第4話 北後宮の主【前編】
後宮は四夫人、九
玉玲が仕えることになった才人は、二十七世婦の最下位。つまりは四十人中、一番下にいる下級妃嬪だ。
李才人は、少女が話していた通りの人物だった。掃除や洗濯など、大量の仕事を押しつけたり、嫌みを言ったり。他の侍女に命じて、玉玲の
しかし、玉玲はいわゆる体力バカで、一日中体を動かしていても苦にならない。むしろ仕事をするのは好きだ。
口の悪い師兄とずっと一緒に過ごしてきたからか、遠回しな悪口など気にならない。
山から砂漠に至るまで、僻地を旅してきた玉玲にとって、虫や蛙は小さな友達だ。それらを用意した侍女の方が、よほどこたえていたに違いない。
嫌がらせが全くきいていない玉玲に、才人の苛立ちはどんどん募っている様子だった。
どうにかして玉玲に、ぎゃふんと言わせたかったのだろう。
玉玲が後宮入りして十日目。
風の強い午後に突然、才人は散歩にいくと言いだした。
みなが恐れている南後宮の北側、
玉玲も同行を命じられ、他二人の宮女と一緒につき従うことになった。
葉をまとわぬ柳の枝が風に揺れ、不気味な音を奏でている。奥に佇む高い塀は
「才人様、戻りましょう。ここ、気味が悪いです」
取り巻きの一人である宮女が、おびえながら才人に懇願する。
「そ、そうですよ。北後宮に一番近い場所なだけあって、いるだけで鳥肌が立ちます。何か出てきそう。きゃっ」
もう一人の取り巻きが訴えたところで、柳の枝から突如として
二人の宮女は小さな悲鳴をあげ、体を抱き合いながら、ぶるぶると震えだす。
「どう、玉玲? 怖い?」
才人だけは平静を装い、得意げに玉玲を見た。少しだけ彼女の肩も震えているが。
「いえ、別に。空気は悪いなぁって思いますけど」
玉玲は、からりとして答える。
恐怖は全くないが、漂っている空気だけは気になるところだ。黒く濁った
「北後宮って何なんですか? みんな怖がってますけど」
後宮はなぜか南後宮と北後宮にわかれ、間を高い塀で区切られている。南後宮は皇帝の居住区で、妃嬪と宮女が暮らしている場所だ。北後宮については、あまり知られていない。気味の悪い場所だと言って、宮女たちは怖がるばかりだ。
「あなた、知らないの? 『あやかし後宮』を」
「……あやかし後宮?」
「あちらの区域では、火の玉が飛んでいたり、独りでに扉が開いたり、何もない場所から突然物音が聞こえたりするらしいわ。あやかしが
鬼気迫った顔で語る才人の話に、またもや宮女たちが悲鳴をあげる。
才人は取り巻きたちを怖がらせたくて、ここへ来たのだろうか。
恐怖を
するとその時、南から突風が吹き抜けた。
それぞれの裙がひるがえり、才人の肩から腕にかかっていた
才人は披帛をちゃんと掴んでいたのに、わざと手放したような……。
「取ってきなさい、玉玲」
風がやむや、才人は当然のように言い渡した。
「あの披帛、絹でできたそれは高価なものなの。なくなったら困るわ。早く取ってきてちょうだい。これは命令よ」
玉玲は直感する。もしかしたら、才人はこれがやりたくて御花園に連れだしたのではないだろうか。
後宮において主人の命令は絶対だ。どんなに理不尽な指示でも従わなくてはならない。
自分が命じられたわけでもないのに、取り巻きたちの顔は真っ青だ。
「どうしたの? できない? 命令に従えないのであれば――」
「あっちの後宮って、入ってもいいんですか?」
さっさとお使いを終わらせたい玉玲は、念のために確認した。
「立ち入り禁止だという話は聞いたことがないわ。まあ、怖がって誰も入らないけど」
「じゃあ、ちょっくら行ってきますね。怖かったら戻っていていいですよ」
「行ってくるって……、ええっ!?」
才人が
玉玲は
雑伎団で長年、芸を鍛えてきた玉玲にとって、この程度の
唖然とする才人たちを尻目に、塀から飛び降りる。大人二人ぶんの高さは優にあったので、宙返りまでしてみせた。たまには練習しておかないとな。
さて、肝心の披帛は――。
「――あった!」
少し遠くの低木に細長い布を発見し、玉玲は瞳を輝かせた。
急いでその場所まで駆け寄り、引っかかっていた披帛を回収しようとする。
しかしその瞬間、横合いから黒い風が吹き抜けて、披帛を奪った。
いや、風ではない。黒い体毛に覆われた小動物だ。
披帛を口にくわえ、突風のような速さで逃げていく。
「待って! それは才人様の大事なものなの!」
玉玲は直ちに小動物を追った。
草が茫々と生えた緑地を、黒いもふもふはひたすら北へと駆けていく。
自分のものならあげてもいいが、見逃すわけにはいかない。手ぶらで戻れば、才人に何をされるか目に見えている。
「待て待て、泥棒! 返してよー!」
必死に食らいつき声をあげると、小動物はビクリとして立ちどまった。
恐る恐る振り返り、玉玲に驚愕のまなざしを向けてくる。
「お前、おいらが
どうやら、気づかれていないと思いつつ走っていたようだ。
「視えるよ。やっぱり君、あやかしだったんだね」
玉玲は笑みを浮かべながら小動物に近づき、まじまじと観察した。
縦長の瞳孔は黒く、虹彩の色は金。三白眼ぎみの目がやんちゃそうで愛らしい。
一見、黒猫のようだが、しっぽが二股にわかれている。ちまたの猫より耳も大きい。
普通の猫はしゃべらないし、見た目も少しだけ違う。
あやかしと会ったのは旅の途中、山で見かけて以来。四年ぶりくらいだろうか。あやかしは結構希少なのだ。
「久しぶりだぁ」
うれしくなって体をもふもふ
「気安く触るなぁ! おいらはこわーいあやかしだぞ? 呪ってやるんだぞ~?」
「あやかしはそんなことしないよ。あとで遊んであげるから、まずはその披帛を返してもらえる? 私の主人、すごく面倒くさい人なんだ」
猫怪の
「お前、おいらが怖くないのか?」
「うん、全然。かわいいよね」
「だから、もふもふするなー!」
体を撫で回してきた玉玲をシャーッと
「あっ、待ってー!」
もちろん玉玲もすぐにあとを追う。
ぬかるみや茂みなどの障害物も難なく飛び越えて。
俊足で身軽な猫怪の走りにも、距離を離されることなく食らいついた。
「くっ、何てすばしっこいやつなんだー! お前、ほんとに人間か?」
人間離れした速さと動きを見せる玉玲に、猫怪は焦燥をあらわに尋ねる。
「いちおうね。駆けっこなら誰にも負けないよ。そろそろ返してもらえるかな?」
玉玲は息を切らせることもなく言って、猫怪に迫った。
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