第3話 初出勤


「師父、師兄。私、しばらく後宮で働くことになったから。三年は戻ってこられないと思うけど、毎月お金は送るから、後のことはよろしくね」


 一大決心をした翌日。正房おもやを訪れた玉玲は、臥牀しんだいに体を横たえている養父とその側にいる雲嵐に、あっさり別れの挨拶をした。


 養父は閉じていた目を丸くし、雲嵐は「……は? 後宮?」と言って、耳の穴をほじる。


「何寝ぼけたこと言ってんだ。お前みたいなちんちくりんのじゃじゃ馬が、後宮なんかで雇ってもらえるわけねえだろ」

「失礼ね! もう審査は通ってるよっ。すぐにでも来てくれって懇願されたくらいなんだから」


 玉玲は目を三角にして主張し、得意げに胸を張った。

 午前中さっそく城におもむき、簡単な面接を経て宮女になることが決定したのだ。人手不足は相当深刻なようで、誰でも合格できるような審査ではあったけれど。


「お前が? その話、絶対裏があるって。相当やばい仕事だろ」


 雲嵐の指摘に、玉玲はギクリと肩を震わせつつ答える。


「そんなことないよ。掃除や洗濯がおもだって言ってたし。大丈夫だって」


 いわくつきの仕事であることは言わない方がいいだろう。兄弟子にこれ以上あなどられたくないし、養父に余計な心配をかけたくない。


「玉玲、後宮で働くなんておやめ。お前は気立てがよくてかわいいから、高貴な人に見初みそめられて、妃にされてしまうかもしれないよ?」


 不安を押し隠していると、養父が親バカ全開の疑念を向けてきた。彼は芸事に関しては厳しいが、基本は優しい性格で、玉玲を実の娘のように溺愛している。


「師父、その心配だけは必要ねえから。天地がひっくり返ってもありえねえ」


 雲嵐が玉玲を見て鼻で笑い、養父の肩をポンポンと叩いた。


「何か、めっちゃ腹立つけど、師兄の言う通りだよ。心配しないで、師父。私みたいな下っは皇帝陛下の目に触れる機会もないみたいだし。ただの雑用だって。掃除も洗濯も料理だって得意だから大丈夫」


 玉玲は兄弟子への苛立いらだちをどうにか抑え、養父に懇々こんこんと言い聞かせた。

 働きに出ている団員たちの代わりに、家事は全て自分が担当していたのだ。特に料理は京師に来てからめっきり腕をあげ、団員たちから賞賛されることも多い。


「だが、三年も戻ってこられないんだろう? 私なんかのために、これ以上お前に不自由な思いをさせるわけにはいかないよ」


 憂鬱ゆううつそうに顔を曇らせる養父に、玉玲はかぶりを振って訴える。


「ううん、師父。これは師父のためというより自分自身のためなの。私、またみんなで各地を巡業したい。そのためには絶対師父が必要なの。師父がいなければうちの団は成り立たない。だから、師父は私のために治療に専念して。三年たったら必ず戻ってくるから」


