第4話 食い意地もほどほどに


「ちゃんと手加減するつもりだったもん!」


 紅は両手で頭を押さえて、涙を浮かべながらユージンを睨みつけている。


「死ねええええって叫んでた奴の言葉を信じられるか。一ミリの信憑性もないわ」


 というか、ギフトをコントロールできていないらしい。空から放った一撃は火事場の馬鹿力というやつだろうか。


 たぶん虎丸紅子という女は、脳みそとは別の部分から身体を動かす信号が出ているのだ。そんなやつと関わっていては、命がいくつあっても足りない。


 ユージンは2度と紅の言動に心を乱されるまいと心に誓った。


「お腹減った。おまえの家でなんか食べさせて」


「情緒がぶっ壊れてんのかテメエ!」


 2秒で誓いは破られた。


 再び修羅場に突入しなかったのは、鼻をついた異臭のせいだ。


 充満するリンゴの甘ったるい香りに、腐った沼のような匂いが混じる。吐き気を誘う最低な匂いだった。


「なんか、臭いぞ変態。おまえの部屋みたいな生臭い匂いがする」


「俺じゃねえよ馬鹿。たぶんバカの匂いだな。脳みそが空っぽの獣臭だ」


「戯れてるとこ悪いんだけどねお二人さん。たぶんアレの匂いじゃないか」


 冬の指差す先にいたのは、一頭の巨大な獣だった。


 そいつは猿に似ていて、縮れた黒い毛に覆われている。やや前傾姿勢で立っているが、背筋を伸ばせば2メートルぐらいあるだろう。


「ぎいぃィィ」っと鳴くと、だらりと伸ばした腕から乾いた泥がパラパラと地面に落ちる。笑ったのかもしれない。しかし皺だらけの顔が歪められる様は、かえって凶悪だった。


「冬っち、お猿さんだ!」


「あたしの知っている猿には、女の腰より太い腕なんてついてないけどね」


「マッドモンキーだ。しかも普通の個体より2回りはデカイ」


 異獣という生物がいる。


 種族固有のギフトのような能力を宿した獣の総称である。その種類は様々だ。竜族や人狼族のように高い知能と社会性を構築する種もいれば、食欲に支配された野の獣と変わらないものもいる。


 目の前でボタボタと涎を垂らしている相手は、どう考えたって後者だ。


 マッドモンキーは四つ脚の体勢で跳ねるように畑の中に入ってくると、地面に散乱するリンゴを手当たり次第に食い始めた。グチャグチャと咀嚼する音が、静寂の中に響く。


「一応聞くけど、リンゴ好きってことは草食?」


 隣に立っていた冬の形のいい眉は、ピクピクと震えている。


「好き嫌いのないお利口さんだよ。糞からサルの頭蓋骨が飛び出てるのを見つけた時は、晩飯が食えなくなった」


 共食いに近い絵を想像してしまったのか、冬は顔を顰めた。


「ちなみにアレは、一般人がどうこうできるものなのかな」


「うちの村人なら引きこもってやり過ごすな」


「君はどうなんだい、ずいぶん冷静だけど」


「聞いてなかったのか、一般人は隠れてやり過ごすんだよ。少なくとも丸腰じゃ追い払えない。刺激しないように逃げよう」


 ユージンはマッドモンキーに正対したまま、背後で恐怖に凍りついている異世界人に合図を送る。両腕を広げて後ろに手を振ってみると、微かに人の動く気配が伝わってきた。


 しかし直ぐにまた、根がはったように足が止まる。


 マッドモンキーが食事の手を止めて顔を上げたからだ。餌場を荒らすライバルを黄色く濁った瞳で睨みつけている。引き攣るような小さな悲鳴が、どこからか上がる。


 悲しむべきか喜ぶべきか、その場に居合わせた人々を救ったのは、日頃のユージンの努力だった。


 よほどリンゴが美味かったのだろう。マッドモンキーは慄く人々の視線などそっちのけで、直ぐにハグハグと食事を再開した。口をいっぱいに膨らませながら、両手にも実を握りしめている。


