第1話 結局普通の農民がいちばん楽しい

 思えばその日は朝からおかしな天気だった。抜けるような青空から、強烈な日差しと一緒に音もなく雨粒が落ちてくる。


 朝には畑に出ていた村人も、珍妙な天気を嫌がってさっさと家に引きこもってしまった。


 収穫を間近に控えたリンゴ畑の中は、湿気と熱でサウナのようだ。雨だか汗だかわからない雫が顎の先をつたって、畑の土に黒い染みを作る。


 ユージンは農作業の手を止めた。


 甘い香りが胸の中の空気を満たしてくれる。豊作は間違いない。今年はシードルでも仕込もうか、なんて考えながら畑を見回すと、退屈そうなに作業を眺めていた幼馴染が大きなあくびを噛み殺している。


「なあ、ユージン。うちのクソ親父だって、雨を見た途端に喜んで二度寝を決め込んでるぞ」


 金色の髪が日差しを浴びて輝いている。その眩しさに目を細めて、ユージンは幼馴染の方に向き直った。農村の子のくせに、なめらかな肌には日焼けのシミなど一つもない。

 

 同じ金でもくすんだ色をした髪に、百人並みの地味な顔をぶら下げた自分とは大違いだ。


「やかましいぞユフィ。日々の地道な労働こそが、農民にとってもっとも尊いのだ」


「じじくさい奴め。おまえには潤いってもんが足りない」


 背丈は小さいのに威勢はいい幼馴染の名前はユフィ。村長の一人娘で、ユージンにとっては家も隣同士の腐れ縁だ。


 ユフィはつま先をめいいっぱい伸ばして、手近にあった枝からリンゴをもぎ取った。袖口で表面をゴシゴシと拭ってかぶりつく。


「うへえぇぇぇ」


 まだ若い実は酸っぱかったらしい。ユフィが悲しげな顔で自分の齧った跡を見つめているのを見ると、ついついユージンの手も動く。こういう愛嬌が、口の悪さを帳消してくれているのだろう。


「勝手に食うからだ、そっちの品種はまだ早い」


 品種によって収穫時期が違うのだ。ユージンが熟した実を選んで放り投げてやると、ユフィは器用にキャッチした。


「うん、やっぱり王都のパティシエから注文が来るだけあるな」


「そりゃあ重畳だ」


 ユフィの顔に、美味しいものを食べた時の幸せな笑みが広がる。ユージンはその顔が好きだった。大抵の人間は物を食えば、取り繕ったものではない素直な色が浮ぶ物である。


 混じり気のない幸福を生み出したのが、自分の育てたリンゴなのだ。


 それがユージンにとっても一番の幸せだった。


 ユフィはあっという間にリンゴを平げた。軽い足取りでくるりと回ると、茶色いプリーツスカートの裾がふわりと膨らむ。


 しかし正面に戻ってきたユフィの顔は、いささか不機嫌なものに変わっている。これであんがい頭の回転の速い幼馴染は、喜怒哀楽がそっくりそのまま顔に出るものだから忙しい。


「なあ、ユージン。おまえはこのまま村から出ないのか?」


 それは何度も繰り返された、ユフィからの問いかけだった。


「俺にはのんびりとした田舎の暮らしが性にあっているんだ」


「バイタリティのない奴め。これだから最近の若いやつは」


「同い年だろうが。それにユフィみたいにギフトでもなければ、立身出世なんて夢物語さ」


 ギフト。それは神様からの贈り物。


 あるものは魔法のように炎を操り、またあるものは空を自由に飛び回る。そんな夢のような能力を持った人々を、世間はギフテッドと呼ぶ。残念ながら、ユージンにはそんな特別な力はなかった。


