第26話 密やかな口づけ


 いったい今、どこにいるのだろう。


 幻耀は母親を捜していた。今日は一緒に漣霞と食事する約束をしていたのに。

 約束の時間が迫っているというのに、部屋にも宮殿の周りにもいない。


 きっとあそこだ。母がよく遊びにいく西の園林ていえん。仲のいい樹妖が暮らしている場所。


 幻耀は夕闇が迫る薄暗い路を、明かりも持たずに歩いていた。

 気の強い漣霞のことだ。きっと遅れたら文句を言われる。早く母を呼んでこなくては。


 思った通り、母は桃の木が並ぶ西の園林にいた。桃の樹妖の雪艶せつえんと一緒に。


『母う――』


 呼びかけようとして、幻耀は言葉を呑みこんだ。

 母の様子が尋常ではなかったから。

 雪艶の方も。


『……母上。雪艶……?』


 母は口から血を流していた。そして、胸には短刀が。

 そのつかを雪艶が握りしめている。

 突き立てるように、強く。母の胸へと。


『うわぁぁぁぁ――――っ!』


 幻耀は真っ青になって叫んだ。

 意味がわからない。母が胸を刺されている。


 雪艶が柄を握って、更に胸の奥へ――。


 彼女が何をしているのか理解できない。だが、叫ばずにはいられなかった。

 母の胸に赤く咲いた花が、大きく広がっていったから。


 すぐに警備を担当している宦官が駆けつけてきた。

 どんどん人が増えてくる。


 だが、雪艶は母のもとを離れなかった。逃げようともしなかった。彼女なら簡単に消えることができるのに。おとなしく兄たちに捕まり、連行されていったのだった。


 その時の光景が頭から離れない。

 何年たっても。胸をむしばんで訴える。あやかしを信じるなと。

 信頼してもいずれ裏切るから。母を殺した雪艶のように。


 もう何も求めないから。誰も信じないから。どうか楽にしてほしい。

 つらい。悲しい。胸が苦しい。

 なぜか周りは暗くて何も見えない。寂しくて仕方がない。

 この闇の中で苦しみもだえながら生きなければならないのだろうか。

 たった一人で。

 

