第8話 波乱の初夜


 玉玲が通されたのは、幻耀の執務室から五つ離れた部屋だった。

 通常、妃には主人とは別の殿舎が与えられるのだが、ここ以外の建物は今、あやかしたちの巣窟となっていて、住むことができない状態らしい。とりあえずは、幻耀が暮らす宮殿に部屋を与えられ、そこに仮住まいさせてもらうことになった。


 入室するとまず、螺鈿らでん細工の施された黒漆の屏風びょうぶが視界に飛び込んでくる。西側の窓は、窓枠を額縁に見立て、外の風景を取りこんだ梅窓ばいそうだ。広さは宮女の部屋の五倍はあるだろう。高価な調度品がぽつぽつと目につくばかりで、一人でいると物寂しくて落ちつかない。


 特にすることもないので玉玲は、用意された絹の夜着に袖を通し、臥牀しんだいに横たわった。夜具もすべすべとした手触りの絹で、上方を赤い天蓋てんがいで囲った豪奢な臥牀だ。これまた落ちつかなくて眠れない。薄っぺらい木綿もめん衾褥ふとんと宮女たちのいびきが恋しい。


 眠れない理由はもう一つあった。幻耀の母親があやかしに殺されたという話。

 文英の言ったことは本当なのだろうか。彼は詳しい話を聞かせてくれなかったし、まさか幻耀に直接尋ねるわけにもいかない。あやかしが人を殺すなんて、玉玲には信じられないが。


 悶々もんもんと考えながら寝返りを打っていると、部屋の入り口からかすかな物音が響いた。

 文英が宮灯の火を確かめにきたのだろうか。妃嬪が暮らす部屋では、就寝中でも明かりをつけているのが普通だ。眠れないから消してくれるとありがたい。

 入り口に背中を向けていた玉玲は、ゆっくりと寝返りを打つ。


 扉の側にかけられていた宮灯が、端整な男性の顔をなまめかしく照らしだした。


「……え? 太子様!?」


 思いがけない人物の来訪に玉玲は驚き、臥牀から飛び起きる。


「どうしたんですか? ここは私の部屋ですよ?」


 幻耀の臥室しんしつは二つ離れていると聞いたが、間違えて来たのだろうか。

 口論したばかりだというのに、まさかおとないがあるとは思わず、玉玲は目をしばたたく。


 幻耀は無言で臥牀まで近づいてくるや、突然玉玲の体を押し倒した。


「ちょ、ちょっと、いきなり何するんですか!」


 起き上がろうとするも、幻耀が逃げ道を塞ぐように覆い被さり、身動きが取れない。

 息が届くほど間近に幻耀が迫っていた。ぞっとするほど鋭く、冷淡な顔で。

 その視線の冷ややかさに、玉玲は寒気を覚え、ビクリと肩を震わせる。


「何だ、これしきのことでおびえているのか? 乳臭い娘だな」


 幻耀はクッと小さくわらい、見下しきった表情で玉玲を凝視ぎょうしした。


「……太子様?」


 いったいどうしてしまったのだろう。彼はここまで驕慢きょうまんな男性だっただろうか。

 夜中になると男は変貌する。だから、よく知らない男性と夜に決して会ってはならないと、親バカな養父が言っていたけれど。

 あまりの印象の変化に玉玲は混乱し、ただ幻耀の顔を見あげる。


「お前は俺の妃としてここへ来たのだろう? ならば夜、何をされるかわからないほど幼稚ではあるまい。これから毎晩、お前の体をなぶってやる。どんなに痛いと泣き叫ぼうが。ボロボロになるまでな!」


 鋭く言い放つや、幻耀は玉玲の首筋をかみつくようにむさぼってきた。

 そこでようやく玉玲は、彼の目的を察知する。


「待って! 手は出さないって言いましたよね? 私みたいな子供は趣味じゃないって。子供じゃないですけど。って、ちょっと、やめてください!」


 抵抗を試みる玉玲だったが、幻耀は少しも体を離そうとしない。

 それどころか玉玲の夜着を肩口まではだけさせ、今度は鎖骨の下の柔肌に食らいついた。


「……んっ!」


 チクッとした痛みとくすぐったさをこらえながら、玉玲は必死に幻耀の腕を掴んだ。


「い、嫌です! こういうのは本当に好きな相手じゃないと! 私、胸も色気もないですよ? やめてください、太子様! やだ、やめて~!!」


 夜着をはぎ取ろうとする幻耀に反抗して、悲鳴をあげた直後――。


「何の騒ぎだ?」


 勢いよく扉が開くと同時に、誰かが室内へと飛びこんできた。


 玉玲は顔だけを入り口の方に向け、目玉が飛びだしそうなくらい仰天する。

 訝しげな顔をして立っていたのだ。今、体を押し倒しているはずの幻耀がもう一人。


「って、え? 太子様!?」


 すぐ側と入り口にいる人物を見比べてみるが、やはりどちらも幻耀だ。


 吃驚する玉玲を尻目に、入り口にいる幻耀は、もう一人の幻耀に冷たい視線を向けた。


「どういうつもりだ、漣霞れんか? それは俺に対する反抗か?」


 漣霞と呼ばれた幻耀は、玉玲から体を離して立ちあがる。


「嫌ですわ、幻耀様。ちょっとからかっただけじゃありませんの。ご挨拶代わりにね。ほんの冗談ですわ」


 玉玲がまばたきした瞬間、突然すぐ側に若い女性が出現した。


「ええっ!?」


 またもや裏返った声をあげてしまう。今日は叫びすぎて、もうのどが痛い。

 現れたのは、もふもふのしっぽが生えた二十歳くらいの女性だった。結いあげた長い髪は、しっぽと同じ狐色。つりあがりぎみの目は髪の色よりも少し淡い。凹凸のはっきりした豊満な体には、妃嬪さながらの華美な襦裙をまとっている。