「生き死にかかった大冒険はおまえに任せて、不祥の幼馴染は遠くで活躍を眺めさせてもらうさ」


 ユフィには、ギフトがある。村長は大喜びで都会のギフテッド専門の学校にやると息巻いている。だというのに、当の本人がそれを拒否しているのだ。


 田舎の暮らしを否定しながら、都会の栄達の道を拒む。ユフィの考えが、ユージンにはよくわからなかった。


「あたしだって、冒険なんていらないから、ずっと側で見ていたいのに」


「はあ?」


「なんでもないよ、バカ」


 口の中でモゴモゴと何か言ったあと、ユフィは本格的に機嫌を損ねたように頬を膨らませた。


「そういうユフィこそどうするんだよ。村長にせっつかれているんじゃないのか」


「まだダメなんだ。荷物がまとまってないからね」


「荷物って、王都に行けばなんだって揃うだろ」


「この村にしかない大事なものなの!」


 ピシャリというユフィだが、ユージンには頭の痛い問題なのだ。実は村長にユフィの説得を頼まれている。


 曰く、ああなったユフィはおまえの言うことしか聞かん、だそうだ。


 村長の72時間に及ぶ必死の説得に、ユフィは自室への立て籠りと言う手段で応戦した。その間飲まず食わずである。


 これは爺さんが死んで、ユフィの家で暮らす話を断った時の記録を塗り替えた。ぶっちぎりの最長記録だ。


 ようやく顔を見せたのは、村長に頼まれたユージンが部屋のドアをノックしてからだった。


「おまえは昔から頑固だもんな」


「それ、ユージンにしか言われたことないぞ」


 大いに異を唱えてたいところだが、ユフィは村では才媛で通っている。村長の娘として客がきた時には猫をかぶれるし、ギフトだけでなく随所に如才ない。


「ま、世の中に名を残すのはそういう奴なのかもな」


 しかしそれで困るのはユージンである。ユフィが旅立ちを拒むのはユージンのせいだという空気が村に流れ始めているのだ。


 ユージンはユフィの言葉をそのまま伝えた。しかし「荷物」とやらを用意すればいいと主張しても、みんな呆れたようにこちらの顔をじっと見つめて、ため息をつくばかり。村中の視線が痛い今日この頃です。


特に村長は、娘が孤児に懐いているのを快く思っていない節がある。


「ユージンだって剣があるじゃないか。あの変な形のやつ」


「アレは趣味の一環だ。俺に剣術の才能なんてないさ」


 ユフィが言っているのは、ユージンが毎朝日課にしている素振りのことだろう。しかしそれは、畑で見つかった剣をネコババして運動がてらやっている習慣でしかない。


「あの冒険者に言われたことを、まだ気にしてるのか。あれは……」


「俺はさ、ユフィ。今の日常が気に入っているんだ」


 ユージンは微笑みでユフィの言葉を遮って、大きく一つ伸びをした。


「取り柄もない俺だけど、畑があって健康な体がある。ついでに口は悪いが根は真っ直ぐな幼馴染もな。だから俺は、一所懸命この日常を守るんだ」


「現状に満足して浸るなんて、ちっさい男だね」


「やかましい、その現状を作っているのは俺の日々の努力じゃ。それに現状維持じゃないぞ、今だって新しい品種を開発中でだな」


「まあ、嫌じゃないけどね」


 ユフィはなぜか切なそうに眉尻を下げた。泣き笑いのような表情は一瞬で、すぐに揶揄うように目を細める。


「だけどそれ、無理だと思うよ」


「なんでだよ」


「ほら、ユージンって不幸吸引体質じゃん。オマエが幸せな時ってのは、なにしら大きなトラブルの匂いがする」


 ユフィはニッと悪戯な笑みを浮かべるが、トラブルメーカーはどちらかというとユフィの方である。ユフィが退屈と断じた田舎の暮らしは、ユージンにとっては平穏の別称だ。


「幸せを噛み締めるたびに死にかけてたまるか。だいたい裏山で遭難しかけた時も、詐欺師が暴れた時も言い出しっぺはおま」


 ドオォォォン!!!


 ユージンの言葉は大きな雷鳴にかき消された。


 驚いて空を見上げれば、晴天に霹靂が走る。


「ちょっと待て、なんだよアレ」


 初めは稲光だと思った。しかし空に走る白い線は、いつまでも経っても消えることなく残っている。それはまるで、力任せにガラスを殴ったあとにできるひび割れのようだ。


 ビシッイ、と不気味な音を立てて、ひび割れた空が剥がれ落ちる。


 次に襲ってきたのは凄まじい烈風だった。ユージンとユフィの体を軽々と持ち上げ、畑の外へと弾き飛ばす。直後、目を覆いたくなるような強烈な光りとともに、空のカケラが畑の中心へと降り注ぐ。


 強烈な衝撃に大地はめくれ上がり、たわわに実ったリンゴたちが宙を舞う。ユージンは必死でユフィを抱え込みながら地面を転がると、腹の底から叫び声を上げた。


「リンちゃん、あぽーくん、アプリカーナ!!」


 腕の中でユフィがガン引きしているが、今はそれどころではない。トマトにクラシック音楽を聴かせる栽培方法があるのだから、リンゴに名前をつけるぐらい普通である。


「キッモ」


 轟音に耳鳴りがしているせいで、幻聴が聞こえてきた。


「幻聴じゃな」幻聴が聞こえてきた。大事なことなので2回言いました。


「だから幻聴じゃな」まったくしつこい幻聴である。空気を読んでほしい。


 ユージンは痛む体を引き起こすと、粉塵の巻き上がる畑の中心を睨みつける。


 砂埃が巻き上がる中で、ユージンは迂闊なフラグを立てたユフィと、自分自身のツキのなさを呪った。

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