 出口の見えない闇と苦痛に絶望しかけたその時、どこからか声が聞こえた。


『大丈夫です。太子様を決して一人にはしません。私がずっと側にいて、あなたのことを守ります。だから、今は安心して眠ってください』


 優しく慈しみに満ちた声だった。


 声が聞こえるや、徐々に周囲の闇が取り払われていく。


 胸の苦しみも少しやわらいだ。なぜか手が温かい。母に握られているかのように。

 その安心感が、不安や孤独を体から遠ざけていく。


 今度は口に熱を感じた。

 柔らかく唇を包み、何かが体内へと流れこむ。まるで体をいやす天上の果実のように。蜜のように甘い液体が、全身へと染み渡っていく。


 そこからは、もう痛みも悪夢も襲ってこなかった。

 安らかな眠りに支配される。


 幻耀は右手にだけ熱を感じながら、その微睡まどろみに身をゆだねたのだった。



   ※



 小鳥のさえずりが意識を呼び覚ます。

 瞼を開けると、幻耀の臥室は朝焼けの光に包まれていた。


 知らぬうちに眠ってしまっていたようだ。夜更けに一時熱があがり、苦しそうにしていたが、薬を飲ませてからは表情が穏やかになったため安心し、睡魔に負けたのだろう。


 玉玲は、臥牀しんだいに横たわる幻耀の様子を観察する。

 顔には血の気が戻り、呼吸も安定していた。熱も夜更けよりだいぶ下がっている。


「よかったぁ」


 玉玲は安堵あんどの言葉と吐息をもらし、握っていた手を放そうとした。

 すると、


「……玉、玲……?」


 すぐ近くから聞こえた声にハッとして、動きを止める。

 幻耀が少しずつ瞼を開いていた。


「太子様? 目が覚めたんですね!」


 玉玲は喜びの声をあげ、放しかけていた手を握りしめる。

 安定した状態で目覚めれば安心できると、医官が話していた。もう大丈夫だろう。


 思わず手に力を込めていると、幻耀が眉をひそめて訊いてきた。


「ずっと握っていたのか?」


 我に返った玉玲は、直ちに手を放す。


「あっ、すみません。こうしていたら、少し表情が楽になったように思えたから」


 手を握りしめて励まし続けていたら、うなされることはなくなった。これは本当だ。

 そのことに関しては特に追及することもなく、幻耀は周囲を見回して尋ねた。


「この状況は……?」


「覚えてませんか? 太子様は宴の席で毒矢を射られて倒れたんです。すぐにここへ運びこまれ、昨日からずっと眠っていて、ようやく目が覚めたところでして」


 玉玲はできるだけ簡潔にこれまでの経緯を説明する。


 幻耀は記憶を探るように頭を押さえてつぶやいた。


「お前がずっとつき添っていたということか」

「ええ、まあ。放ってはおけませんでしたから」

「そこにある薬は?」


 近くの卓に置かれた薬包を指さされ、隠したいことがあった玉玲は内心ドキリとする。


「解毒剤と解熱剤です。毒味はしたので、大丈夫ですよ」


 ぎこちない笑みを浮かべる玉玲に、幻耀は怪訝そうな視線を向けた。


「俺が自ら飲んだのか? 意識のない状態で」


「……いえ、私が飲ませました。水に溶けこませた薬液を」

軍持みずさしを口に突っこんでか?」


「……一度はそうしたんですけど。薬液がどんどん口からこぼれてしまいまして……」


 玉玲はたどたどしく答え、先を続けられなくなって口ごもる。


「それでどうした? はっきり言え」


 追及する幻耀の目と口調に鋭さが増した。


 薬を飲んだ方法にそこまでこだわらなくてもいいのに。

 そう思いつつ、隠し通せないと判断した玉玲は、観念して口を開いた。


僭越せんえつながら、別の手段で飲ませました。……その、口移しで」


 最後の言葉を聞いたとたん、幻耀の目が胡桃くるみのような形になる。


 単に驚いているだけなのか。それとも、唇を奪われて怒っているのか。


「仕方がなかったんです! 他に手段が思い浮かばなかったから。これはれっきとした医療行為です! だから深く考えないでっ。どうかお許しください」


 玉玲は必死に弁明し、勘気に触れることを恐れて謝罪する。


「何回だ?」


「……は? 何が?」

「薬を飲ませた回数だ」


「え、えーと、二回です。熱が出て、少し苦しそうだったので」


 幻耀は若干衝撃を受けた様子で口もとを押さえた。


「二回もか」

「だから医療行為ですよ!?」


 玉玲は真っ赤になって訴える。薬を飲ませる時も、自分にそう言い聞かせたのだ。変な意識をするのはやめていただきたい。


 興奮する玉玲に、幻耀はあくまで冷静な態度で問う。


「初めてだったのか?」


「……は? 何が?」

接吻せっぷんがだ」

「だから医療行為ですって! 接吻はしたことがありません! あれは純粋な接吻として数に入りませんから!」


 玉玲は断固として主張した。年の離れたむさ苦しい男たちとずっと旅をしていたから、恋愛経験なんて全くない。それらしい思い出といえば、十二年前、笑顔の素敵な少年に助けてもらって、約束を交わしたことくらいだ。


「太子様はあるんですか?」


 自分ばかり恥ずかしい話をするのも悔しくなって尋ねる。


「何がだ?」

「接吻ですよ!」


 ――言わせんなっ。


「さすがにありますよね。十八歳の男性だし」

「いや、ない。近づいてくる女は掃いて捨てるほどいたが。女の相手をしている暇などなかったからな」


 意外な答えに、玉玲は驚きつつ少しホッとする。なぜ安心したのかよくわからないけど。


「それは申し訳ありませんでした。初めての相手が私なんかで」

「医療行為なのだろう? 気にするな」


 ――ぐっ。

 何も言葉が出てこない。


 口ごもっている間に、時間だけが過ぎていく。どうにも沈黙が落ちつかない。


「太子様、おなかがすきません? 食事でも用意しましょうか?」


 空気を変えるために提案した玉玲だったが、すぐに愚かなことを訊いてしまったと反省する。幻耀は異様なほど毒を警戒しているのだ。昨日のようなことがあれば尚さら、後宮での食事は避けたいと思うはず。


「ああ、すみません。後宮では食事を取らないのでしたよね。薬は何か食べてから飲んだ方がいいと思ったものですから」

「いや、いい。用意してもらおう」


「用意って、薬をですか?」


 目をしばたたく玉玲に、幻耀は素っ気なく答える。


「食事だ。お前の作ったものなら食べる。この体で城の外へ出るわけにもいかないからな」


 言葉の真意がすぐには理解できず、玉玲はしばらく瞠目したまま考えこんだ。


 ――今、食べると言った? 玉玲の作ったものなら、と。


 それはつまり――。


「はい! では、さっそくご用意します!」


 玉玲は笑顔で返事し、部屋から飛びだしていく。

 彼にとって、食事をまかせるということは、命を預ける行為に等しい。つまり、玉玲を信用してくれたということだ。そう思うと、うれしくてたまらなかった。

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