8月25日(2/3)
「せい──やっ!!」
依呂葉の髪がばさりと円を描き、指先までピンと張られた突きが、虹化体の核を捉えた。
ピシリ、と薄氷が割れる音が響き、静寂。一瞬の間の後、虹化体の体をなしていた虹素が一斉に凍りついた。
「お見事!」
「楽勝ってもんよ! こんな、クズに負けるような腕はしてないからね」
パラパラと舞う黒粉の中で、依呂葉は凄惨に笑った。……この顔は、軍に大勢いる依呂葉のファンには見せられないな、と思う。
俺が虹化体の出現を予測する勘がいいならば、依呂葉は虹化体の核を嗅ぎ分ける力に秀でている気がする。もっともそれは……隠してなお余りある殺意のなせる技のような気がするが。
悠々と歩いてくる依呂葉に、右腕を掲げる。彼女は虹素まみれの顔に満面の笑みを浮かべて、力強くハイタッチを返した。
「やったねお兄ちゃん! ……これでまた一体、パパとママの仇が減ったよ」
仇。
そうなのだ。
俺達には、勉強よりも戦いを優先する理由がある。
まあ今の時代珍しくもないのだが、俺と依呂葉は虹化体孤児なのだ。
10年前の夏、虹化体によって両親とその一族が殺された。
ただの虹化体じゃない。
世界に7体しかおらず、今依呂葉が仕留めた虹化体なんかとは比べ物にならないほど凶悪な、《大罪虹化体》と呼ばれる個体にやられたのだ。
それ以来、依呂葉の心は復讐に囚われたままだ。
戦うことにしか楽しみを見いだせない、哀れな妹──
「……そうだな、依呂葉。この調子だ」
ただ、喜ぶ妹を見ていたら、余計なことを口出す気にはならない。依呂葉が悲しむところは見たくないのだ。
というわけで、俺がこんな楽しくもない仕事を続けられているのは、依呂葉の復讐を手伝うため……依呂葉の願いを、叶えるためだったということになる。
「ところでさ」
人知れず拳を握る俺に、依呂葉は首をこてんと傾げた。
「あれから山田くん、来なかったね」
ハッとした。
戦闘を開始する前に、あの女の子……宇佐美さんを連れてこの場を離れて以来、山田さんはここへ戻ってきていなかったのだ。
「そう言えばそうだな。この辺に交番あったよな? そこまであの子を送り届けるなんて、数分で済むはずなのに」
「うん、それに、あの意味深な顔も気になったし。なんか悪いことに巻き込まれてなきゃいいけど……」
あ、そこは見てたのな。
──なんて感心した直後、俺の頭はまたしても強い電流を浴びたように痺れた。
視界がぐらつき、依呂葉の心配そうな顔がぼやける。たたらを踏んで転ぶのを耐えると、腰から再び
「……お兄ちゃん?」
「依呂葉、今日の虹化体討伐、もう一件とか無いのか? これ、……悪い予感どころじゃないぞ、絶対来る……!」
言いながら端末も開く。
俺の勘はよく当たるのだ。虹化体が出現するのなら、この辺りのストレスがかなり高まっているはず。確信を得るためにはストレス計測システムを利用するしかない。
しかし、数秒のロードの後に開いた画面は、一面安全を示すグリーンだった。
今虹化体を討伐したことで、この辺りのストレス濃度がガクッと下がったことを示している。……とても、虹化体が自然発生する濃度ではない。
「いや、それはおかしいだろ」
では何が、俺に訴えかけているのか。
この、脳髄まで響き渡るような強い感情は、一体何なんだ!