 玉玲の一番の願い。それは養父に早く元気になってもらうことだ。しばらく離れて暮らすのはつらいけれど、願いを叶えるためならどんな苦労もいとわない。


 決意の強さを伝えるように見据えていると、養父はいつになく神妙な顔をしてこう言った。


「ならば玉玲、一つ約束しておくれ」


 どんな難題を言い渡されるのだろうと、身構える玉玲だったが。


「仕事を楽しむこと。お前が幸せに暮らしてくれなければ、私の病なんてえないよ。だから、いつでも笑っていておくれ。周りの者まで笑顔になるように」


 思わぬ言葉を耳にして、体から力が抜ける。

 養父も頑固なところがあるから、絶対に渋られると思っていた。反対されたら密かに家を出ようとしていたのだけど、顔を見ただけでその考えも全部読み取ってしまったらしい。

 養父は玉玲のことを知り尽くしている。止められないのなら、どうすることが玉玲にとって一番いいか考えるはず。

 仕事を楽しむこと。今の言葉がその答えだ。


「わかった。約束する」


 玉玲は感謝の気持ちを胸に告げた。

 養父の言葉がなければ、つらい心境のまま仕事にのぞんでいただろう。

 信念を持って働けば、これからの三年はきっと有意義なものになる。

 一気に心が軽くなり、がんばろうという気持ちが増した。

 養父のために、自分自身のためにも仕事を楽しむのだ。


 決意を新たにして養父を見つめ、兄弟子に視線を移す。


「お前は一度決めたことは絶対譲らねえからな」


 雲嵐は深い溜息をつくと、玉玲から目をそらし、素っ気なく言った。


「さっさと稼いで戻ってこいよ。お前みたいなのでも、いちおううちの花形なんだからな。お前がいねえと、ここから動けねえ」


 冷ややかな言葉の中に隠された思いを感じ取り、玉玲の胸は熱くなる。

 彼は、待っていると言ってくれているのだ。

 いつも小言ばかりだけど、仲間として誰よりも自分のことを認めてくれている。


「うん。戻ったら絶対またみんなで旅をしようね!」


 玉玲は全開の笑顔でこたえた。二人に少しでも安心してもらえるように。胸に残る不安を全て吹き飛ばすように。

 この日の約束と笑顔を忘れずに生きようと固く誓ったのだった。



    ※



 十二体の鴟尾しびを頂く瑠璃瓦るりがわらが、昼下がりの日差しを受けてきらめいている。

 五百年という長きにわたって、暘帝国の中央部に鎮座している皇宮・紫垣城しえんじょう

 建物の数は七百を超え、部屋数は八千室に及ぶという。京師の北部を陣取るこの巨大な宮城が、今日から暮らすことになる玉玲の新しい職場だ。


 いくつもの門を抜けると、その奥にもう一つの異質な町が広がっていた。

 高い塀に挟まれた紅牆こうしょうの路。

 色鮮やかな彩色が施された圧巻の建築群。

 全ての建物の梁架りょうかには、沈金による龍や鳳凰の文様があしらわれている。

 延々と続く路に敷かれているのは、漢白玉かんはくぎょくと呼ばれる白大理石だ。

 壮大な規模と神秘的な装飾に、ただ圧倒される。


  ――ここが暘帝国の後宮。


 玉玲は漢白玉の路を歩きながら、仙界のごとき光景に目を奪われていた。

 奥へ進むにつれて緑が広がり、蓮池に面して築かれた楼台ろうだいや、奇石を積み上げた仮山かざんまで見える。


「何をしているの? さっさとしなさい」


 思わず立ちどまり、見入っていると、前方にいた案内役の宮女が急かしてきた。


「はい、すみません!」


 玉玲はあわてて謝り、宮女のあとを追う。


 宮女は簡単な連絡事項を伝えると、玉玲を宿舎に連れていき、すぐに去っていった。別れ際、他にわからないことがあったら同室の宮女に訊けと、つけ加えて。

 かなりいい加減な対応だ。まあ、みな忙しいのだろう。宮女の仕事はきついと聞くし。

 玉玲は気を取り直して、指定された部屋に足を運んだ。


 石の床に衾褥ふとんが四組だけ置かれている。四つ敷けばいっぱいになりそうなほど狭くて簡素な部屋だ。ここへ来るまでに見た、きらびやかな光景からはほど遠い。

 ぼんやり観察していると、洗い物を抱えた少女が後ろを通りかかった。

 身につけているのは、白い衫とくるぶしだけの裙。衫の上には、唐草文様の刺繍が施された朱色の比甲チョッキを羽織っている。宮女のお仕着せだから、同じ宿舎に暮らす同僚だろう。


 楽しく仕事をするために、職場の仲間と仲よくなることは重要だ。


「こんにちは。私、今日から働くことになった玉玲っていうの。どうぞよろしくね!」


 玉玲は少女に元気よく挨拶する。


 しかし、返事はない。足早に後ろを通りすぎようとする。


「ねえ」


 肩を掴んで呼びかけると、少女は迷惑そうな表情で口を開いた。


「あなたは売られてきたの? それとも、身内が借金でもした?」


 唐突な質問に、玉玲はただ目をしばたたく。


「今、宮女になるのは、そういった子ばかりよ。こんな死と隣り合わせの場所で働くのは、よほどの事情があるか、無知な田舎者くらいね。みんな三年無事に生き延びることで必死なの。これからは必要事項以外話しかけないで」


 少女は生気のない目をして告げ、玉玲に背中を向けた。


 すさんでいる。人も空気も。玉玲は明確に感じ取る。後宮を奥へと進むにつれて悪くなる空気が、実は気になっていた。何やら黒く濁っているかのように。その空気の影響で、少女は心まですりきれてしまったのだろうか。

 構わず、玉玲は再び少女に話しかける。


李才人りさいじんっていう人がどこにいるか知らない? その人に仕えるよう言われたんだけど」


 少女は溜息をついて振り返り、気の毒そうに玉玲を見た。


「あなた、ほんとついてないわね。よりによって、李才人だなんて」

「何か問題がある人なの?」

「新人いびりで有名なのよ。できないことをやれと命じたり、陰湿な嫌がらせをしたり。下級妃嬪ひひんなんて主上のお渡りはまずないから、宮女をいじめてさばらししてるんでしょうね。私の主人も意地悪だけど、李才人よりはましだわ。せいぜい気をつけることね」


 情報は不穏なものだったが、玉玲は温かい気持ちになって礼を言う。


「ありがとう。いろいろ教えてくれて」

「べ、別に」


 少女はぶっきらぼうに答えると、かすかに頬を赤く染めて去っていった。


 根はいい人なのかもしれない。おそらく後宮の空気に汚染されて、少しだけ心がすさんでいるだけだ。空気さえよくなれば、本来の性格を取り戻せるのではないだろうか。きっと周りにも笑顔が増えて、自分も楽しく仕事ができるはず。


「よし、がんばろう!」


 玉玲は両頬を軽く叩いて、気合いを入れ直す。養父の薬代を稼ぐために、そして少しでも後宮の空気をよくするために、できるかぎりのことをしよう。


 こうして、若干の不安と大いなる決意を胸に、玉玲の後宮生活が始まった。

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