第38話 秘めたる願い


 姜氏の声が遠ざかり、宮殿には長い長い沈黙が落ちた。


 皇帝は特に何も告げることなく護衛たちと去っていき、あやかしたちは空気を読んでくれたのか、自らの住処すみかに戻っていった。

 玉玲と幻耀だけが、宮殿の入り口に粛然として立っている。


 幻耀はいつまでも文英の後ろ姿を見送っていた。背中が見えなくなっても、いまだに。


「太子様」


 そっとしておこうか迷ったが、玉玲は声をかけることにした。彼が迷っているように見えたから。一人で答えを見つけられないのであれば、背中を押してあげたい。


「このまま事件に幕を引いてもいいんですか? 文英さんを死なせてしまっても」


 問いかけてしばらく待つも、幻耀からのいらえはない。誰もいない遙か遠くをただじっと見つめている。


「彼自身は誰も手にかけていません。暗殺事件のことだって、家族を助けるために仕方なく姜皇后に従ったんです」


「わかっている。だが、文英の犯した罪は明白だ。教唆きょうさされたとしても皇族を暗殺しようと謀れば死罪は免れない。それがこの国の法だ。俺は太子として法を遵守しなければならない。どうしようもないことだ」


 幻耀は、玉玲にではなく、自らに言い聞かせるように主張した。


 玉玲には、彼が必死にあきらめようとしているだけにしか見えなかった。でも、あきらめきれない。だから、まだここにいる。


「太子としてではなく、あなたのお気持ちはどうなんですか? このまま文英さんを見殺しにして、後悔することなく生きられますか? 彼はあなたを幼少の時から見守ってくれていた、兄のような存在なんですよね? 本当に失うことになってもいいんですか?」


 玉玲は怒濤のごとく質問した。本当の気持ちを暴き立てるように。

 それは、あきらめようとしている幻耀には、残酷な質問なのかもしれない。でも、文英を信じる気持ちがまだ残っているなら、少しでも彼を大事に思っているのなら、あきらめてほしくなかった。可能性があるなら、賭けてほしい。とても難しいことを言っているのはわかるけれど、玉玲もあきらめたくないのだ。

 守りたい。文英のことも、幻耀の思いも。

 これ以上彼に大事なものを失わせたくない。


「一人にしてくれ」


 幻耀は冷ややかに告げて、宮殿の中へと戻ってしまう。


 玉玲は幻耀の背中をただ見つめながら祈った。

 彼が納得のいく答えを見つけられるように。

 みなが幸せになれる道が見つかるように。



   ※



 翌朝。

 眠れぬ夜を過ごした幻耀は、とある場所へと向かっていた。

 自分はありえないことをしようとしている。半月前であれば考えもしなかった選択だ。

 全て彼女のせいであることは明白だった。型破りで、おせっかいで、無鉄砲なところもあるが、底抜けに明るくて、あきれるくらいに前向きで、思いやりのある少女の。


『信じて行動する方が、恨んだり疑ったりすることより幸せだと思うから』


 ふいに、烏洲で言われた彼女の言葉が脳裏をよぎった。

 もしかしたらあれは、自分の過去も思いも察したうえで贈ってくれた言葉だったのだろうか。

 そんなことを考えながら、北後宮の大路を南下していく。


 向かっているのは、乾天宮の南西にある獄舎。罪を犯した人間を一時的に収容する、長らく使われていなかった場所だ。この北後宮には今、ほとんど人がいないから。昔は太子の妃や子供、それらに仕える宮女や宦官が大勢いた。あやかしたちも今より自由がきき、そこかしこで見かけたものだ。

 今とどちらがいいか。思いを巡らせながら歩いていると、前方に石造りの質素な建物が見えてきた。そこに、これから会おうとしている樹妖がいる。


 同じ属性の木が近くになければ、樹妖は姿を消す妖術が使えない。護符を奪えば、母体となる木に魂が戻ってしまう。だから、捕らえるだけにとどめていたのだ。


 幻耀は獄舎に入り、すぐ先にある狭い檻房の前で足を止めた。

 鉄格子でできた入り口の向こうに、若い女性が背中を向けて寝転がっている。

 薄茶の髪と薄桃色の瞳は、彼女の姉と同じ。顔も姉妹だと言われれば納得できるほど似ているが、長身な姉に対して彼女は低く、穏やかで優しかった雪艶とは、性格や雰囲気が全く違う。