 もはやお猿は、胃袋どころか脳みそまでリンゴにつかまれてしまったようだ。


「そうだ、焦らないで」


 その間にゆっくりと、紅や冬と一緒に後ろに退がる。いきなり背を向けて走り出すような真似はしない。それを真似て背後の人々も少しづつ動き始めた。


 獣の匂いが薄まってくる。距離にすれば8メートルもないところを、たっぷり5分以上かけて移動しただろうか。ピクリ、とマッドモンキーの鼻先が動いた。


「キシャぁぁァァァ」と甲高い鳴き声をあげて、最も近いユージンを睨みつける。バレた、でも一体どうして急に。


「まふいぞモブ農民、あいふ怒っているみたいだ!」


 背後からかけられたくぐもった声に振り返ると、リンゴをほうばる猿がもう一匹いた。


「これ、マジでうんみゃーな」


 モサモサと口を動かす紅の両手には、比較的原型をとどめたままのリンゴが山のように抱えられている。


「なんでテメエも食ってるんだよ!」


「だってわたしもお腹減ってるのに、あの猿だけずるい!」


「てめえは食い意地のために死ぬ気か!」


 自分の飯を横取りされて、マッドモンキーは怒った。どうやら睨みつけていたのは先頭のユージンではなく、その直ぐ後ろでリンゴを抱えた紅だったようだ。


 手にしたリンゴを放り出し、両手を地面について後ろ足に力をこめている。今にも飛びかかってきそうだ。


「食べたら元気出てきた」


 紅はそう言うと、両手に抱えたリンゴを冬に押しつけて一歩前に進み出た。手のひらをマッドモンキーに突き出して不敵に笑う。


「勇者の初陣だね」


「おいバカ、5分前のこと忘れたのか」


 ついさっき、ギフトは不発に終わったのである。しかし言いながらユージンの脳裏によぎったのは、「火事場の馬鹿力」という言葉だ。


 紅が初めてギフトを使ったのは、空中に放り出されている時だと言っていた。迫る地面は、命の危険を感じさせただろう。そして無我夢中で放ったのがあの威力のビーム。


「私は逃げないよ、みんなのピンチに立つのが勇者だからね」


 そして今、眼前に迫ってくるマッドモンキーは命を脅かすには十分な存在だ。そんな存在を前にしても、この女は怯まない。 


 徐々に、ほんの少しずつだが紅の手のひらに淡い光が集まってくる。ユージンはその横顔に尊さを見た。そして散々重ねた否定の言葉を恥じた。


 彼女は今、背後の仲間たちを守るために足を前に踏み出しているのだ。


「すまん。もしかしたら本当に、おまえが勇者かもな」


「当たり前じゃん」


 ニヤリと笑った横顔を見て、ユージンは紅を止めようと伸ばした手を引っ込めた。マッドモンキーはすでに大地を蹴って駆け出している。


「それわたしのおおおぉぉぉぉぉ!」


 紅の叫びは内容はともかく声量は立派だった。迸る光もまた立派だった。


 ぽひょう。


 だけど手のひらからこぼれ落ちた光は、やはり情けなかった。


「んん。だめだ、やっぱり出ない」


 身を捩らせる紅の頭上にグローブみたいな掌が降ってくる。当たれば綺麗な顔が赤いミンチに変わるだろう。


「勇者どころかサル同士の餌場争いじゃねえか!」


 ユージンは目の前の小さな背中に思い切り体当たりをぶちかます。覆いかぶさるように地面にダイブ。風が通り過ぎた場所に紅の顔はもうない。かわりにユージンの背中にネットリと嫌な感触が這い上がる。


「にぎゃああああああああ、痛い、キモい。離れろモンスターーーー!」


 胸の下で紅が無茶苦茶に腕を振り回すせいで、腹をしこたま殴られた。その度に背中が痛む。ユージンは紅の顔を覗き込んで声を張り上げる。


「落ち着け、おまえは無傷だ」


 鼻先がぶつかるくらいの距離で視線がかちあう。嗅いだことのない花の香りが、紅の髪から漂ってくる。いい香りだ。ユージンは幼な子に言い聞かせるように、痛みに耐えて微笑みを作った。


「大丈夫、俺だよ」


 紅の瞳の中に正気の光が戻ってきた。


「ぎゃーーーーーーー、犯されるうううううううう!」


 ついでに手のひらの光も戻ってきた。明らかに勇者ムーブの時より強烈な勢いのビームが、ユージンの腹の下で爆ぜた。


「出てんじゃねえよバカやろう!」


 宙を舞いながら、痛みも忘れて叫んでいた。ずいぶん遠くなった地面には、閃光に驚いて逃げ出すマッドモンキーの姿が見えた。


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