうお兄ちゃん! 虹化体の出現予想時刻まであと10分だから!」


 その輝く笑顔に真実を告げる勇気は、今の俺にはなかった。

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