「雪珠と言ったな」


 静かに呼びかけると、雪珠はハッとした様子で起きあがり、こちらを鋭く睨みつけた。


「貴様は――!」


 敵意を剥きだしにする雪珠に、幻耀は淡々とした口調で伝える。


「文英は全てを自白して捕らえられた。死罪は免れないだろう」


 雪珠はカッと目を見開き、憤りをあらわに言い放った。


「ならば、私のこともさっさと殺せ! 本懐を遂げられなかったのだ。もう生きている意味はない!」


 幻耀はさやに包まれた短刀と薬包をふところから取りだし、鉄格子の隙間に置く。


自刃じじん賜薬しやくか、死に方を選ばせてくれるというわけか。だが、あやかしには毒も薬もきかない。そんなことも知らないのか?」

「誰も死ねとは言ってない。それで本懐を遂げればいい」


 雪珠は眉をひそめて「本懐?」とつぶやき、再び敵意を向けた。


「それは貴様を殺すことだ!」

「いや、違うな」


 幻耀は即座に否定し、一晩考えて出した答えを突きつける。


「共犯者の名を吐くよう迫った時、お前は命を犠牲にしても文英の秘密を守ろうとした。姉が命がけで守ろうとした男を自分が守る。それがお前の本懐だ。違うか?」


 雪珠は雪艶の半身のような存在だと、文英が話していた。だとしたら、きっと幻耀に恨みを晴らすことより、文英を守りたいと考えるだろう。雪艶は己のことよりを気遣うようなあやかしだった。性格は違っても、根本は変わらないはずだ。姉が大切にしていたものを、きっと雪珠も大事に思っている。


「俺は確かに、お前の姉を滅した。仕方のないことだと思っている。だが、俺は母を失った悲しみにとらわれ、雪艶の事情をおもんぱかることができなかった。その詫びとして、お前には本懐を遂げさせてやる。雪艶を死に追いやった皇后のことも、必ず裁くと約束しよう」


 決意を伝えると、雪珠は見開かれた目をわずかに揺らした。


「その薬包の中身は眠り薬だ。獄卒や門番に盛れば半日は目覚めないだろう。人の目に映らないあやかしならば、いくらでも薬を盛ることが可能だ。霊力のある人間に気づかれたら、その刀を使え。しびれ薬を塗ってある。軽く皮膚を傷つけるだけでいい。お前の身体能力と先導があれば、脱獄も不可能ではないはずだ」


 幻耀は檻房の鍵を開け、作戦について補足する。


「東門の呪符は一時的に効力を弱めてある。護符を持ったあやかしであれば、簡単に通れるだろう。城から人を連れて逃げることは、容易ではないだろうがな」


 肩をすくめる幻耀に、雪珠は目をしばたたいて尋ねた。


「この刀で私が貴様を襲うとは考えなかったのか?」


 幻耀は小さく頷き、瞼を伏せて答える。


「どうやら、俺は変わりきれていなかったらしい。捨てられなかったのだ」


 信じる気持ちを。思い出させてもらったと言っていい。一人の少女と仲間のあやかしたちに。

 玉玲が背中を押してくれなければ、今ここには立っていないだろう。

 彼女の行動力と影響力には毎度驚かされる。後宮の空気を変え、かたくなだった自分の心まで動かした。本当に不思議な少女だ。


 束の間だけ苦笑した幻耀は、雪珠をまっすぐ見据えて告げる。


「母体となる木から長く離れれば、寿命を失うことになる。人の一生くらいは生きられるだろうが。それでも、お前は城から離れ、文英を守る覚悟があるか?」


 雪珠は考える間を挟むこともなく答えた。


「ある」


 真剣なまなざしを向けてきた雪珠に、幻耀は最後の言葉を贈る。


「もし、うまく脱獄できたら、融陶ゆうとうの北の外れへ連れていくといい。これからは家族と共に暮らせるだろう」


 ずっと優しく見守ってきてくれた、兄のような存在だった。

 命をかけて守ってくれた、たった一人の近臣だった。

 数奇な運命に翻弄ほんろうされ、自由を奪われ続けてきた文英。

 これからの人生は、家族に囲まれた穏やかなものであればいい。


 ――どうか幸せに。


 強く祈りながら幻耀は、駆けだす雪珠の背中を見送ったのだった。

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