第5話 北後宮の主【後編】
「このひらひらは、おいらのもんだー!」
猫怪は気合いの雄叫びをあげるや、一気に加速し、草道を西へと曲がっていく。
さすがに本気の猫怪にはかなわず、距離が開いた。
茂みにまぎれこまれでもしたら、完全に見失ってしまう。
これはちょっとまずいなと、危機感を募らせた時だった。
前方を駆けていた猫怪がピタリと動きを止める。何か恐ろしいものにでも遭遇したかのように。ぶるぶると震えだしたのだ。
いったいどうしてしまったのだろう。
不穏な気配を感じて立ちどまると、池の
その麗姿を視界にとらえた瞬間、玉玲ははじかれたように目を見開く。
長身で引きしまった体にまとっているのは、銀糸で
瞳の色は遠くからだと黒とも青とも判別がつかない。ただ言えるのは、とても冷ややかだということ。
氷細工のように冷冷たる美貌の青年が、桃の木の下に立っていた。
会ったこともない男性のはずなのに、なぜか胸がざわついて目を離せない。
身動きもできずに見入っていると、青年が猫怪へと近づきながら尋ねた。
「お前がくわえているものは何だ?」
完全に
「それが盗んだものであるなら、
青年の手が、腰に
その瞬間、玉玲の脳裏に十二年前の光景がよぎった。
斬られるあやかしを何もできずに眺めていた記憶が――。
「待って!」
玉玲は直ちに声をあげ、猫怪の前へと飛びだしていく。
もう二度とあの時のような思いはしたくない。
「それは私がその子にあげたんです! そんな簡単にあやかしを殺さないで!」
十二年前のことを思い出しながら訴えると、青年は驚いたように眉を動かした。
「お前、あやかしが視えるのか?」
そうだ、似ている。状況だけではなく、顔立ちも雰囲気も。
十二年前、玉玲の前であやかしを斬った青年に。
「……あの時の人ですか?」
玉玲は
「またあやかしを殺すんですか?」
玉玲の中では、目の前にいる青年と十二年前の青年が完全に重なって見えていた。
束の間、
「物を盗んだだけなら殺しはしない。だが、二度と盗むことがないように手を斬り落とす。それが天律だ」
「盗んだだけで!? そんなのひどい!」
「あやかしは
「あやかしはそんな悪い存在じゃありません! 私が会ったあやかしは、陽気で人なつっこくて優しい子ばかりでした。悪さなんて、かわいいいたずら程度です。わけもなく排除しようとする人間の方がずっとひどい!」
淡々と返す青年に、反感を募らせた玉玲は声高に主張した。
「攻撃されたら反撃もするでしょう。人に害を与えるあやかしはいるのかもしれない。でも多くの場合、それは人間に原因があるんです。優しく接すれば、同じ優しさを返してくれる。遊び相手になってくれたり、心を癒してくれたり。あやかしに望むことがあれば、行動で示せばいい。優しく導いてあげれば、あやかしは絶対に悪さなんてしません!」
夜色の冷たい瞳と視線を交えながら断言する。己の信念に従って。
今度こそ自分の手であやかしを守り通すのだ。
決意をたぎらせながら見据えていると、青年は感情の読めない
「ならば、お前はあやかしが悪さをしないように導くことができるのか?」
「できます!」
玉玲は即答する。そう答えなければ、きっと側にいる猫怪のことも助けられない。己を通すために一歩も引くわけにはいかなかった。
「名前を聞いておいてやる。どこの者だ?」
「李才人に仕えている玉玲です。十日前に宮女になりました。あなたは誰ですか?」
玉玲は素性を告げるや、すぐに訊き返す。会ってからずっと気になっていた。子供の頃、あやかしを殺した青年ではないかと。
「十二年前、
「……阿青?」
「私、以前杜北村に住んでいたんです。その時、助けてくれた少年の名前。優しくて澄んだ目をしていて、この人になら友達をまかせられると思って、猫のあやかしを託したんです。とても穏やかで、きれいな空気をまとっていて」
何年たっても忘れられない。きらきらと輝いて見えた少年のことが。目の前にいる青年があの少年の兄であるなら、阿青と天天が今どうしているのか知っているかもしれない。
「もしかして、あなたは杜北村に来て、あやかしたちを斬った青年ですか? 弟の名前は阿青っていうんじゃないですか?」
阿青の情報を求め、期待を込めて訊く玉玲だったが、青年は冷ややかに答えた。
「知らん。人違いだ」
「……そうですか」
玉玲は少し肩を落としつつ、すんなり受けとめる。
よく考えてみれば、別人だと理解できた。目の前にいる青年の年齢は、見た感じ二十歳手前。杜北村で会った青年であれば、今は三十近くになっているはずだ。阿青となら年頃が合致するが、まとう空気や印象が似ても似つかない。
納得していたところで、青年が玉玲たちに背中を向けて歩きだした。
「あの」
いちおう素性を聞いておきたくて、玉玲は声をかける。彼にもあやかしが視えていることは確かだ。いったい何者で、どうしてこんな場所にいるのだろう。
「近々また会うことになる」
詳しく話を聞きたかったが、青年は素っ気なく告げて、東の通りへと消えていった。
後宮は原則、男子禁制だ。皇帝以外で出入りができるのは、宦官と十三歳以下の皇子のみ。皇帝は四十を過ぎているらしいから、彼は後宮内を警備する宦官だったのだろう。
一人納得した玉玲は、とりあえず危機を回避できたことに
「もう大丈夫だよ」
震えていた猫怪だったが、優しく頭を撫でてやると、徐々に平静さを取り戻していった。
青年が戻ってくる気配はないし、もう心配ないだろう。
「さて、帰るか」
玉玲は猫怪を思う存分もふもふしてから立ちあがった。
「おいっ。いいのか? このひらひらは?」
我に返った猫怪が、披帛を示して問いかける。
「さっき、『あげた』って言っちゃったからねぇ。もらったことにしておきなよ」
「でも、お前、面倒くさい主人がいるんだろう?」
「まあね。でも、私なら軽く叩かれたりするだけだから。君が手を斬られるよりましでしょう?」
青年から猫怪を守りたくて、とっさに嘘をついてしまった。その責任は負わなければならない。主人のもとへ戻るのは、非常に気が重いけど。
「じゃあね。今度時間があったら遊ぼうね」
玉玲は笑顔で猫怪に別れを告げた。
「お、おいっ」
猫怪に呼びとめられた気がしたが、すでに走り始めていた玉玲の足は止まらない。
あまり待たせると、才人の機嫌が更に悪くなってしまう。
軽い処罰で済むことを祈りながら、玉玲は来た道を駆け戻っていった。
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