「依呂葉、ちょっと、アレ使ってくれないか」
「えー、別にいいけど……山田くんのと違ってこれは使うと疲れる──」
「ごめん、それでも頼む」
依呂葉の目を見つめると、案外素直に頷いた。いつも無気力な俺が、ここまで切実に何かを頼んだのが初めてだったからかもしれない。
ゆっくりと瞬きをしてもう一度長い睫毛が上をむく頃には──依呂葉の瞳は、俺と同じ真紅に染まっていたのだった。
これは、虹が人類にもたらしたもう1つの事象。人の身でありながら人ならざる力を振るうことが出来る力。
ゆえに、天の恵み、《天恵》と呼ばれているものだ。
山田さんが読心に長けているのも、天恵によるものである。副産物ではあるが。
依呂葉の天恵は《予言》といいう名前が付いていて、文字通り、未来を視ることが出来る力である。
「じゃあ、いくよー」
程なくして、依呂葉の視線は宙をさまよい始める。
今、依呂葉の視界は「現在」の世界と「未来」の世界が重なって見えているのだと言う。
つまり、天恵を使用している間「現在」の依呂葉の体はかなり無防備になり、加えて目にかなりの負担がかかってしまうのだ。一人でいる時にはあまり使えない天恵だと言える。
事実、普段依呂葉がこの力を使うことはほとんどない。
だが、それでも。
俺の勘を勘のままで終わらせるのは良くないと全身が訴えていたのだ。こんなにおぞましい感覚を得たのは生まれて初めてだ。
依呂葉がうろうろと宙を眺めていたのは1分ほどだった。目の焦点が合ってくるにつれて、その色はゆるゆると黒に戻り出す。未来視が終わったのだ。
最後にぱちりと目を閉じると、──彼女は、笑った。
「ねえ、お兄ちゃん、来るよ」
「何が……」
「《憤怒》が」
憤怒。
その言葉の意味を理解できたのは、背後からおぞましい嘶きが聞こえてからだった。
*・*・*
千葉大災害。
俺と依呂葉の生まれ育った
災害と呼ばれているが、これは気象や自然によるものではない。虹化体による人的被害のことも、現代では災害と呼んでいる。
人類がどう足掻いても虹化体には敵わない、という一種の畏怖がそこに表れているのだろう。
そして。ひと仕事終え、さらに仲間の1人足りない俺たちの前に現れてしまったものが……
「グァァァッ!!」
……通常の虹化体より少し大きめの体躯に、こちらを見定めるように動く赤い目、指の動き一つ一つに意思が見える手。
そして、額から伸びる一本の角。
間違いなく、《憤怒》の虹化体だ。
依呂葉の様子がいつにも増して狂気じみているのは、こいつのせいである。
俺たちの一族を滅ぼして以来10年間、1度も人里に姿を見せたことのなかった《憤怒》の虹化体が……今ここに現れてしまったからだ!!
「グォォォ──!」
嘶きひとつ取っても、並の虹化体とは段違いの力があるのが分かる。赤い穴のような目に見つめられるだけで、小心者の俺は身体がすくみ上がった。10年前、まだ幼かった依呂葉はこいつと
「依呂葉、落ち着け。予期せずこいつと見えて、興奮しているのは分かるが──っ」
なだめるべく肩を叩いて、思わず声を上げそうになる。
少女らしく細いその肩が、人類が発してはいけないと思うような怒りでぐらぐら茹だっていたのだ。
「フーーッ……お兄ちゃん、ちょっと、行ってくるね」
「おい待て……ッ! だから様子を」
そして依呂葉は俺の声に耳を貸すことなく、飛び出してしまう。
分かっているのか。個人で大罪虹化体を討伐した人間は、今までただのひとりもいないってことを!
大罪虹化体とまともに向き合った人間は──死んでしまうのに!