 いかにも妖艶で、異様な雰囲気をかもす女性が突然現れたのだ。いや、現れたというより、変身したという表現の方が正しいかもしれない。


 瞠目どうもくしたまま観察していると、幻耀が玉玲に視線を移して尋ねた。


「見たことがないのか? 狐精こせいのあやかしを」

「ありますけど、みんな狐みたいな姿だったので。こんなふうに変身したところは……」


 ない。これまで会ったあやかしは、ほとんど動物の姿だった。


「化かされたのは初めてか。霊力のあるあやかしは人に変化する。妖術を極めた者なら、どんなものにも化けることができる。北後宮でその力があるのは漣霞だけだがな」


「あれ、でも、北後宮にはあやかしの力を封じる呪符が貼ってあるんじゃ……」

「漣霞だけは特例だ。呪符がきかなくなる護符を与えている。あやかしたちの情報を俺に流すことを条件にな。諜報員のようなものだ。まあ、あまり信用はしていないが」


 玉玲の疑問に答えるや、幻耀は漣霞に鋭いまなざしを向けた。


「漣霞、お前はあやかしの中では従順で、長年問題を起こすことはなかったから護符を与えていたが、くだらないことをするなら取りあげるぞ。問題を起こせば、お前でも容赦しない。天律に則り、処罰する」


 幻耀の手が佩帯はいたいしていた刀の柄へと伸びる。


「わかっておりますわ。二度とこのようなことはいたしません。幻耀様のお役に立てるよう、今後も見回りに励みます。どんな命令にも従いますわ」


 漣霞はにっこりと笑い、恭順の意を示すように拱手した。


「ならば、しばらくその娘の面倒を見てやれ。来たばかりで勝手がわからないこともあるだろう。北後宮に問題がないよう、共にあやかしたちの監視にあたれ。いいな?」

「承知いたしました」


 彼女の目と口はゆるやかな弧を描き、服従を示し続けている。貼りつけたような笑顔だ。


「今度またふざけたまねをしたら許さんからな」


 鋭く睨んで釘を差すと、幻耀は背中を向けて去っていった。



 部屋には、女二人と重苦しい空気だけが残される。


 玉玲は呆然としつつ、漣霞の様子をうかがった。冗談では済まないいたずらをされたような気がするが、従順な態度を見るかぎり、悪意はなかったのだろう。彼女とはつき合いが長くなりそうだし、楽しく仕事をするためには仲よくなっておいた方がいい。


「漣霞さん、って名前でいいんだよね? 私、玉玲っていうの。後宮には来たばかりで、わからないことだらけだから、いろいろと教えてね。どうぞよろしく」


 乱れたえりもとを整え、笑顔で挨拶する玉玲だったが。


「はあ? 何であたしがあんたとよろしくしなけりゃなんないのよ。あたしは特権が欲しくてあの方に従ってるだけ。ずっと獣の姿でいるなんてごめんだからね。逆らったら恐ろしいことになるから、問題なんて起こさないけど。子供のお守りなんて冗談じゃないわ」


 漣霞は顔つきも言葉遣いも一変させ、刺々しく言い放った。ゆるやかだった目もとはきつくはねあがり、口からは牙が見えている。まるで別人、じゃなくて別だ。


「あたし、人間の女って嫌いなのよ。あんた、相当ねんねみたいだから、ああやって脅してやれば泣いて逃げだすんじゃないかと思ったんだけど、バカみたいに声をあげるから、気づかれちゃったじゃない。危うく護符を取りあげられるところだったわ。ねえ、自分から出ていってもらえる?」


 鋭い口調で要求され、玉玲は困惑をあらわにする。望みがあるなら何でも聞いてあげたいところだが、幻耀との約束を破るわけにはいかない。


「それは無理だよ。もう妃になるって契約しちゃったし。あやかしたちのために精一杯働くから、仲よくしてもらえないかな?」

「仲よく? 冗談じゃないわ! 近くにいるだけで肌が荒れそうよ! 美容に悪いから金輪際近づかないでちょうだい!」


 漣霞は声を荒らげて言い放つや、勢いよく扉を開けて出ていってしまった。


 バタン! と閉まった扉を眺めながら、玉玲は深い溜息をつく。

 どうすれば幻耀に心を開いてもらえるのか悩んでいるところだったのに、彼女まで。


 誰かを笑顔にすることは、意外に難しい。

 契約妃としての後宮生活は前途多難だ。


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