依呂葉はそのまま突き進んでいく。
漆黒の篭手を嵌める指先を揃え、人間なら受け切ることはほぼ不可能だと言える、流星のような突きを──
「グァハハ!!」
「んあっ!!」
──憤怒はその恐るべき敏捷性で下に躱した。依呂葉の腕は憤怒の頭上を薙ぐ。そればかりか、憤怒は屈んだエネルギーをそのまま四肢の思しき突起に回し、伸び上がりながら体当たりをかました。
まるで濁流が川底を削りながら方向転換をするような勢いに、依呂葉は激しく舌打ちをすると、右足をその身体に打ち下ろす。
さすがにこれは、避けられない。
ばるるっと憤怒の体が振動し、エネルギーを失ってたたらを踏んだ。
俺のいるところまで、その衝撃が伝わってきくる。恐ろしいことに、あのゼリー状の虹化体の体に震脚を落としたというのだ。
そして、そんな依呂葉の戦いを見ている俺の体は……刀を握った状態で固まってしまっていた。
このハイレベルすぎる戦いに、これまで真剣に戦いに身を投じてきた訳でもない凡人である俺が入り込むことは、出来ない。
ああ、俺は、無力だ。
どうしようもなく。
憤怒を倒すどころか、無茶をする妹1人を止めることすら出来ないなんて。
悩んでいる間にも、2人の戦いは続いていく。依呂葉の連続した蹴りを避けるために、憤怒はゴムボールのように地面を弾むと、依呂葉に対して距離をとった。依呂葉は近接戦闘を好む。それゆえ、距離を取られると手出しができなくなる。
これまで回避行動など取ったことのない憤怒が、初めて交代したのだ。依呂葉を敵として認めたかにも見えるその行動に、依呂葉のボルテージがますます上がっていく。
しかし。
退いたその赤い眼が見つめていたのは、相対する依呂葉ではなく、──俺だった。
全身が粟立つ。
依呂葉は怒りで判断力が鈍っている。この予想外の行動に反応が半歩ほど遅れた。そして、それほどの時間があれば、世界最凶の化け物はぐいと目標、つまり俺へと腕を伸ばしている。
俺が刀を握る腕を擦りあげるまで0.5秒。
刀を右に凪ぐまで0.3秒。
憤怒がその指を大きく広げ、突き出すまで──0.02秒。
「がっ……は……」
気付けば、俺の体には赤々とした穴が空いていた。深い喪失感の元を辿れば、穴が空いているのは胸部。心臓のあたりをやられたように思える。それを意識できたのも極わずかな間で、俺は地面に倒れ込んだ。秒刻みで体からは血が溢れ、体温が溶け、思考が鈍くなっていく。
なんだよ、なんだよ、これ……
俺、死ぬのか?
「お兄ちゃ──」
依呂葉が叫ぶ声が聞こえる。同時に、滅茶苦茶に暴れているのだろう、強い振動。互いの攻撃が命中しているような感じは受けないが、はっきり言って、時間の問題だ。現に俺は今、虹化体からの攻撃を防ぐことに特化したこの戦闘服にやすやすと穴を開けられてしまったのだから。
両親をこいつに殺された依呂葉の前で、俺がやられた。きっと彼女の脳裏には悪い記憶が延々とフラッシュバックされ、理性というものがすべて消し飛んでいる状態なのだろう。
だめだ、依呂葉。そんなんじゃ、本物の化け物には勝てない。俺はいいから、一旦落ち着いて……
「……い」
「つまんねぇぇな」
声を上げようとしたその時、何者かの悪罵が聞こえた。何かが
「つまんねぇよ、慧央」
何故か俺の名前を知っている第三者は、何かを蹴飛ばしながら近付いてきた。ぬちゃり、ぬちゃりと……
ごろん。
「あ」
俺の目の前に転がってきたのは、首だった。
髪が血で張り付き、瞳は虚空を見つめ、般若のように壮絶な顔をしている、……依呂葉の……
死んだ? 依呂葉が?
「あ、あ」
「つまんねぇつまんねぇつまんねぇつまんね──ッ!!」
放心状態の俺は体を強く引き上げられ、あっという間に数メートルの高さ──虹化体の目線の高さまで持ち上げられる。
俺の襟首を掴む腕は黒くぶよぶよしていて、さっきから喚いている奴の正体は、憎むべき憤怒だと分かった。
「シケた面してんなァ、慧央。
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